『甲斐ケ嶺第6号』(1992.01.15)

『国中と郡内――その間を隔てるもの――』

山梨大学 伊 藤  洋


  1.  
    東京起点の克服
  2.  
    地方とは何か
  3.  
    ネットワークアーキテクチャの再編
  4.  
    地域の特徴
  5.  
    おわりに

東京起点の克服

 中央道西宮線大月ジャンクションは、片や富士吉田・河口湖方面へ、片や甲府を経て西方へ続く二つの街道の追分である。このジャンクションで分岐する二つの道路のなす角は約十五度三十分。東京からこの道を快走してきたドライバにとって、この角度は百六十四度三十分の鈍角に見える。それゆえ道路が二つに分れていることを意識することもなく、極く自然に目的の方角に向かってここを通過することが出来る。

 一方、甲府から笹子を越えて富士吉田に向かうドライバにとっては、この角度は厳しい鋭角である。十五度三十分のヘアピンカーブを緊張の思いで右に転回しなければならない。百六十四度三十分と十五度三十分のこれら二つの角度こそ、国中と郡内を隔てる隔壁の第一等のものである。もとより大月ジャンクションは、その地形ゆえにこういう角度を採らなければならないという必然が無いわけではない。しかし、それでいて東京と郡内、東京と国中をそれぞれに結ぶこの自然さと、国中と郡内を結ぶこの不自然さの対照は鮮やかである。そして分けても後者の不自然さを、前者の自然さの中で何の不思議も感じない人々の心理的慣性こそが国中と郡内という本来一つの地域を隔て、区別し、差別化する最大の要因なのである。そして、この自然さは、全てが東京と結ばれること、すなわち「中央」と結ばれることを価値とする中央集権的価値観のなせる業であり、この不自然さは「中央」と擦り寄ることにキュウキュウとしてきたツケに他ならない。

 こういう類の事例は、最近のリニアモーターカー実験線誘致期成同盟にも見られた。東京と十五分で結ばれる超高速鉄道を合言葉に、六十余市町村の首長が一堂に会して誘致合戦をした。ここでは、それぞれの首長たちは停車駅を己れの町に誘致して、おらが町と東京を十五分で結ぶことを呉越同舟の中で考えたのであった。そこには己れの町と隣の町を結ぶことを優先する思想は生れない。こうして道志村と早川町を往復するのには一日掛りの大仕事になることなど当然の事と考えるか、考えることさえせず、東京と十五分で結ばれることだけに血道を上げる仕儀となる。地域間のコミュニケーションをまず考え、その後に他地域との交流の手段方法を確立する思想、これが育たない限り地域の活性化など望むべくもない。国中と郡内、かくも近くて遠い地域をどう接近させるか、その為には私たちの心に巣食う中央集権的価値観の克服なくしては不可能である。
 文頭へ戻る


地方とは何か

 中央という名詞の反対語は何だろうか。行政や政治用語の慣用に従えば、中央の反対は地方であるらしい。当然地方の反対語も中央ということになる。その結果中央・東京に対して地方・山梨という構図が浮んでくる。地方出身者というのは田舎者の別称であり、蔑称である。かくして、「地方人」は、中央人とは言われなくてもせめて中央と「直結」することによって虎の衣をかる狐になりたいと希望する。

 実は、地方の反対語は中央ではない。地方の反対語は「天」なのである。「天は円にして、地は方なり」という言葉が地方という語の語源だと言われている。これは、天は円形で、大地は方形であるという単純な言説である。四角の大地の上に円形の天がある。天には太陽と月があって、それぞれ昼と夜という対立する二つの世界を支配する。一方、四角の大地には東西南北の四つの方角が有って、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の黒い亀が居て、それぞれの方角を守護する。青房、白房、赤房、黒房という大相撲でお馴染みの色彩はここから来た。東は青い「木」の芽を表わして、「春」の息吹を象徴する。南は朱雀の赤が「火」と燃える朱夏の暑さを連想させて「夏」に対応し、白虎の守護する西の方角は、白「金」の露を置く「秋」の季節を表わす。黒い亀の棲む玄海は冷たい「冬」の「水」をイメージする。そして肝心の真ん中の「地方」の内側は四角に囲まれた「黄」色い「土」で出来ている。こうして、東西南北は春秋夏冬に対応し、木金火水土と、天にある陰陽の月と日とを加えて一週間の曜日に結び付けられているのである。このように古く中国から輸入した唐言葉・「地方」は単なる大地の謂であった。だから、山梨が地方であるように、主都・東京も同じ地方に他ならない。

