黒羽補遺

(黒羽町ホームページを参照した)

芭蕉一行は、奥の細道道中の中で黒羽では最も長い14日間逗留した。以下はその全日程を曽良の『奥の紳道隠行日記』から引用した。

4月3日(陽暦5/21)翠桃宅に宿る。

 此の日午前8時頃、塩谷郡玉生を立って、日光街道を進み、大田原を経て黒羽の余瀬に着き、鹿子畑翠桃宅に泊った。途中「草刈る農夫の馬を借り」た。馬子の小姫の名がかさねと聞いて、曽良は、<かさねとは八重撫子の名なるべし>と詠んだ。

4月4日(5/22)浄法寺桃雪方に招かれ、厚くもてなされ投宿。

 芭蕉は軟鴇の書院から「奇峯乱山かたちを争ひ一髪寸碧絵にかきたる」ような眺望をたたえて<山も庭に動き入るるや夏座敷>と詠む。

4月5日(5/23)雲巌寺へ。

 芭蕉は雲巌寺に、参禅の師とした仏項和尚の山居の跡があると聞いて、曽良をはじめ、桃雪兄弟等門弟6、7人を連れて詣でた。<木啄も庵は破らず夏木立>の句を詠み、雲巌寺の清遊を終えて桃雪方に帰った。

4月6日より9日(5/24〜27)まで雨。

 此の4日間は、雨のため他出せず、浄法寺方で休養した。浄法寺亭で7日吟とみられる。

4月9日(5/27) 余瀬光明寺へ。

 9日の昼過ぎ、余瀬の修験光明寺に招かれ、閑談して夜8時過ぎ浄法寺方に帰った。当時住持は津田源光権大僧都で、僧都の妻は翠桃と兄妹であった。光明寺には行者堂があって、祖師役行者の穿いと伝える一本歯の高足駄を神棚に安置してあったから、芭蕉は<夏山に足駄を拝むかどでかな>、<汗の香に衣ふるはん行者堂>を作句。

10日(5/28)雨晴れ、一日中浄法寺方に休養。

11日(5/29)小雨、余瀬の翠桃方に帰った

12日(5/30)晴、篠原へ。

 此の日は雨が止んだので、桃雪は余瀬に来て芭蕉を誘い、同好者と共に蜂巣の犬追物跡、(寿永2年(1155)三浦介等が那須野に九尾の狐狩をした時、犬を放して騒射をした所と伝えられる所、(今は其の形跡はない))を尋ね、それより狐を射止めたと伝えられる狐塚に詣でた。当時の篠原は、文学通りの野原で、人家は一軒もなかった。

13日(5/31)晴 金丸八幡宮へ。

 此の日は桃雪は見えず、津久井氏に誘われて金丸八幡宮に参詣した。

14日(6/1) 終日雨 桃雪余瀬。

 桃雪は手料理の重箱を携えて余瀬翠桃宅に来た。終日歌仙を巻く*。

15日(6/2)晴 桃雪方へ。

 芭蕉は、昨14日歌仙興業の時、桃雪を訪問する約束をしたので、出向いて泊った。芭蕉が16日に黒羽を立つ話をしたためと思われる。

16日(6/3)晴 高久の角左衛門へ。

 桃雪は芭蕉と一諸に余瀬まで来て、高久の庄屋角左衛門方へ馬で送らせ、野間で馬を返し、かつ紹介状を角左衛門に遣わした。道は蜂巣より桧木沢に出て、糠塚原の野間道(奥州街道に出る)を進む。途中馬子の男がしきりに一句を所望した。たまたまほととぎすが鳴きつつ道を横切ったので、芭蕉は馬上から<野を横に馬ひきむけよほととぎす>の即吟を与えた。高久より那須湯本に行きそれより芦野の道の辺の「遊行柳」を尋ねて、白河の関へと向かった。


14日の翠桃宅での歌仙

陸奥にくだらむとして、下野國まで旅立けるに、那須の黒羽といふ所に翠桃

何某の住みけるを尋て、深き野を分け入る程に、道もまがふばかり草深ければ

秣(まぐさ)負う人を枝折(しおり)の夏野哉  芭蕉

   青きいちごをこぼす椎の葉  翠桃

村雨に市の仮家を吹とりて  曾良

   町の中行く川音の月  芭蕉

鷹の子を手にすえながらきりぎりす   翠桃

萩の墨絵の縮緬は誰  曾良

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