D09
鶯の啼て見たればなかれたか
起ざまに眞そつとながし鹿の足
干鮭となるなる行や油づゝ
目次へ
鶯の啼て見たればなかれたか
起ざまに眞そつとながし鹿の足 杜若
干鮭となるなる行や油づゝ 雪芝
去來曰、伊賀の連衆にあだなる風あり。是先師の一體也。遷化の後益々おほし。如此の類也。其無智なるにハ及がたし*。支考曰
、いがの句或ハさしてもなき句ハ有れ共、いや成ルハ一句もなし。いがの連衆ハ上手也*。
- 去來曰、伊賀の連衆にあだなる風あり。是先師の一體也。遷化の後益々おほし。如此の類也。其無智なるにハ及がたし
:<きょらいいわく、いがのれんじゅにあだなるふうあり。これせんしのいったいなり。せんげののちますますおおし。かくのごときのたぐいなり。そのむちにはおよびがたし>「あだなる」という言葉は、通常、実のない、中身のない、粗略なという意味だが、ここでは少し違う意味で使われている。天衣無縫、けれんみが無いという良い意味で使われいているので注意。伊賀の人々の作る句はこね回したようなものがなく、あっけらかんとしたものが多い。先師芭蕉にもそういうところがあった。芭蕉の死後益々その傾向が増してきたようだ。上記の句のような風である。この、あっけらかんとした天衣無縫の「無智(これも悪い意味ではなく)」は我らの遠く及ばないところだ。(作者註:伊賀の人々へ;あまりしっくりと褒められた感じはしないが、去来は芭蕉の古里伊賀と伊賀人に対して好感を持って語っているのです。)
- 支考曰
、いがの句或ハさしてもなき句ハ有れ共、いや成ルハ一句もなし。いがの連衆ハ上手也:伊賀の連衆の句にはさも無いものはあるが、いやみなものが無い。伊賀の人々は上手です、と支考は言った。