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芭蕉db
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奥の細道
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(象潟
元禄2年6月15日〜18日)
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象潟能因島 いまはすべて陸地になっている
(写真提供:牛久市森田武さん2004年8月)
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責*。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里*、日影やゝかたぶく比、汐風
真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる*。闇中に莫
作して「雨も又奇也*」とせば、雨後の晴色又頼母敷と*、蜑の苫屋*に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て*、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ*、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木*、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云*。寺を干満珠寺*と云。此
処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海*、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関*、路をかぎり、東に堤を築て、秋田*にかよふ道
遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし*。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
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(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
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(しおこしや つるはぎぬれて うみすずし)
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祭礼
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象潟や料理何くふ神祭 曾良*
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(きさがたや りょうりなにくう かみまつり)
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蜑の家や戸板を敷て夕涼* 美濃の国商人 低耳*
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(あまのやや といたをしきて ゆうすずみ )
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岩上にみさご*の巣を見る
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波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良*
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(なみこえぬ ちぎりありてや みさごのす)
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表紙 年表 俳諧書留
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6月15日:酒田より象潟に向けて出立。朝より小雨。昼過ぎ遊佐町(吹浦)に到着。強雨のためここに宿泊。
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6月16日:吹浦を出発。降雨の中を秋田県由利郡象潟町へ。うやむやの関に至る。ここで雨甚だ強く、船小屋で休憩。昼過ぎ、塩越に到着。佐々木孫左衛門次郎宅に入る。ここで濡れた着物の着替えを調達した。うどんを出される。雨の中を象潟に行き、暮色を眺める。今野加兵衛来る。
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6月17日:朝の中小雨が残る。昼には晴天。神宮皇后の御陵と称する寺に参詣。夕食後船で湾内に出る。加兵衛は、酒や茶菓子を持参
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6月18日:快晴。酒田へ取って返す。
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6月19日:快晴。「温海山や吹浦かけて夕涼」を発句とする三吟歌仙。芭蕉、杉風宛・知足宛・越人宛に書簡を書いた(不祥)。
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6月20日:快晴。三吟歌仙。
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6月21日:快晴。夕方から曇、夜になって雨。三吟歌仙を終える。
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6月22日:曇、夕方晴。
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6月23日:晴。酒田の富豪近江屋三郎兵衛宅に招かれる。芭蕉即興吟「初真桑四つにや断ン輪に切ン」あり。
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6月24日:朝の中晴。夕方から夜半にかけて雨。
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6月25日:天気晴。酒田を出発。
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象潟や雨に西施が合歓の花
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西施は、越王勾踐<こうせん>の愛妾。越王勾踐は、絶世の美女西施のうつくしさにおぼれ、これが国の存亡の危機になるのではないかとかんがえた臣下の笵蠡<はんれい>は、一計を案じて彼女を敵国の呉王夫差<ふさ>に与えてしまった。案の定、呉王は彼女に耽溺し、たちまち国は乱れた。その機に乗じて越は呉をせめて陥落させ、西施は取り戻された。しかし、彼女がいると国難のもととなるであろうと考えた笵蠡は西施を暗殺し、水に沈めてしまう。美しいばかりに不幸であった西施の悲劇である。
さて、一句、松島は男性的、象潟は女性的。その女性の代表として西施がいる。
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「象潟や雨に西施が合歓の花」の句碑と芭蕉の旅姿(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
