續猿蓑集

巻之上脚注


續猿蓑集 巻之上
 
 

                  芭蕉

八九間空で雨降る柳かな

 春のからすの畠ほる聲       沾圃
<はるのからすの はたけほるこえ>。カラスが数羽畠に下りて、声を上げながらさかんに土を掘っている。春の日のゆったりした時間が流れていく。

初荷とる馬子もこのみの羽織きて   馬見
 
<はつにとる まごもこのみの はおりきて>。 前句の春は新春の春のこと。だから、馬方の親方も初荷を運ぶにお気に入りの一着を着用して馬の背に荷を運ぶ。

 内はどさつく晩のふるまひ     里圃
 
<うちはどさつく ばんのふるまい>。 馬方の親方の家では、子分たちが集まって新年の祝いをやる。その準備にうちの中はてんやわんやの大騒ぎ。

きのふから日和かたまる月の 色     沾
 <きのうから ひよりかたまる つきのいろ>。 昨日辺りから天気が安定してきた。月が安心して眺められる程に。

狗脊かれて肌寒うなる         蕉
 <ぜんまいかれて はださむうなる>。 前句の季節は秋。だからぜんまいも枯れて風も冬に近く寒い。

澁柿もことしは風に吹れたり      里
<しぶがきも ことしはかぜに ふかれたり>。今年は風の当たり年で、風害にあって渋柿も実をつけない。

 孫が跡とる祖父の借銭        見
<まごがあととる そふのしゃくせん>。そんな貧しい家には、祖父の残した借金がまだ残っている。それなのに渋柿までが不作だったのである。

脇指に替てほしがる旅刀        蕉
<わきざしに かえてほしがる たびがたな>。 その祖父の遺産である旅刀、平和なこの時代無用の長物で、いっそのこと脇差に取り替えて欲しいと刀自身が願っている。

 煤をしまへばはや餅の段       沾
<すすをしまえば はやもちのだん>。その理由は、煤はきが終われば、もう年の暮。餅つきをしなくてはならない。その費用が必要なので、長刀と脇差の差額を餅代に充てたいものだ。

約束の小鳥一さげ賣にきて       見
<やくそくの ことりひとさげ うりにきて>。年末に少々収入があるので、年が明けたら、焼き鳥用の小鳥を持ってくると予約していた、鳥刺しが小鳥を一束売りに来てくれた。

 十里ばかりの余所へ出かゝり     里
<じゅうりばかりの よそへでかかり>。ところが、生憎十里ほど他所へ出かけなければならない用事が出来してしまったのだ。

笹の葉に小路埋ておもしろき      沾
<ささのはに こみちうもれて おもしろき>。その十里の旅に出てみると、山中の小道は笹の葉に埋もれて風情ある様子。

 あたまうつなと門の書つ け      蕉
<あたまうつなと かどのかきつけ>。そこを通って目的地の人の門に着いてみると、そこには門に「頭を打つな」と書いてある。低い門だから自ずとお辞儀をしなくては入れない構造になっているのである。

いづくへか後は沙汰なき甥坊主     里
<いずくへか あとはさたなき おいぼうず>。ところが頭を下げて門をくぐってみるとこの家の主人は留守だ。「なんと無礼な甥っ子め!」と思わず悪態をついてしまった。

 やつと聞出す京の道づれ       見
<やっとききだす きょうのみちづれ>。その「甥」は何処へ行ったかと近所を聞いて歩くと、なんと京都へ女と道連れしたとのこと。何と呆れることではないか。

有明におくるゝ花のたてあひて     蕉
<ありあけに おくるるはなの たてあいて>。「たてあう」は張り合うこと。有明の月に浮かび上がってくる遅咲きの桜の花は、道行く坊主と張り合うように咲いている。

 見事にそろふ籾のはへ口       沾
<みごとにそろう もみのはえぐち>。しかし、田んぼの中では苗代の籾が見事に生えそろっていまや田植えを待っている。

春無尽まづ落札が作大夫        見
<はるむじん まずおちふだが さくだゆう>。前句の苗代の作者は篤農家の作太郎である。彼は、この春初の無尽を落札する幸運を捕まえた。正直は報われるのである。

 伊勢の下向にべつたりと逢      里
<いせのげこうに べったりとあう>。落とした無尽は旅行無尽なので、作太郎は伊勢参宮する。途中村の知り合いにばったりと会ってしまった。

長持に小挙の仲間そはそはと      沾
<ながもちに こあげのなかま そわそわと>。「小挙」は運送労働者。伊勢神宮に着いてみると、大名であろうか長持ちなど大量の荷物を小挙げに運ばせている。貴重なものなので彼らはそわそわと作業をしている。

 くはらりと空の晴る青雲       蕉
<からりとそらの はるるあおぐも>。空はからりと晴れ渡り、青い雲が流れていく。

禅寺に一日あそぶ砂の上        里
<ぜんでらに いちにちあそぶ すなのうえ>。 そんな、気持ちのいい一日を禅宗の寺の簡素な雰囲気の中で過ごす。身も心も清浄な気持ちになる。

 槻の角のはてぬ貫穴         見
<けやきのかくの はてぬぬきあな>。「槻の角<けやきのかく>」は寺の角柱のケヤキで作られたもののこと。そこに横から梁を入れるために角穴をあけるのだがその貫穴が今日一日かかっても開かなかった。前句を禅寺の建築工事現場として棟梁の述懐。こんな硬いケヤキ材で能率が上がらないから一日遊んだも同然だと自嘲しているのであろう。

濱出しの牛に俵を運ぶ成り       蕉
<はまだしの うしにたわらを はこぶなり>。 まるで硬いケヤキの角材に貫穴を開けるのと同様に遅々とした作業だが、のろのろと牛を使って俵に詰めた荷物を浜の港に運んでいる。前句を、遅々としながらも進む仕事にたとえた。

 なれぬ娵にはかくす内証        沾
<なれぬよめには かくすないしょう>。お嫁に来て間もない嫁には我が家の窮状を話さない。前句の浜に荷物を運び出しているのは実は家財を売って急場をしのぐための行為だったのである。そんなことは、裕福だと思って嫁してきた若妻には話せないのである。

月待に傍輩衆のうちそろひ       見
<つきまちに ほうばいしゅうの うちそろい>。 「月待」は、特定の月齢の日に講の仲間が集まり、供物をそなえて月の出を待ちながら、飲食をともにし、月を拝む行事。十三夜・十五夜・十七夜・十九夜・二十三夜などに行う(『大辞林』)。この夜は気の合った友人ばかりで親密な話をするのだが、その折には妻にも話せない男同士の話をするのだ。どうせ、色町の女の話になって終わるのだろうが?

