『猿雖宛書簡』と同じ日付の書簡である。『笈の小文』後半を終えて京都から発している.須磨・明石へ出発する前の一週間大阪での滞在に難儀したことが不満とともに語られている。
奈良での散財で卓袋の懐も大変だろうといいながら、京都へ出てくることを暗に促しているところが面白い。郷里の仲間への思慕が伺われる。
大坂へ十三日に着候而、十九日発足:奈良から吉野の旅を終え大阪に着いたのが、貞亨5年4月の13日。1週間を大阪の八軒屋久左衛門宅で過して、19日、神戸から須磨・明石への旅に出発した。ここで『笈の小文』の旅を終え、山崎から京都に入ってこの書簡と猿雖宛書簡を書いた。
若は貴様御越可レ被レ成<きさまおこしなさるべき>かと、あたごは節句過まで残し置可レ申候。:あなたがひょっとしてこちら嵯峨にお出でになるかもしれないので、その時一緒に行こうと思って、愛宕神社には未だ参詣しておりません、の意。愛宕社は北嵯峨にある。
御出とは不レ存候間、尤成合に可レ被レ成候:<おいでとはぞんぜずそうろうあいだ、もっともなりあいになさるべくそうろう>と読む。あなたがここ京都にお出でになるとは思っていませんので、ご都合のよろしいようになさって下さい、の意。
奈良に而遊興、誠旅中之慰み、与兵・貴様、御物入推量いたし候:<ならにてゆうきょう、まことにりょちゅうのなぐさみ・・・おものいりすいりょういたしそうろう>と読む。奈良での遊興費や旅の経費などを与兵衛や卓袋が出したのだろうか?
尚々奈良墨やも大坂に而見舞被レ申候:猿雖宛書簡に登場した奈良の行商の墨屋が大阪で宿を訪ねてくれたのだが、留守で会えなかったのである。しかし、ひょうきんな彼の話を思い出しては道々笑ったことだったというのである。