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汐越や鶴脛ぬれて海涼し
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汐越に鶴が降り立って波しぶきをかぶっている。その鶴の脛が海の水に濡れていかにも涼しそうだ。その汐越もいまや陸地となってしまって、和風レストラン「海苑蕉風荘」になっている。
なお、『真蹟懐紙』では、
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腰長の汐というふ処はいと浅く
て、鶴下り立ちてあさるを
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腰長や鶴脛ぬれて海涼し
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とある。腰長は<こしたけ>と読む。
なお、芭蕉はここで、「夕晴れや桜に涼む波の華」の句も残している。
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象潟市JR象潟駅の「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」の句碑(牛久市森田武さん2004年8月)
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江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責:<こうざんすいりくのふうこうかずをつくして、いまきさがたにほうすんをせむ>。象潟は、この時代、本文中にあるように松島と並び称される風光明媚の潟湖<せきこ>であった。しかし、文化元年(1804)6月4日の出羽大地震で隆起が起り現在のように陸地となってしまった。
方寸とは一寸四方の空間のことだが、転じて「こころ」・「胸中」を意味する。風光明媚の象潟を訪れたいと心に刻んできたが,今こうしてそこに立つことができた。気負いたった芭蕉の心が伝わってくる書き出し。
汐風
真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる:<しおかぜまさごをふきあげ、あめもうろうとしてちょうかいのやまかくる>と読む。鳥海山は、山形・秋田県境にある標高2,237mの名
峰
。
いさごをふみて其際十里:<・・そのきわじゅうり>と読む。「いさご」は砂子で細かな砂粒。海辺の砂浜を歩くこと、酒田から象潟までおよそ40kmあるという。この間は、直線距離では33km。
雨も又奇なり:蘇東坡の『西湖』の詩から採った。
雨後の晴色又頼母敷と:<うごのせいしょくまたたのもしきと>と読む。雨上がりの晴れた景色もまたすばらしいであろうと、の意。
蜑の苫屋:<あまのとまや>と読む。能因の歌「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」から引用
天能霽て:<てんよくはれて>と読む。よい天気になって、の意。
先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ:<まずのういんじまにふねをよせて、さんねんゆうきょのあとをとぶらい>と読む。能因法師がこの島に三年間隠れ住んだと伝えられている。
江上に御陵あり。神功皇
宮の御墓:<こうしょうにみささぎあり。じんぐうこうぐうのおんはか>と読む。『継尾集』によれば、神功皇后が百済遠征の帰途、ここ象潟に漂着し死亡したと伝えられている。もとより荒唐無稽な神話に過ぎないが。
干満珠寺:<かんまんじゅじ>と読む。禅宗の寺。慈覚大師の創建と伝えられる。蚶満寺
<かんまんじ>。
「花の上こぐ」とよまれし桜の老木:西行の歌「象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟」を引用
。
むやむやの関:不明。この地に昔鬼神が出没し、それが出るときにはむやむやという名の鳥がむやむやと鳴いたという。
秋田:現秋田市。当時、佐竹氏20万5千8百石の城下町。
象潟はうらむがごとし:<うらむ>「憾む」は悲しむこと。
「象潟や料理何食う神祭」象潟汐越の熊野権現の社の祭では、魚を食うことを禁じているという。魚が食えないというと何を食えばよいのだろうか?。
「蜑の家や戸板を敷きて夕涼み」日本海の凪は暑い。人々は夕涼みに戸板を浜辺に引っ張り出してきて、それに腰かけて暑さを凌ぐ。
「波こえぬ契ありてやみさごの巣」ミサゴの夫婦はこんな波がかかりそうな岩場に巣をこしらえて子育てをしているが、高波もここまでは来ないという約束でも有ってのことだろうか?
低耳:<ていじ>。宮部弥三郎という岐阜の商人。奥の細道のうち北陸道の旅のアドバイスをしたといわれている。
みさご:<鶚>。トビ程の大きさのワシタカ目の鳥。ウオタカ、スドリともいう。海辺に生息して魚類を食す。夫婦仲の良いものの象徴とされている。
米軍の固定翼垂直離着陸機(MV22)の愛称「オスプレイ」はこのミサゴのこと。
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干満珠寺ならぬ蚶満寺(牛久市森田武さん撮影2004年8月)
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熊野権現社(牛久市森田武さん撮影2004年8月)
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鳥海山(牛久市森田武さん撮影2004年8月)
全文翻訳
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ここまでにも、海山水陸の美を数限りなく見てきたというのに、今、また象潟へと心が急かれる。酒田の港から東北の方角、山を越え、磯を伝い、砂浜を踏んで、その間四十キロ。日が西に傾く頃、潮風は砂を巻き上げ、鳥海山も見えなくなるような雨が来た。象潟の美しさを暗中模索する面白みは、蘇東坡の言う「雨も又奇也」ではある。とは言え、雨後の晴天の下に見る景観はさぞやと、能因法師の歌「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿にして」のように蜑の苫屋に雨宿りして、雨の上がるのを待つ。
その朝、天気晴朗。朝日が華やかに海に差し込む頃、象潟に舟を浮かべる。まず、能因島に舟を寄せ、能因法師の三年幽居の跡を訪ねた。岸に上ってみれば、「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」と詠われた桜の老木が西行法師の記念となって残っている。岸辺に御陵がある。神功皇后の墓だという。寺の名を干満珠寺という、ここに神功皇后が行幸したという話は聞いたことがない。どういうことか。
この寺の方丈に座って簾を上げると、風景は一望の中に見える。南に鳥海山、天を支えて屹立し、その影は象潟の海に映る。西はむやむやの関が道を塞き止め、東には堤を作って秋田へ向かう道が遥かに続く。海は北に構え、その波の入ってくる辺りを汐越と言う。入り江の縦横は四キロほど。その俤は松島に似て、松島とは違う。松島は笑うが如く、象潟は、寂しさに悲しみを加えてうらむが如く。その地形は愁いに沈む女の姿だ。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何くふ神祭 曾良
蜑の家や戸板を敷て夕涼 低耳(みのゝ国の商人)
岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる
波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良