 この「地方」という言葉が輸入された時代と期を一にして律令制度という中央集権国家統治のシステムも同時に中国から輸入された。そのことによって、国家権力の地方支配が、中央を地方の上位概念としながら定着していったものであろう。思えば長い時代の因習としての「地方」対「中央」の関係なのである。

 こういう中央優位、地方劣位という対立概念は、必ずしも国家的中央権力の地方支配というに止まらない深みをもっている。中央権力の地方支配の拠点としての県庁所在地と市町村の間にも、上下あるいは尊卑の関係が存在する。そしてここでの主題である県庁所在地甲府を有する国中と地方の中の地方としての郡内という対立の構図もこういう文脈の中から生れたものであろう。これを要するに、山梨における国中・郡内の関係は、小文字で書いた中央集権機構だと言っても過言ではない。
 文頭へ戻る


ネットワークアーキテクチャの再編

いまA1、A2、A3、‥‥、Alや、B1、B2、B3、‥‥、Bm、それにC1、C2、C3、‥‥Cnというような数多くの地域が有るとしよう。これらの地域を全く無差別に結びつけるとするとA1からCnまでのそれぞれから二つを選んでその間を結ぶ専用のネットワークを作らなければならない。こういうものを完全グラフと言う。このネットワークは理想的ではあるが、費用対成果の比、つまりコストパフォーマンスを悪くする。そこで、効率的なネットワークは無いものかと考え出されたのが階層化ネットワークである。

 まず全体を統合するOという全体の中心を定める。OとしてはA1からCnまでの中から選んでもよいし、特別に新しく作ってもよい。遷都によって出来た平城京や平安京などは新たに作った例であり、明治の東京のように江戸という既存の都市を国家の中心と定めたのは後者の例である。

さて、つぎにAの付く集団の中心・地方中心としてのAを決定する。同様にBの付く集団の地方中心としてのBや、Cの地方中心としてのCも決定する。この場合も新たに作ってもよいし、それぞれのグループ内にある既存の都市を地方中心と定めてもよい。甲府は徳川政権の地方中心であったが、明治政府の地方中核都市でもあった。松本市と長野市、静岡市と浜松市のように勢力が桔抗していたか、または栃木市と宇都宮市のように集団の組み合わせが変化したような地域では中心の設定は手間がかかる。ともあれこうして決められた複数の地方中心に向けてOからネットワークを放射状に結ぶ。

 また、各地方では各地方で適当に小グループを定めて、その中からグループ中心を定め、地方中心との間でネットワークを構築する。例えば、峡中、峡北、峡南、峡東、峡西、東八、東部、北麓などと県内八地域程度に分けて中心を作ることも考えれる。大概これらは旧幕府時代の代官所の有ったところなどにした。こういうグループ中心へ向けて、地方中心もまた放射状のネットワークを張る。グループ中心は、それぞれのグループ内の地域との間にネットワークを放射状に張る。

 例えば、末端に属するC13を例に取って考えてみよう。これが何かを決定しようと思ったらまずC13が属するグループ中心C1にお伺いを立てて、地方中心Cへの疎通を依頼する。これに成功したら、Cの地方中心にOへのアクセスを懇願する。また、C13が隣のC12と問題を話合う場合でも両者が属するグループ中心C1の裁決が必要になる。ましてC13がA31と話合うことなどは至難の技である。この場合には、階層の最も高いOを経由してフルにそれぞれの属する集団の全中心を介在させなければならないからである。

