芭蕉db

笈の小文

(伊賀上野へ)


 師走十日餘、名ごやを出て、旧里に入んとす。
 

旅寝してみしやうき世の煤はらひ

(たびねして みしやうきよの すすはらい)

「桑名より食はで来ぬれば」*と 云日永の里*より、馬かりて杖つき坂*上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
 

歩行ならば杖つき坂を落馬

(かちならば つえつきさかを らくばかな)

と、物うさのあまり云出侍れ共、終に季のことば いらず*
 

旧里や臍の緒に泣くとしの暮

(ふるさとや ほぞのおになく としのくれ)


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旅寝してみしやうき世の煤はらい

 この時代、12月13日が煤払いと決められていたから、この句はこの日の作ということになる。世俗社会の年中行事を横目に眺めている「旅に生きる」自分を意識した句。
 

歩行ならば杖つき坂を落馬哉

 歩いて上れば杖を突いて登る峠道を、なまじ骨惜しみなどして馬に乗って上ったばかりに落馬しちゃった。季語も入らず、芭蕉には珍しい駄作の一つ。なお、土芳の『横日記』元禄2年の条にこの間の事情が記述されている。


三重県四日市市采女の旧東海道杖突坂山中の句碑(牛久市森田武さん撮影)

 

旧里や臍の緒に泣く としの暮

 芭蕉が手にしている臍の緒はもちろん自身のもの。我が子の無事な人生を願って大切に保管していた母の想いであり、そこから改めて発する母への思慕の情。すす払いをしている時見つけ出した弟の臍の緒を、兄半左衛門が改めてとりだしてみせたのであろう。兄弟の絆を確かめ合ったかもしれない。


三重県上野市赤坂の芭蕉生家前にある句碑(牛久市森田武さん撮影)


「桑名より食はで来ぬれば」:『古今夷曲集(こきんいきょくしゅう)』に西行の歌として「伊勢桑名の辺、ほし川・あさけ・日ながというふ三ヶ村を詠める」の詞書きに次いで、「桑名よりくはで来ぬればほし川の朝けは過ぎて日ながにぞ思ふ」とあるによる。西行の作かどうか疑わしい駄作。

日永の里:<ひえのさと>と読む。四日市市内。

杖つき坂:杖突坂。四日市から鈴鹿にかけての坂道で、日本武尊が東征の帰途、この坂道を登坂したとき足を三重に折り、杖を突いて越えなくてはならないほど疲労していたという。この伝説によってこの呼び名が生まれたという。また、三重に折ったことからこの地方を三重郡といい、廃藩置県によって現在の三重県が命名された。杖突坂は、今では東名阪自動車道の杖突坂トンネルとなっている 。

終に季のことばいらず :上の句には、とうとう季語が入らなかった、の意。