 籬の菊の名乗さまざま        里
<まがきのきくの なのりさまざま>。くだけた話はやがて、垣根に咲いている「菊」の話になる。ここで「菊」は華街の女であり、友人達夫々が付き合っている女の名前など有る事無い事様々に話すのである。

むれて来て栗も榎もむくの聲      沾
<むれてきて くりもえのきも むくのこえ>。前句の賑やかなことは、まるでムクドリの大群がやってきて椋木ばかりか榎木や栗木などの枝で群れ騒ぐのと良く似ている。

 伴僧はしる駕のわき         蕉
<ばんそうはしる のりもののわき>。前句のムクドリの騒ぎは何か不吉な事態の発生を予感させる。貴僧の一行はこの事態を受けて大急ぎで寺に帰る。伴走の階級の低い僧侶達は篭の脇を固めて息せき切って走っている。

削やうに長刀坂の冬の風        里
<そぐように なぎなたざかの ふゆのかぜ>。前句は、寒風吹きすさぶなぎなた坂(嵯峨野にある坂道という)での情景。

 まぶたに星のこぼれかゝれる     見
<まぶたにほしの こぼれかかれる>。長刀坂の峠のその先には冬の星座がまばたいている。

引立てむりに舞するたをやかさ     蕉
<ひきたてて みりにまわする たおやかさ>。 前句の「まぶたに星」は涙の粒。拉致してきた女に舞を強要する。静御前の鎌倉八幡宮での舞を連想して。

 そつと火入におとす薫        沾
<そっとひいれに おとすたきもの>。火入れはタバコ盆の灰入れに種火を入れる入れもの。そこへ香を入れておくので良い香りが立ち込めている。茶屋での芸者の接客。

花ははや残らぬ春のたゞくれて     見
<はなははや のこらぬはるの ただくれて>。桜の花は既に散って肌寒さの残る晩春の宵。

 瀬がしらのぼるかげろふの水     里
<せがしらのぼる かげろうのみず>。瀬頭の付近に陽炎が立って、春は今本番。 「瀬頭」は、ゆるやかな流れから、波が立ちはじめて瀬になりはじめる所(『大辞林』)


                 馬見

雀の字や揃ふて渡る鳥の聲
<カラのじや そうろうてわたる とりのこえ>。「雀」の字の付く鳥といえば、村雀・家雀・四十雀・山雀・・・など多数ある。これら雀類は、秋になると人里に降りてくる。その賑やかなこと!!

 てり葉の岸のおもしろき月     沾圃
<てりはのきしの おもしろきつき>。「てり葉」は照葉樹。秋の澄んだ月の光が照り葉の葉の上で踊っている。浄夜の景

立家を買てはいれば秋暮て      里圃
<たちいえを こうてはいれば あきくれて>。この秋は、建売の一軒家を買ってここに越してきた。さまざまな事のあった秋だがこうして秋も暮れていくなあ。安堵と回顧

 ふつふつなるをのぞく甘酒      見
<ふつふつなるを のぞくあまざけ>。甘酒を仕込んだのだが、盛んに醗酵して、ふつふつと泡が吹き出してくる音がしている。これをご近所に配って転居の挨拶にしよう。

霜氣たる蕪喰ふ子ども五六人      沾
<しもげたる かぶくうこども ごろくにん>。子供達が五六人徒党を組んで、霜をかぶったカブラの白い大根を畑から抜いて頬張っている。彼らにも甘酒を飲ませたやるか。

 莚をしいて外の洗足         里
<むしろをしいて そとのせんぞく>。子供達に畑で泥のついた足を洗わせて、庭に敷いたむしろの上で行儀良く甘酒を飲ませよう。

悔しさはけふの一歩の見そこなひ    見
<くやしさは きょうのいちぶの みそこない>。男は足を洗いながらしきりと悔しがっている。それというのも今日の商いで儲かるところを最初の一歩を見誤ったばかりに失敗したからである。

 請状すんで奉公ぶりする       沾
<うえけじょうすんで ほうこうぶりする>。「請状」は、江戸時代、保証人が出した奉公人の身元保証書。本人がキリシタンでない旨も記入した(『大辞林』)。なにしろ請状がうまく受理されて、こうして職にありつけて、いまでは番頭として商売をさせてもらっている。さかんに働きぶりをアピールしている男の姿。

よすぎたる茶前の天氣きづかはし    里
<よすぎたる ちゃまえのてんき きずかわし>。「茶前」は、朝飯の前。この新米の奉公人は、朝飯前に今日の天気はよすぎて、途中から悪化するのではないかと気になりますね、と一番番頭か主人に話すぐらい「奉公ぶり」をして見せているのである。

 有ふりしたる國方の客        見
<あるふりしたる くにがたのきゃく>。 故郷から来たという客人。財産家のような顔をしているがどうも素寒貧らしい。宿賃を浮かすために居候ではないか?天気が悪くなるのでもう一日泊めてくれとでも言い出しそうな雰囲気だぞ!!??

何事もなくてめでたき駒迎       沾
<なにごとも なくてめでたき こまむかえ>。「駒迎」とは、平安時代、御牧から貢進した馬を、天皇が御覧になって、御料馬を定める儀式。毎年 8 月 15 日、のちに16日に行われた。これを駒牽きというが、このとき馬を官人が逢坂関まで出迎えたことを駒迎えという(『大辞林』)。今年も、この行事が無事終わり、その折郷里から出てきた知人がずいぶん財産をためたようなことを昨夜話していたのである。

 風にたすかる早稲の穂の月      里
<かぜにたすかる わせのほのつき>。駒迎えの季節は早稲の実る季節でもある。台風など何事も無かったので今年も豊作のようだ。秋の月に穂波が揺れている。

臺所秋の住居に住かへて        見
<だいどころ あきのすまいに すみかえて>。夏は養蚕などをするので、蚕室向きに家の間取りを変える。秋になって米の収穫向けに台所を移す。

 座頭のむすこ女房呼けり       沾
<ざとうのむすこ にょうぼうよびけり>。目の見えない息子にお嫁さんが来てくれたので、台所を嫁に明け渡して、自分たちは隠居所に引っ越した。人生の秋でもある。

明はつる伊勢の辛洲のとし籠り     里
<あけはつる いせのからすの としごもり>。「伊勢の辛洲」は、香良洲神社のこと。「祭神は天照大神の御妹神である天稚日女命<わかひるめのみこと>。古くからお伊勢参りをして香良洲に参らぬは片参宮」とまでいわれています」(かんこうみえHPより)。座頭の息子は、香良洲神社に越年のお篭りをして晴れてお嫁さんを迎えた。


