徒然草(下)

第173段 小野小町が事、極めて定かならず。


 小野小町が事*、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造」と言ふ文に見えたり*。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり*。大師は承和の初めにかくれ給へり*。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

小野小町<おののこまち>。平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明<にんみよう>・文徳<もんとく>両天皇の後宮に仕えた。美貌の歌人といわれ、多くの伝説があり、謡曲・歌舞伎の題材となっている。家集に「小町集」がある。生没年未詳(『大字林』より)。

衰へたる様は、「玉造」と言ふ文に見えたり:小町の最期は『玉造小町壮衰書』という文書に書かれている。

この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり:「清行」は三善清行(847〜918)文章博士。「高野大師」は弘法大師空海のこと。空海の御作目録の中に『玉造小町壮衰書一巻』があるという。

大師は承和の初めにかくれ給へり:空海は承和2年(835年)没。これは小町が活躍した年代よりはるかに早いので、空海が小町を論ずることはありえない。


 わが国、美女の象徴的人物小野小町。彼女は、最期に奥州で死んだと伝えられているものの、その始めも最期も詳細は全く不明。楊貴妃もクレオパトラもその人生の悲劇の全容が分かっているのに、この国の人々はなんとも冷たい。


 おののこまちがこと、きわめてさだかならず。おとろえたるさまは、「たまつくり」というふみにみえたり。このふみ、きよゆきがかけりというせつあれど、こうやのだいしのごさくのもくろくにいれり。だいしはじょうわのはじめにかくれたまえり。こまちがさかりなること、そののちのことにや。なほおぼつかなし。