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芭蕉db
芭蕉庵十三夜
(貞亨5年9月13日:45歳)
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(きそのやせも まだなおらぬに のちのつき)
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仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて*、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。これ、才士・文人の風雅を加ふるなるや。閑人のもてあそぶべきものといひ、且つは山野の旅寝も忘れがたうて*、人々を招き、瓢をたたき、峰の笹栗を白鴉と誇る*。隣の家の素翁*、丈山老人*の「一輪いまだ満たず二分かけたり」といふ唐歌はこの夜折にふれたりと、たづさへ来たれるを*
、壁の上に掛けて草の庵のもてなしとす。狂客なにがし*、「白良・吹上」と語りいでければ*、月もひときははえあるやうにて、なかなかゆかしき遊びなりけらし。
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木曽の痩せもまだなほらぬに後の月
何と言っても名月は、八月十五夜の月。この年の中秋の名月には、『更科紀行』の途次、姨捨山に上る月として出会った。それから江戸へ帰り、長旅の疲れも未だ癒さぬうちに十三夜の月を迎える。姨捨の月をもう一度再現したい欲望に駆られたのであろう。この夜の芭蕉庵、江戸の文化人のなんと品のいい集りであることか。現代の日本人がここまでくれば豊かだといえるのであろう。私たちは、こういう豊かさをすっかり忘れてしまったのかも知れぬ。
宇多の帝のはじめて詔をもて:十三夜の月を愛でる習慣は宇多天皇に始まるとされている。『中右記』九月十三日に「今夜雲浄く月明らかなり。ここに寛平天皇今夜無双の由仰せ出だされ、・・・・よりて我が朝には九月十三日夜を以て名月の夜となすなり。」とある。以後、「後の月」とか「二夜<ふたよ>の月」などと洒落た表現がなされるようになった。
山野の旅寝も忘れたがうて:木曽路で見たあの月も忘れ難くの意。
峰の笹栗を白鴉と誇る:更科紀行の旅から持ち帰った粗末な笹栗を白鴉と称して面白がったの意。白鴉<はくあ>は、杜甫の詩に出てくる「栗」のこと。
隣の家の素翁:友人山口素堂のこと。この夜、素堂は、十三夜にぴったりだというので、丈山の漢詩の掛け軸「一輪いまだ満たず二分かけたり」を持参したらしい。
丈山老人:石川丈山。漢詩人。
たづさへ来たれるを:丈山の漢詩を山口素堂が「よい機会なので」と言って持参したというのである。
狂客なにがし:某は越人。更科紀行以来、越人は芭蕉と共に江戸まで来てしまった。
「白良・吹上」と語りいでければ:<しらら・ふきあげ>と読む。「平曲」の一節。越人が、「あるいは白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を眺めて帰る人もあり・・・・・」と謡った。なお、「平曲」とは、平家物語を琵琶の伴奏で曲節をつけて謡うもの、中世歌謡の一つである。