 簔はしらみのわかぬ一徳       見
<みのはしらみの わかぬいっとく>。年篭りには蓑を着てやったのだが、これの利点はシラミがつかないことだ。

俵米もしめりて重き花盛        沾
<ひょうまいも しめりておもき はなざかり>。蓑から俵を出し、桜の季節には水気を吸って米が重くなるとして、季替えの付句。

 春静なる竿の染かせ         里
<はるしずかなる さおのそめかせ>。つむいだ糸(かせ糸)を巻き取るのに使うのかせ車で、かせ糸を掛けて回転させる車。かせ糸を小枠に移す時などに用いる。とんぼとも(『大辞林』)。米俵が重くなるような季節には、かせ車がのんびりと回る季節でもある。(かせの字は糸偏に盧)

鶯の路には雪を掃残し         見
<うぐいすの みちにはゆきを はきのこし>。鶯は、ミソサザイなどと同じように薄暗い藪のようなところを渡っていく。庭の隅のそんな場所は雪掻きもままならない。掻き残した雪のある箇所はさながら鶯の道というようなもの。

 しなぬ合点で煩ふて居る       沾
<しなぬがてんで わずろうている>。自分の病気は今すぐ死ぬようなものではないと合点しながら春の日を養生に努めている。だから雪掻きもするのだが、鶯の道だけは大切に残して、鶯が渡るのを楽しみにしている。

年々に屋うちの者と中悪く       里
<ねんねんに やうちのものとなかわるく>。長患いの老人。わがままと頑固で家族と折り合いが悪くなっている。この分じゃ何時になっても死なないよ、と陰口をたたかれているのも知らないで本人は煩っている。

 三崎敦賀の荷のかさむ也       見
<みさきつるがの にのかさむなり>。前句の「屋うちの者」は同業者のこと。ここでは海運の運送業者らしい。越前敦賀や能登三崎の業者とうまくいっていないらしく、そこへの荷が滞っているのである。

汁の實にこまる茄子の出盛て      沾
<しるのみに こまるなすびの でさかりて>。前句の荷物が停滞したのは海が荒れているためである。そのために陸では農産物が不作になって、茄子の出盛りにもかかわらず、おみおつけの実にも困るほどナスが取れないのである。

 あからむ麥をまづ刈てとる      里
<あからむむぎを まずかりてとる>。ナスはともかく麦秋の季節、黄色くなってきたのでその刈り取りが先だ。茄子の手入れはそれからだというのであろう。この時代なら、麦の列の間にナスを植えつけたであろうから、ナスは日陰になって成長が阻害されていたはずである。

日々に寺の指圖を書直し        見
<にちにちに てらのさしずを かきなおし>。麦刈りを終えたら土用の農閑期になる。そうしたら寺の修復普請に村人はかり出される。その日程を農作業の進捗状況に合わせて書き直している。

 殿のお立のあとは淋しき       沾
<とののおたちの あとはさみしき>。領主が死んだ。その葬儀が何日も続いて、寺はある意味で活気に溢れていた。しかし、全日程を終えてしまうと、あらためて悲しみが加わって、全山が寂寥感に包まれている。

錢かりてまだ取つかぬ小商       里
<ぜにかりて まだとりつかぬ こあきない>。借金をして商いをしようというのだが、領主の死後、城下は喪に服しているものだから不景気で、商売どころではなくなってしまった。

 卑下して庭によい料理くふ      見
<ひげしてにわに よいりょうりくう>。商いはさっぱりですと言いながら、庭で豪勢な料理を食っているという。損か得か、どっちが本当なのか?

肌入て秋になしけり暮の月       沾
<はだいれて あきになしけり くれのつき>。秋の夕暮れはつるべ落とし。月の出る時刻ともなると急に寒くなる。人々は、日中は片肌脱いで仕事をしていたが、この時刻には着物の中に腕をしまって、庭に用意した膳につく。建築現場か何かでの職人達の様子か。

 顔にこぼるゝ玉笹の露        里
<かおにこぼるる たまざさのつゆ>。夕暮れとともに笹の葉の上には早くも露がついている。寒いわけだ。

此盆は實の母のあと問て        見
<このぼんは まことのははの あとといて>。今年の盂蘭盆会には実母の何周忌の法事を予定している。思い出すだけでも悲しくなって涙が頬を伝わってくる。

 有付て行出羽の庄内         沾
<ありつきてゆく でわのしょうない>。浪人生活を脱して出羽藩に扶持をくれるという。こうなると再び郷里に帰ってこられるか分からないので、この盆には亡き母の墓前をおとずれたのである。

直のしれた帷子時のもらひ物      里
<ねのしれた かたびらどきの もらいもの>。折りしも「帷子時=かたびらは夏の着物だからこれを着る暑い季節のこと」、値の張らない品物を餞別にといって持ってきてくれる。酒田に持っていく贈り物。

 聞て氣味よき杉苗の風        見
<ききてきみよき すぎなえのかぜ>。夏の季節、杉苗の畑を通ってくる風だけは心地よい。安物ばかり餞別にもらうのは夏だからとはいえ、夏の季節にいいこともある。それが杉苗の風だ。

花のかげ巣を立雉子の舞かへり     沾
<はなのかげ すをたつきじの まいかえり>。この季節に、巣立ちを向かえた雉の子供達が風を一杯に羽に受けて花かげから飛び立った。

 あら田の土のかはくかげろふ     里
<あらたのつちの かわくかげろう>。挙げ句。雉が舞い上がったその下には、一面に広がる新田が白く乾いて見える。夏の昼下がり。


                 里圃

いきみ立鷹引すゆる嵐かな
<いきみたつ たかひきすゆる あらしかな>。「引きすゆる」は引き据えるの意で、ここでは、鷹が勇んで飛び立とうとするのを 、一陣の強風がそれを抑圧することをいう。

 冬のまさきの霜ながら飛      沾圃
<ふゆのまさきの しもながらとぶ>。まさきはニシキギ科の常緑低木。海岸近くの山地に自生し、高さ約3メートル。枝は緑色。葉は楕円形で質が厚く光沢がある。初夏に白緑色の小花を多数つけ、秋に赤い実を結ぶ。生け垣に用いる(『大辞林』)冬の強風にマサキの葉の上の霜が吹き飛ばされていく。素直な脇句。

大根のそだゝぬ土にふしくれて    芭蕉
<だいこんの そだたぬつちに ふしくれて>。そんな寒風吹きすさぶこの地は、大根も育たないような荒涼とした痩せ地。ここで働く百姓の手は節くれだったごつごつとした手だ。

