芭蕉DB

芭蕉を移す詞

(元禄5年8月)


「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺所蔵)


芭蕉を移す詞           芭蕉

 菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる*。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる*。荷葉は平地に立たず*、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや*、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ*、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。旧友・門人、共に愛して、芽をかき根をわかちて、ところどころに送ること、年々になむなりぬ。一年、みちのく行脚思ひ立ちて、芭蕉庵すでに破れむとすれば*、かれは籬の隣に地を替へて*、あたり近き人々に、霜のおほひ、風のかこひなど、かへすがへす頼み置きて、はかなき筆のすさびにも書き残し、「松はひとりになりぬべきにや」*と、遠き旅寝の胸にたたまり、人々の別れ、芭蕉の名残、ひとかたならぬ侘しさも、つひに五年の春秋*を過ぐして、再び芭蕉に涙をそそぐ。今年五月の半ば*、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔に変らず。なほ、このあたり得立ち去らで、旧き庵もやや近う、三間の茅屋つきづきしう*、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして*、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり*。淅江の潮、三股の淀にたたへて*、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ*。名月のよそほひにとて、まづ芭蕉を移す。その葉七尺あまり、あるいは半ば吹き折れて鳳鳥尾を痛ましめ*、青扇破れて風を悲しむ*。たまたま花咲けども、はなやかならず。茎太けれども、斧にあたらず*。かの山中不材の類木にたぐへて*、その性たふとし。僧懐素はこれに筆を走らしめ*、張横渠は新葉を見て修学の力とせしなり*。予その二つをとらず。ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。

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元禄5年5月、芭蕉は江戸生活での最後のすみかとなった第三次芭蕉庵に転居した。この新しい庵に、例の芭蕉を移植したのである。そのときの感慨を述べた作品が「芭蕉を移す詞<ことば>」である。人生を達観した者の閑な境涯が述べられている。
 なお、新庵は杉風枳風の資金提供を受けて建築された。部屋数3。2年後には寿貞一家にこれを渡して終わる。

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芭蕉の株