芭蕉db

骸骨の絵讃

(元禄7年6月:51歳)


 本間主馬*が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを描きて、舞台の壁に掛けたり。まことに生前のたはぶれ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざる*も、ただこの生前を示さるるものなり。

稲妻や顔のところが薄の穂

(いなづまや かおのところが すすきのほ)

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稲妻や顔のところが薄の穂

 元禄7年夏、膳所の義仲寺在住中、大津の能大夫本間主馬の宅に招かれて、能舞台の壁に張ってあった骸骨の能を演じている画に画賛を入れた。『續猿蓑』にも所収。一句には、言うまでもなく、謡曲『通小町』の中の一首「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひたり」が引用されている。定型ではあるが、芭蕉晩年の鬱屈した死生観も伺われる。
 なお、この日、2句がある。「
蓮の香を目にかよはすや面の鼻」「ひらひらと挙ぐる扇や雲の峰


本間主馬:膳所の能役者。通称は佐兵衛。

髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざる:『荘子』に「髑髏を援<ひ>きて枕として臥す・・・」とあるから援用。 荘子が髑髏を枕にして寝たところ、「人間というもの生前は苦労が多いが死後には永遠の安らぎが来る」髑髏が語った、という夢を見たという話。