 上下ともに朝茶のむ秋       馬見
<かもしもともに あさちゃのむあき>。そんな土地柄だが、ここではお大尽も貧乏家の住人もみな朝茶を飲む習慣があるらしく、秋の朝どこの家でも縁先で茶を飲んでいる光景が眺められる。
 

町切に月見の頭の集め銭        沾
<ちょうぎりに つきみのあたま あつめせん>。「月見」は月待講(陰暦で月の17日・19日・23日などの夜、月の出るのを待って供物を供え、酒宴を催して月を祭ること。特に、正月・5月・9月の二十三夜が盛大であった。月祭り)のことで、この晩の会費を町内を回って集めるのだが、その役目(=頭)で集金しているとどこの家でも朝茶を飲んでいるというのである。

 荷がちらちらと通る馬次       里
<にがちらちらと とおるうまつぎ>。ここは宿場町。時折荷を積んだ馬が通過していく。あまり栄えている宿場でもなさそうな句。それだけに、コミュニティがよくできていて、月待の行事などもすたれずに残っているのであろう。

知恩院の替りの噂極りて        見
<ちおにんの かわりのうわさ きわまりて>。宿場を通過する荷物が「ちらちら」と増え始めたようだが、どうも知恩院門跡が新しく代わるといううわさが本当だったようで、増えたのはその祝儀の荷駄らしい。

 さくらの後は楓わかやぐ       沾
<さくらのあとは かえでわかやぐ>。前句の換わったのは門跡ではなくて、境内の桜が散ってカエデの新緑が美しいというのである。

俎の鱸に水をかけながし        里
<まないたの すずきにきずを かけながし>。カエデの新緑の美しい季節は、またスズキの刺身のおいしい季節。ホトトギスの声を聞きながらスズキの刺身作りに水を大量に流しながら汗をかく。

 目利で家はよい暮しなり       見
<めききでいえは よいくらしなり>。季節の魚が食えるというのも実入りが豊かなればこそ。我が家の主人は骨董の目利きを生業として、その腕のよさでよい暮らしができるのだ。

状箱を駿河の飛脚請とりて       沾
<じょうばこを するがのひきゃく うけとりて>。駿河への手紙を飛脚に渡した。中身は、駿河からの問い合わせのあった骨董の鑑定結果である。

 まだ七つにはならぬ日の影      里
<まだななつには ならぬひのかげ>。太陽の傾きから見て、夕方の七つ(日没の一時前)。この時刻に飛脚は駿河に向かって旅立っていった。

草の葉にくぼみの水の澄ちぎり     見
<くさのはに くぼみのみずの すみちぎり>。草の葉の下のくぼみに澄んだ水がたまって光っている。その日の差し方は「七つ」時分のようだ。

 伊駒気づかふ綿とりの雨       沾
<いこまきづかう わたとりのあめ>。いまは木綿の収穫期。収穫の最中には雨は欲しくないので、天候が気にかかる。そんなときには生駒の山にかかる雲を見て天気を占うのである。

うき旅は鵙とつれ立渡り鳥       里
<うきたびは もずとつれだつ わたりどり>。 辛い旅を渡り鳥のモズと一緒に続けている。生駒の山に雲が垂れ込めて今にも雨が来そうな雰囲気である。

 有明高う明はつるそら        見
<ありあけたこう あけはつるそら>。有明の月が空に高く残っている。夜はすっかり明けて、渡りのモズと一緒に今日もまた旅が続く。

柴舟の花の中よりつつと出て       沾
<しばぶねの はなのなかより つつとでて>。桜並木が小川に沿って垂れ下がっている。ようやく眠りからさめたばかりの花並木の中からぬっと柴舟が出てきた。

 柳の傍へ門をたてけり        里
<やなぎのはたへ もんをたてけり>。桜並木の中に混じって柳の木がある。そこに裏門であろう船端へ続く戸口ができている。前句の舟はここへ着けるのかも知れない。

百姓になりて世間も長閑さよ      見
<ひゃくしょうに なりてせけんも のどかさよ>。前句の門は、元武家であった私の引退後の隠居所。いまや官途を辞して晴耕雨読の百姓の身。世間を長閑に住みなしている。

 ごまめを膳にあらめ片菜       沾
<ごまめをぜんに あらめかたのり>。「ごまめ」は小鯵の干物。「あらめ」は褐藻類コンブ目の海藻。温暖な海水中に生え、黒褐色で全長 1.5mほど。下茎は上部でふたまたに分枝し、それぞれに十数枚の葉状片をつける。夏期収穫し、ヨードの原料や食用・肥料などにする(『大辞林』)。「片菜」は堅海苔でここでは固い海草の根のこと。総じて退職官吏の質素だが健康な食事を表現したもの。

賣物の澁紙づゝみおろし置       里
<うりものの しぶがみづつみ おろしおき>。行商の男が、商売の渋紙に包んだ商品を片から下ろして、食事を街道の茶店でとっている。みればごまめに、あらめに堅海苔の貧しい食事。

 けふのあつさはそよりともせぬ    見
<きょうのあつさは そよりともせぬ>。今日の暑さときたら大変なもの。しかも風が無くそよとも吹かない。茶店の行商人の額は汗にまみれている。

砂を這ふ棘の中の絡線の聲       沾
<すなをはう いばらのなかの ぎすのこえ>。「絡線<ぎす>」はキリギリスのこと。棘は野棘<のいばら>のこと。初夏に白い花をつける蔓の野バラ。そのノイバラが砂浜に長々と張っている。その中からキリギリスの鳴き声が聞こえてくる。暑い夏の景。

 別を人がいひ出せば泣        里
<わかれをひとが いいだせばなく>。別れの挨拶をすると、その意味が分かったのかノイバラの下のキリギリスが鳴き出す。

火燵の火いけて勝手をしづまらせ    見
<こたつのひ いけてかってを しずまらせ>。コタツの火に灰をかぶせて火を伏せて、勝手の火の用心も済ませて、明日の旅の出発に備え終えた。別れの時刻が刻一刻と近づいてくると妻がまた別れを惜しんで泣き出す。季を真夏から真冬に変えた。

 一石ふみし碓の米          沾
<いっこくふみし からうすのこめ>。コタツの火の始末を済ませ、勝手の後始末をし終えた後でまだ夜なべ仕事に臼をついて米一石を精米した。働き者の米問屋の主人。

折々は突目の起る天氣相        里
<おりおりは つきめのおこる てんきあい>。「突目」は、眼球に付いた白い斑点で、何かで目を刺したように見えるところからこう呼んだ。「天気相」は天候のこと。この季節は、付き目の症状の現れる天候が続く。この時代、こういう症状の季節的病があったのか?

