芭蕉db
   この国花垣の庄は、そのかみ、奈
   良の八重桜の料に備へられ侍りけ
   るとかや、物にも書き伝へられ侍
   れば

一里はみな花守の子孫かや

(真蹟懐紙/猿蓑)

(ひとざとは みなはなもりの しそんかや)

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 元禄3年春。「花垣の庄」については『沙石集』によれば次のような故事がある。すなわち、上東門院彰子(清少納言が使えた一条天皇の后=藤原道長娘)が、興福寺の八重桜を京の都に移植しようとしたところ、南都の僧徒らがこれに異を唱えた。普段無骨で有名な僧徒らにも美を愛でる心があったかとして感服した女院はこの計画を撤回して、伊賀の国余野の庄に花垣をつくりここにこの桜を植えて、以後開花の時には宿直をおいて警護させたという。爾来ここを「花垣の庄」というというのである。花垣の庄は、伊賀上野から名張への途中。

一里はみな花守の子孫かや

「花垣の庄」というここはあの故事にもあるとおりの花の里であってみれば、ここの人々はみな花守の子孫だということになる。なんとゆかしいことではないか。


三重県上野市花垣の花垣神社で(牛久市森田武さん撮影)