徒然草(下)

第171段 貝を覆ふ人の、我が前なるをば措き


 貝を覆ふ人の*、我が前なるをば措きて*、余所を見渡して、人の袖のかげ、膝の下まで目を配る間に、前なるをば人に覆はれぬ。よく覆ふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり。碁盤の隅に石を立てて弾くに、向ひなる石を目守りて弾くは、当らず、我が手許をよく見て、こゝなる聖目を直に弾けば*、立てたる石、必ず当る。

 万の事、外に向きて求むべからず。たゞ、こゝもとを正しくすべし*。清献公が言葉に*、「好事を行じて、前程を問ふことなかれ*」と言へり。世を保たん道も、かくや侍らん。内を慎まず、軽く、ほしきまゝにして、濫りなれば、遠き国必ず叛く時、初めて謀を求む*。「風に当り、湿に臥して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり*」と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁を止め、恵みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れん事を知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師を班して徳を敷くには及かざりき*

貝を覆ふ人の:「貝おおい」というゲーム。平安末期から行われた遊び。360個のハマグリの貝殻を数人に配り、左貝(出し貝)・右貝(地貝<じがい>)の両片に分けたうえ、右貝を全部伏せて並べ、左貝を一つずつ出しながら、これと対になる右貝を多く選んだ者を勝ちとする。のちには、左右の貝を合わせやすいように、同趣の絵をかいたり、和歌を上の句と下の句に分けて書いたりするようになった。貝覆い(『大字林』より)。

我が前なるをば措きて:(下手な人は)自分の前の貝などはさておき、。他所ばかりに目配りする。

こゝなる聖目を直に弾けば:「聖目」は碁盤の対角線上に9個描いた黒点。当てようという石に向かって弾くのではなくて、この対角線上の黒点を見ながら弾けば、。必ず当たる、というのである。

たゞ、こゝもとを正しくすべし:自分の手許・近傍をしっかりとしておけ。

清献公が言葉に:中国宋の名臣趙抃<ちょうべん>という人。清献は贈名。

好事を行じて、前程を問ふことなかれ:<こうじをぎょうじて、ぜんていをとうことなかれ>と読む。今は、ひたすらよい行いに専念していればよいので、 遠い将来のことなど気にすることはない。貝覆いの極意と同じなのである。

遠き国必ず叛く時、初めて謀を求む:国内でいい加減な政治をしていれば、やがて遠国が謀反を企てるであろう。その時になって初めて謀をめぐらしても遅いのだ。

風に当り、湿に臥して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり:寒風に身を曝し、雨に打たれて病気になったからといって、神仏に祈るなどは愚か者だ。 と『本草経』に書いてあるという。

禹の行きて三苗を征せしも、師を班して徳を敷くには及かざりき:中国の夏の国の名君であったと伝えられている禹があの野蛮な「三苗」を征服したのも、大軍を還して、徳を敷いたからに他ならない。


 万の事、外に向きて求むべからず。たゞ、こゝもとを正しくすべし」○○国大統領などに聞かせたい。


 かいをおおうひとの、わがまえなるをばおきて、よそをみわたして、ひとのそでのかげ、ひざのしたまでめをくばるまに、まえなるをばひとにおおわれぬ。よくおおうひとは、よそまでわりなくとるとはみえずして、ちかきばかりおおうようなれど、おおくおおうなり。ごばんのすみにいしをたててはじくに、むかいなるいしをまぼりりてはじくは、あたらず、わがてもとをよくみて、こ こなるひじりめをすぐにはじけば、たてたるいし、かならずあたる。

 よろずのこと、ほかにむきてもとむべからず。ただ、ここもとをただしくすべし。せいけんこうがことばに、「こうじをぎょうじて、ぜんていをとうことなかれ」といえり。よをたもたんみちも、かくやは んべらん。うちをつつしまず、かろく、ほしきままにして、みだりなれば、とおきくにかならずそむくとき、はじめてはかりごとをもとむ。「かぜにあたり、しつにふして、やまいをしんれいにうったうるは、おろかなるひとなり」といしょにいえるがごとし。めのまえなるひとのうれ えをやめ、めぐみをほどこし、みちをただしくせば、そのかとおくながれんことをしらざるなり。うのゆきてさんびょうをせいせしも、いくさをかえしてとくをしくにはしかざりき。