 仰に加滅(減)のちがう夜寒さ     見
<ぎょうにかげんの ちがうよざむさ>。「仰に」は仰山にの意。非常に寒暖の差が激しい季節。今夜は良く冷える。こんな寒さが「突目」の発症する季節なのだろうか?

月影にことしたばこを吸てみる     沾
<つきかげに ことしたばこを すうてみる>。葉タバコの収穫は梅雨明けの頃。今は中秋。名月の下で今年収穫の葉タバコを吸ってみる。

 おもひのまゝに早稲で屋根ふく    里
<おもいのままに わせでやねふく>。こちらも、今年収穫の早稲の新藁で屋根を存分に葺いた。冬を前に準備万端満足のいく秋となった。充実感をつけた。

手拂に娘をやつて娵のさた       見
<てばらいに むすめをやって よめのさた>。前句の屋根葺きは一家の長男に嫁を取るための準備。既に娘どもはみなお嫁にやって、ようやく嫁とりの段になった安堵を詠む。

 参宮の衆をこちで仕立る       沾
<さんぐうのしゅうを こちでしたつる>。嫁とり前の長男に参宮をさせようと旅行団を結成して旅立たせるのだが、その旅費一切を当家で仕立てるというのである。余程の素封家らしい。

花のあと躑躅のかたがおもしろい    里
<はなのあと つつじのかたが おもしろい>。どうせするなら桜の季節に旅を企画すればよかったのだが、なにも桜ばかりが花じゃない。つつじだってあるではないか。強引な旅の企画の言い訳?

 寺のひけたる山際の春        見
<てらのひけたる やまぎわのはる>。つつじが美しく咲いている山際の寺の庭。かつては大伽藍を誇っていた有名な寺だったが今はひっそりと山際に立っている。

冬よりはすくなうなりし池の鴨     沾
<ふゆよりは すくのうなりし いけのかも>>。この寺の古池に飛来していた鴨などの野鳥も春の訪れとともに北を指して旅立っていったために、今は冬と比べてすっかり減ってしまった。

 一雨降てあたゝかな風        里
<ひとあめふって あたたかなかぜ>。昨夜も一雨降って、また一段と春になった。挙句。


                 沾圃

猿蓑にもれたる霜の松露哉
<さるみのに もれたるしもの しょうろかな>。「松露」とは、担子菌類腹菌目のきのこ。四、五月頃海浜の松林の下の砂中に生える。直径1〜5センチメートルの球状で、色ははじめ白色、掘り出すと淡黄褐色になる。特有の松の香りがあり、吸い物の種などにする(『大字林』)。こんな松露に霜が降りて砂浜の色と見分けがつかなくなると目立たぬからだろうか、『猿蓑』に松露を詠んだ句が一句も無い。

 日は寒けれど静なる岡       芭蕉
<ひはさむけれど しずかなるおか>。たしかに日は寒いけれども、風も無くて穏やかな冬の日だから「松露」を探すのには何の不都合も無い。 『猿蓑』に松露が詠まれていなくとも、丘の高みから見ればすぐに分かること。こういう静かな日にこそ「松露」を詠んだら良い。

水かゝる池の中より道ありて     支考
<みずかかる いけのなかより みちありて>。岡の上から見ると、夏中水を溜めていて農業用の用水池の水がすっかり払われて、その中を近道として歩く人があるらしく、一筋の道が見える。岡を主題にして話題を変えた。

 篠竹まじる柴をいたヾく      維然
<しのだけまじる しばをいただく>。池中の道を歩く人が一人。柴刈りから帰ってきた老爺。背中のシバには篠竹が混じっている。

鶏があがるとやがて暮の月       蕉
<にわとりが あがるとやがて くれのつき>。この時代農村では鶏は放し飼いだった。彼らは夕暮れになると納屋の軒端などの高いところの一箇所に集まって夜を過ごす。そんな時刻には夕月が山入端に上る。

 通りのなさに見世たつる秋      考
<とおりのなさに みせたつるあき>。そんな時刻になると往来を行く人も無い。店じまいをしなくて。前句の「月」で秋に季を変えた。

盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚      然
<ぼんじまい いっかでねぎる すしのうお>。盆は、商家では年末と年に二回の夏の決算期である「盆じまい」。往来を行く魚屋に声をかける。「盆仕舞いの魚だろう、安くしておけば一荷全部買ってやるから置いていけ!」。賑やかな表通りの光景。

 昼寐の癖をなをしかねけり      蕉
<ひるねのくせを なおしかねけり>。盆も終わったというのに夏の癖、昼寝が中々止められない。金持ちの商家の主の悪い癖。

聟が来てにつともせずに物語      考
<むこがきて にっともせずに ものがたり>。昼寝を起こされて何かと見れば婿が来ている。婿は舅に向かってにこりともしないで近況報告。この舅若い頃には怖かったか、はたまたこの婿は、娘を無理して貰った課か?

 中国よりの状の吉左右        然
<ちゅうごくよりの じょうのきっそう>。この婿は、到着したばかりの中国地方から来た手紙の吉報を舅に報告しているのである。商談のことか、家内のことか?「中国」はほぼ今の中国地方のこと。

朔日の日はどこへやら振舞れ      蕉
<ついたちの ひはどこへやら ふるまわれ>。それというのが、なんと来月朔日には何処そこで一席設けてご馳走するというような楽しい話。前々句の婿は、相当に石部金吉のまじめな男らしい。

 一重羽織が失てたづぬる       考
<ひとえはおりが えせてたずねる>。夏物の羽織が見当たらない。何処へ置き忘れてきたものやら。今月朔日は何処で宴会があったか? 二日は何の席に出ていたか? 飲み歩いた場所をたどって置いてきた羽織の場所を思い出している。

きさんじな青葉の比の樅楓        然
<きさんじな あおばのころの もみかえで>。夏羽織にかけて初夏の景。きさんじは、「気散じ」で晴れやかな気分になること。初夏の候、カエデの瑞々しい新緑、モミの黒い葉っぱの中から新芽の緑が際立つ季節。なんとも気持ちのいい季節。

 山に門ある有明の月         蕉
<やまにもんある ありあけのつき>。有明の夏の月が山門の中に消えていく。文字通り山中の寺の風情。

初あらし畑の人のかけまはり      考
<はつあらし はたけのひとの かけまわり>。秋に入ってやってきた台風であろう。収穫を前にして、農民が薄暗い畑の周りを駆け回っている。被害がありませんように。

