芭蕉db

千那宛書簡

(元禄4年9月28日 芭蕉48歳)

書簡集年表Who'sWho/basho


御当地永々罷有候而、色々預御芳志浅難盡奉存候*。美濃路へ立越候間、再会近歳と被存候*。平田妙昌(明照)*へも一宿立寄可申候。
尚白集御序文下書先日被遣候を考候處、集之序に難仕候故*、下書なる程あら方したゝめ候*
尚白へ御相談被成、前後此格御用、御つくろひ可成候*。貴面御相談と存候へ共、御隙無之候故、残念に候*。芭蕉門に入りと云處、尚白心入も候はゞ御除可成候*
拙者はかほど如在に致候而*、一応無断内、和歌三神、別意かまへず候*
      九月廿八日                     はせを
  千那様
堅田衆御意得可下候*

 いよいよ最後の江戸下向の旅に出発する日、膳所義仲寺から大津の千那宛に書いた書簡。尚白の『忘梅』の千那序文について芭蕉が朱を入れたことで確執が生じ、長い間の師弟関係が崩壊する過程の書簡。これ以後、芭蕉と、千那や尚白との文通は残っていない。芭蕉としては、やることはやって後は如何なりとそちらの出方次第という態度で筆を止めている。師弟関係をみる貴重な書簡である。大津蕉門には、乙州・怒誰・曲水といった後発組がいて、初代門弟との間には何時しかそよそよした隙間風が吹くようになっていったのである。