あの中に蒔絵書きたし宿の月 芭蕉
あまつさえ空前絶後の不況の中で事前の盛り上がりに欠け、加えてエルニーニョとやらの影響で暖冬に見舞われて雪の心配さえ囁かれた長野オリンピックが、蓋を開けてみれば日本選手の活躍に大喝采。少なくとも日本でみる限り長野オリンピックは大成功の大会となりました。
その長野オリンピックで使われた金銀銅のメダル、あの装飾は信州の地場産業木曽の蒔絵でした。メダリスト達がTVカメラに向かって誇らしげにかざした大写しのメダルの装飾、スポットライトに浮かび上がった色漆の鮮やかさは、さすがに伝統の技と美、TV桟敷の観客をも十分に魅了させてくれました。
さて、冒頭の一句は、芭蕉の『更科日記』の中の有名な句です。まさに、あの木曽の蒔絵なのですが、その当時の木曽の漆芸は、芭蕉に言わせれば、「・・・ふつつかなる蒔絵をしたり。都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、思ひもかけぬ興に入りて、碧碗玉卮*の心地せらるも所がらなり。」というわけで、お世辞にも褒められるような代物ではなかったようです。あれからちょうど300年、営々として継がれてきた鄙の伝統工芸木曽漆にとっても冬季五輪長野大会は一世一代の桧舞台だったのでした。
いま、工業化社会の過成熟化がしきりと喧伝されています。たしかにこれが不況と空洞化の原因であることは間違いありません。しからば、この成熟の向こうには何が待っているのでしょうか。そこにははっきりと二つの岐路が見えてきます。一つは、過去を破壊してブレイクスルーしていく先端技術化、そしてもう一つは美へ向かう伝統芸術化です。そして、わけても21世紀の技術社会は究極の美へと向かうはずだと筆者は考えています。問わず語りにそこへの道筋をおいおい語っていきたいと思います。
さて、風間善樹さんから立派なたすきを受けて、今月号から一年間、このコラムを筆者が担当することになりました。読者諸兄姉の忌憚のない御批判を仰ぎます。