 水際光る濱の小鰯          然
<みずぎわひかる はまのこいわし>。初嵐の海は、小魚にとっても避難しなくてはならず湾に入ってくる。そこを漁師は捕まえる。浜は時ならぬ大漁で大賑わい。災難はあざなえる縄の如し。百姓には辛いが、漁師には幸い。

見て通る紀三井は花の咲かゝり     蕉
<みてとおる きみいははなの さきかかり>。芭蕉の句といわれる「見あぐれば桜しまうて紀三井寺」をここで言い直しているのであろう。前句の「小鰯」で季を春に取り換えた。
 なお、紀三井寺は西国第二番札所「紀三井山護国院金剛宝寺」。救世観音宗の総本山。本尊の十一面観音像をはじめ、千手観音像、帝釈天像、鐘楼、多宝塔などの重要文化財や、芭蕉ら有名俳歌人の句碑も多い。国鉄紀勢線紀三井寺駅から徒歩5分。国道42号線からも近い。(『紀州民話の旅』より引用)。

 荷持ひとりにいとヾ永き日      考
<にもちひとりに いとどながきひ>。「荷持」はポーターのこと。旅に従者であるが、風流は解さず只黙々と重い荷物を背負ってついてくる。話し相手にもならないから春日がますますのたりのたりと長くなる。

こち風の又西に成北になり       然
<こちかぜの またにしになり きたになり>。「こち」は「東風」だが、春風のことで向きを問わない。春の風、東ばかりかと思えば、西風になったり、北風になったり。実に気まぐれ。

 わが手に脉を大事がらるゝ      蕉
<わがてにみゃくを だいじがらるる>。この季節は風邪の流行る時期でもある。風邪引きのこの男、自分で脈をとりながら大げさに苦しんでいる。

後呼の内儀は今度屋敷から       考
<のちよびの おかみはこんど やしきから>。先妻とは死に別れたのか離縁したのか。この風邪引きの男、今度は後添いのお嫁さんに屋敷奉公していた女性を貰うそうな。

 喧嘩のさたもむざとせられぬ     然
<けんかのさたも むざとせられぬ>。武家屋敷から下げられてきた今度の女主人は厳格だろうから、喧嘩などもしていられないぞと、使用人達に緊張が走る。「むざと」は軽率にの意。

大せつな日が二日有暮の鐘       蕉
<たいせつな ひがふつかあり くれのかね>。この家には、記念日が暮にあるのだが、今年は結婚式もあるから二日になるのか? 何が大切な日なのかは分からないが、創業者の命日あたりか?

 雪かき分し中のどろ道        考
<ゆきかきわけし なかのどろみち>。そんな大切な日のために雪道の雪を掻き分けておいたところそこに水がたまって泥道になってしまった。

來る程の乗掛は皆出家衆        然
<くるほどの のりかけはみな しゅっけしゅう>。「乗掛」は乗り掛けに使われる駄馬のこと。大切な日にやってくる人達というのは乗馬でやってくる僧侶ばかりだ。大切な日は個人商店の規模ではなくもっと公のイベントらしくなってきた。

 奥の世並は近年の作         蕉
<おくのよなみは きんねんのさく>。「世並」は景気、作柄をさす。「奥」は乗馬で集まってくる人たちの出身地元。今年は近年まれに見る豊作らしい。何で分かるかというと、馬に乗った服装がしっかりしていることで分かる。

酒よりも肴のやすき月見して      考
<さけよりも さかなのやすき つきみして>。月見の宴の〆をしてみたら、酒代より酒の肴である料理の方が安かった。豊作だから惣菜が安価になったのである。一気に生活臭。

 赤鶏頭を庭の正面          然
<あかけいとうを にわのしょうめん>。前句の意味は、赤い鶏頭の花が家の正面に植えてあるような貧乏たらしい家の月見の宴のこと。酒代よりも安上がりの食い物しか出されなかったのである。

定らぬ娘のこゝろ取しづめ       蕉
<さだまらぬ むすめのこころ とりしずめ>。前句の赤鶏頭は、若い娘の恋心の定まらぬ心理を表す。燃えるような恋を秘めながら風に揺れる赤鶏頭。そんな娘の心を家族みんなで鎮めている。

 寐汗のとまる今朝がたの夢      考
<ねあせのとまる けさはたのゆめ>。朝方見た夢は激しいものではなく、心も静まった。寝汗もかかずに目覚めたというから、この娘の恋は相当激しいものらしい。赤鶏頭なのだから無理も無いのであろう。

鳥籠をづらりとおこす松の風      然
<とりかごを ずらりとおこす まつのかぜ>。縁側にずらりと並べられた鳥かご。篭の鳥たちもさわやかな朝を告げるように元気に囀っている。

 大工づかひの奥に聞ゆる       蕉
<だいくづかいの おくにきこゆる>。今朝は表の修繕に大工が入っている。そのカンナの音を奥の隠居所で聞いている。活気のある金持ちの家。

米搗もけふはよしとて歸る也      考
<こめつきも きょうはよしとて かえるなり>。米搗き職人も入って精米をして大勢の食事の用意をしている。それが終わったらしく米搗き屋は帰っていく。

 から身で市の中を押あふ       蕉
<からみでいちの なかをおしあう>。身一つ、軽装で颯爽と市の立つ神社の参道を歩いていく格好いい若い男の姿。

此あたり弥生は花のけもなくて     然
<このあたり やよいははなの けもなくて>。この辺りの陽気では三月といっても桜はまだ咲かない北国の春。春祭りの方が先に来る。

 鴨の油のまだぬけぬ春        考
<かものあぶらの まだぬけぬはる>。春の遅い北国の鴨は皮下に脂肪を蓄えたままだ。食べればまだおいしい。もう少し暖かくなると油が抜けて旨くなくなるが、彼らも北へ向かって飛び立っていくであろう。もうすぐ春。


