芭蕉之*
本書簡は、江戸在住の芭蕉が、大垣蕉門の弟子中川濁子に宛てたものである。内容は、「鳶の評論」で木因から我意を得た返事を受けてそれを自慢した内容となっているが、断簡であってそれ以外の用件は残念ながら分からない。自慢話だけをそれこそ千里を隔てた濁子に送るわけも無いから、ちょうど何かの便りとともに送ったものであろう。
鳶の評:『木因宛書簡』(鳶の評論)参照。
聊偽:<いささかいつわり>と読む。江戸でこのように同物を重ねることを理解するものは一人も居ないと、木因に宛てて書いたのは誇張であって、木因の考えを試してみたかったからだ、というのである。
爰元にも珍しきと而巳云人三分:<ここもとにも・・・とのみいうひとさんぶ>と読む。爰元は江戸のこと。同物を重ねることもまた面白いという人も3割は居る、というのである。
道ヲ無して云度事云るゝなど嘲野輩も適々有レ之:<みちをないがしろにしていいたきこといわるるなどあざけるやはいもたまたまこれあり>などと読む。古来の作法に逆らって道を蔑ろにすると言って非難する粗野な連中も居る、の意。
日来彼翁此道知りたる人と定置候へば:<ひごろかのおきなこのみちしりたるひととさだめおきそうらえば>と読む。木因という人は俳諧を知り尽くしている人だと評価しておりました、の意。
聊了簡引見ン為、書付遣し申候處:<いささかりょうけんひきみんため、かきつけつかわしもうしそうろうところ>と読む。木因の考えを参照してみようと思って便りをしてみたところ、の意。
古往達人、花に桜を附ルに同意去ルヲ本意と云リ:<こうおうたつじん、はなにさくらをつけるにどういさるをほにといえり>と読む。花という語に後から桜を付けるのは同物になるので絶対に付けてはならない」というのは、古今の達人達の言ってきたところである。
増テ鳶に鳶を付て一物別意ヲ付分:<ましてとびにとびをつけていちぶつべついをつけわけ>と読む。同じ「鳶」を前書と句の中と使い分けるというはなれわざ。
古往今来未来一句の格:<こおうこんらいみらいのいっくのかく>。過去現在未来においていたって独創的な付け句というべきである。よほど芭蕉はこの事件が自慢なのである。
何レノ時か秋風来テ芭蕉の露もろく破レン迄の一句:<いずれのときかしゅうふきたってばしょうのつゆもろくやぶれんまでのいっく>と読む。私が死ぬまでにはこれ以上のものは現れないでしょう、の意。
一生是のみに存斗に候と書内:<いっしょうこれのみぞんずるばかりにそうろうとかくうち>と読む。鳶に鳶という同物を重ねながら、それを仕分けたのは、古今未来を通じてこの句だけだろうと思う、というのである。余程気に入って、少々筆が走りすぎているようである。