   今宵譜

                野盤子
                   支考

今宵は六月十六日のそら水にかよひ*、月は東方の乱山にかゝげて*、衣裳に湖水の秋をふくむ*。されば今宵のあそび、はじめより尊卑の席をくばらねど、しばしば酌てみだらず。人そこそこに涼みふして、野を思ひ山をおもふ。たまたまかたりなせる人さへ、さらに人を興ぜしむとにあらねば、あながちに弁のたくみをもとめず、唯うきぐさ*の水にしたがひ、水の魚をすましむるたとへにぞ侍りける。阿叟は深川の草庵に4年の春秋をかさねて*、ことしはみな月さつきのあはいを渡りて、伊賀の山中に父母の古墳をとぶらひ、洛の嵯峨山に旅ねして、賀茂・祇園の涼みにもたヾよは す*。かくてや此山に秋をまてれけむと思ふに、さすが湖水の納涼もわすれがたくて、また三四里の暑を凌て、爰に草鞋の駕をとヾむ*。今宵は菅沼氏をあるじとして、僧あり、俗あり、俗にして僧に似たるものあり。その交のあはきものは、砂川の岸に小松をひたせるがごとし。深からねばすごからず。かつ味なうして人にあかるゝなし。幾年なつかしかりし人々の、さしむきてわするゝににたれど、おのづからよろこべる色、人の顔にうかびて、おぼへず鶏啼て月もかたぶきける也。まして魂祭る比は、阿叟も古さとの方へと心ざし申されしを、支考はいせの方に住ところ求て、時雨の比はむかへむなどおもふなり*。しからば湖の水鳥の、やがてばらばらに立わかれて、いつか此あそびにおなじからむ。去年の今宵は夢のごとく、明年はいまだきたらず。今宵の興宴何ぞあからさまならん。そヾろに酔てねぶるものあらば、罰 盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ*

                     芭蕉

夏の夜や崩て明し冷し物

 露ははらりと蓮の縁先       曲翠
<つゆははらりと はすのえんさき>。蓮の葉に玉になって載っていた露が葉の縁先からころっと落ちた。「蓮の縁先」は曲翠亭の縁先にある蓮かもしれない。

鶯はいつぞの程に音を入て      臥高
<うぐいすは いつぞのほどに ねおいれて>。鶯は何時の間にやら鳴かなくなった。「音を入れる」は、「音」をしまうことで、啼かなくなること。今日は6月16日。

 古き革籠に反故おし込       維然
<ふるきかわごに ほうごおしこみ>。「革籠<かわご>」は皮を張った行李のこと。今夏が来て、春に詠んだ「腰折れ」は「反故」として革籠にしまい込もう。惜春の句。

月影の雪もちかよる雲の色      支考
<つきかげの ゆきもちかよる くものいろ>。いやいや、あなたは今を夏と思っているらしいが月の光の様子を見ていると雪が降りそうな雲行きだ。その反故で障子の破れを防いでもらいたいものだ。維然への冷やかしと季の夏から冬への転換。

 しまふて銭を分る駕かき      芭蕉
<しもうてぜにを わくるかごかき>。冬を受けて。雪空なので今夜はまっすぐに家に帰ろうと一日の水揚げを駕篭かき二人が分け合っている。

猪を狩場の外へ追にがし        翠
<いのししを かりばのそとへ おいにがし>。二人の駕篭かきの今日の仕事は旅人を乗せたのではなくて、イノシシ追いの仕事。しかし失敗して狩場に入れ込むのを外へ追い出してしまったらしい。猪狩りは武士階級の娯楽であった。

 山から石に名を書て出す       高
<やまからいしに なをかきてだす>。猪を狩場から追い出したのは、石切場から切り出して名前を掘り込んだ巨石を無事に搬出するためであったというのである。

飯櫃なる面桶にはさむ火打鎌      然
<いびつなる めんつにはさむ ひうちがま>。「飯櫃」はご飯容れで、「面桶<めんつ>」は マゲワッパで弁当箱のこと。そこに火打ち鎌(火を起こすための鉄棒)が結び付けられているというのである。この火打ち鎌で前句の名前を記入したというのか?

 鳶で工夫をしたる照降        考
<とびでくふうを したるてりふり> 。トビはカエルなどとならんで、古来天気予知能力のある動物とされていた。トビの飛ぶ高さや鳴き声で明日の天気を占った。前句の石工もトビの天気予報で奥山での作業の実施を判断したのである。

おれが事哥に讀るゝ橋の番       蕉
<おれがこと うたによまるる はしのばん>。橋番とは、橋の管理をするために橋のたもとに作られた番小屋で橋を管理する人のこと。この時代、橋はコストもかかり、また戦略的にも重要で、橋番は思い責任を課せられていた。洪水などの予感は重要な個性だったかも知れまい。この橋番は、トビの鳴き声で天気が予報できたのであろう。その彼は、橋番の歌、たとえば「ちはやぶる宇治の橋守なれをしぞあはれとおもふ年の経ぬれば読人知らず(『古今集(904)』)などがあることを誇っている。

 持佛のかほに夕日さし込       翠
<じぶつのかおに ゆうひさしこむ>。番小屋の奥には持佛が安置されていて、そこに夕陽が照りつけて神々しく光っている。

平畦に菜を蒔立したばこ跡       考
<ひらうねに なをまきたてし たばこあと>。西日の傾いてきた時刻、たばこを収穫した畑に、その跡に平畝のまま菜を蒔いている。葉たばこは水はけをよくするために畝を高く盛り上げていた。それが収穫期ともなれば低くなってはいるのだが、菜類を蒔くのなら畝の高さは敢えて盛り上げなくても良いのであろう。

 秋風わたる門の居風呂        然
<あきかぜわたる かどのすえぶろ>。菜や大根を蒔くのは現代の太陽暦で8月下旬。風の音に驚く初秋の季節である。農作業を終えて家の戸口にある風呂に入って一日の疲れをいやす。

馬引て賑ひ初る月の影         高
<うまひきて にぎわいそむる つきのかげ>。風呂から見ていると往来は時ならぬ賑やかさ。秋の月光の下を馬を引く行列が行く。何やら晴れがましい。

 尾張でつきしもとの名になる     蕉
<おわりでつきし もとのなになる>。昔、尾張に居た時分には商売繁盛して羽振りもよくその名も知られていたものだが、ふとした間違いで没落してしまったが、今こうして帰還もかなって馬の行列して故郷に帰れる。杜国を思い出したか??

餅好のことしの花にあらはれて     翠
<もちずきの ことしのはなに あらわれて>。花より団子というが、私は花見のお酒より餅の方が好きだ。

 正月ものゝ襟もよごさず       高
<しょうがつものの えりもよごさず>。酒が呑めないというだけあって、酒席で乱れることも無い几帳面な人。だから、正月用の一張羅の襟などにシミ一つ付いていない。

春風に普請のつもりいたす也      然
<はるかぜに ふしんのつもり いたすなり>。几帳面だけでなくしまり屋のこの男、春になったら家の普請をしようと算段をしているのである。

 藪から村へぬけるうら道       考
<やぶからむらへ ぬけるうらみち>。村に入るのに近道である薮道がある。春に普請を計画しているのはその藪口の家。

喰かねぬ聟も舅も口きいて       蕉
<くいかねぬ むこもしゅうとも くちきいて>。この家が婿取りだが、その婿ときたら口やかましく嫌われ者。舅の世間に婿とはよく言ったもの。舅も実は口数の多いことで有名だったのである。

 何ぞの時は山伏になる        翠
<なんぞのときは やまぶしになる>。この婿ときたら、山伏の心得があって加治や祈祷に霊験を発揮するので村にとって無くてはならない人物。すわという時には頼りにされる。

笹づとを棒に付たるはさみ箱      高
<ささずとを ぼうにつけたる はさみばこ>。「はさみ箱」は衣装用の入れもの。旅に携行して使用人などに担がせた。「笹づと」は笹で包んだもの。はさみ箱を棒にくくりつけて担いでいるのだが、それにまだ笹の包みも結わえてあるのであろう。笹の包みは山伏の使うものだろう。これらをこの男は自分で担いでいく。

 蕨こはばる卯月野ゝ末        蕉
<わらびこわばる うづきのののすえ>。時は春から夏へかけて野のワラビも葉を広げ始めるほどにこわばってくる季節。四月の野の風景だ。

相宿と跡先にたつ矢木の町       考
<あいやどと あとさきにたつ やぎのまち>。相宿になった男、後になり先になりしながら、四月の野を歩いていく。ここは大和の国八木の庄。

 際の日和に雪の氣遣         然
<きわのひよりに ゆきのきづかい>。「際<きわ>」は季節や日の暮れ方などの節目の時の意、ここは季節の節目。秋から冬の始まりの季節。雪を気にしながら宿の宿泊人たちは出たり入ったり。

呑ごゝろ手をせぬ酒の引ぱなし     翠
<のみごころ てをせぬさけの ひっぱなし>。「引ぱなし」はさっぱりした悪い後味が口に残らないこと。変なものを入れないつくりの酒の呑み心地のよさよ。雪の降ってきそうな陽気にはこれに限る。

 着かえの分を舟へあづくる      高
<きがえのぶんを ふねへあずくる> 。川渡の渡船の船着場。茶店で酒を呑んでいる旅人。既に着替えの入った荷物は船に預けて積んでしまったが、酔っ払って乗り遅れないものか?

封付し文箱來たる月の暮        蕉
<ふうつけし ふみばこきたる つきのくれ>。月の出の夕暮れ時になって、封印した文箱が今到着した。恋文か、ビジネスレターか?

 そろそろありく盆の上臈衆      考
<そろそろありく ぼんのじょうろしゅう>。文箱を受け取りに出た上臈の女。きれいな着物を着てしゃりしゃなりとゆっくり歩いてやってくる。恋文かもしれないのだが、いそいそしてははしたないのであろう。

虫籠つる四条の角の河原町       然

<むしごつる しじょうのかどの かわらまち>。時は盂蘭盆の八月十五日。秋の虫を入れた虫かごを屋敷の玄関先に吊っている。ところは京都四条河原町。

 高瀬をあぐる表一固         翠
<たかせをあぐる おもてひとこり>。四条河原町といえば高瀬川。そこの平らな舟に畳表一つをのせて平瀬舟が高瀬川を上がっていく。

今の間に鑓を見かくす橋の上      高
<いまのまに やりをみかくす はしのうえ>。四条大橋から高瀬舟を見ているほんの束の間に大名行列の鑓を見失って慌てている供の下人。

 な鐘のどんに聞ゆる       然
<おおきなかねの どんにきこゆる>。おりしも知恩院の鐘か、いかにも大鐘の音らしくどーんと身にしみて聞こえる。下人はお尻を叩かれたように先を急ぐ。

盛なる花にも扉おしよせて       考
<さかりなる はなにもとびら おしよせて>。世は春爛漫の花見の季節というのに大門をぴったりと締めて春の盛りを無視して修行に励む名刹。鐘の音はここから来たか。有り難いことじゃ。南無阿弥陀仏。

 腰かけつみし藤棚の下        高
<こしかけつみし ふじだなのした>。藤棚の下には腰掛を積んでいる。実はこの寺桜は無くて藤で有名な藤の寺。桜の後の藤の季節のための準備に、門を締め切って大わらわだったのである。


野盤子:<やばんし>。盤子は支考の号、野は卑下。

今宵は六月十六日のそら水にかよひ :「秋水は長天と共に一色なり」による。秋の空は地上の水と交わって区別がつかない、の意。

月は東方の乱山にかゝげて:「乱山」は山なみの不揃いな様をいう。そこに月がかかっている情景。

衣裳に湖水の秋をふくむ:その眺望の中には冷たく澄んだ湖水の水を含んでいる。眺望全体を擬人化した表現。

うきぐさ:草冠に泙と書くがJISには無い

阿叟は深川の草庵に4年の春秋をかさねて:阿叟=芭蕉翁は元禄4年10月からこのとき元禄7年五月まで江戸深川にいたことを言う。

ことしはみな月さつきのあはいを渡りて、伊賀の山中に父母の古墳をとぶらひ、洛の嵯峨山に旅ねして、賀茂・祇園の涼みにもたヾよはす:芭蕉は、元禄7年5月28日伊賀上野に到着。閏5月16日までここに滞在した後、近江膳所経由、京都嵯峨野の去来別邸落柿舎に滞在していた。京都市内にも出かけたというのである。「ただよはす」はぶらぶら(散策)したこと。

かくてや此山に秋をまてれけむと思ふに、さすが湖水の納涼もわすれがたくて、また三四里の暑を凌て、爰に草鞋の駕をとヾむ:芭蕉は、6月15日には再び大津に戻り、ここに7月5日まで滞在した。この間の6月16日菅沼曲水亭で歌仙を開催した成果がこの歌仙である。「爰に草鞋の駕をとヾむ」は<ここにそうあいののりものをとどむ>と読む。ここにわらじを脱いだの意だが、わらじを乗り物に見立てた誇張表現。

支考はいせの方に住ところ求て、時雨の比はむかへむなどおもふなり:芭蕉はこの一ヶ月後7月中旬には伊賀上野に帰郷。そのまま伊賀に滞在していたところ、9月3日に支考が伊賀に訪ねていった。その後の顛末は、芭蕉の死まで一直線であった。

そヾろに酔てねぶるものあらば、罰盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ :歌仙に参加しない者には、罰金として3斗の酒で無く水を呑ませようと、冗談を言い合った、というのである。「罰盃」はむかし王羲之が詩を作らずに眠ってしまったものに罰として酒三斗を呑ませたという故事を引用して、「酒」でなく「水」というところに俳諧を表現した。