 こういう種類の階層構造のネットワークとしては、二十年前までの電電公社の市外回線のネットワークがそうであった。いまやこういうネットワークは情報通信の世界では役に立たない。しかし、我が国の政治・行政機構は今でもまさにこの構造である。君臨してかつ統治する中央集権構造が地域としての横のコミュニケーションを乏しいものにしているのである。道路や鉄道などで、放射線がよく発達しているのに対し、環状線がなかなか発達しないのは全てこういう構造の為ではないだろうか。

 こういうネットワーク構造   ネットワークの作り方のことをネットワークアーキテクチャなどと言うことがある   に対してAと名の付く集団内を数珠つなぎにして輪を作り、同様にBもCも輪を作る。それぞれの輪の間も同様に輪で結ぶか、必要とあらば仮の中心を定めて中継の労だけを取らせるというようにするネットワークの作りつけ方が、いまコンピュータやニューメディアの世界では主流になろうとしている。曰く、ローカルエーリアネットワーク(LAN)とか付加価値通信網サービス(VAN)などという世界である。ここには中心というものが見えないし、事実存在しない。ネットワークの中では個々のシステムは個々の特徴ゆえに存在の意義をもち、それゆえに他と交流できる。こういう特徴や機能、能力を分散処理システムと呼んでいる。このシステムの特長は、何といってもネットワークが水平ゆえに情報の支配と管理を受けることが無いこと、隣近所のコミュニケーションが豊かになることである。しかし、他面末端の個人や市町村が独自性を持ち、他との違いが強調できなければ存在の理由が失われる点で地域間の競走が激化するという欠点も有る。そしてそういうコミュニティ間の競走と協調が地域の活力となるのである。
 文頭へ戻る


地域の特徴

 九一年十一月に発表された総理府の『国民生活白書』は、山梨県が豊かさ日本一だと書いた。県民は等しく驚いたが、驚いても不思議はない。一つには豊かさの実感など本当言えば無いからに他ならないが、それにもまして県人は、己れの貧しさを有力なアイデンティティとして父祖から受け継いできていたからだ。それが日本一豊かだと言われれば驚く以外にはない。事実、有史以来、山梨は貧しかった。この地域は、降雨量が少なく、平野が無くて大河が無く、畑作であり、それゆえ米作が出来ず、代わって果物がよく取れるような地域ゆえに、農業化社会と言われていた近代までは貧困に喘いでいたのである。果物など満腹してから食べるものであって空腹に苦しむ庶民が欲しがる訳が無い。だから果物は自家用にはなりえても商品にはならなかった。事実山梨が果樹王国として自他ともに世間に認められるようになったのは高度経済成長期に入って、一人あたり栄養摂取量が二五〇〇カロリーに達してからのことである。こういう地域ゆえに人々は臥薪嘗胆してよく働いた。

 こういう貧しい地域ではあったが一つだけ利点も有った。それは峡中地域を除けば大河が無かったために洪水による土地流失と、それによる大地主階級が出現することが無く、したがって小作制度が比較的未発達であった。米どころと言われる山形県庄内地方や宮城県大崎耕土などと比較してみればその違いがよく分るであろう。そのために零細な自作農農民が人口の過半を占めていたのが山梨県の特徴であった。小作農ではなく自作農であれば貧しくとも自分の努力によって生活の改善は不可能ではない。そこに臥薪嘗胆と創意工夫の意欲が保たれていたのであろう。こういう環境の中で、明治を迎えた人々は、子弟を高等教育機関に学ばせることに懸命になった。わけても技師や教員に多くの人材を配して行ったのは貧しさゆえのプラグマティズムがあった為だろうと筆者は推量している。

 しかし、こうした県民の教育投資の結果、手に職を奉じた人々は故郷を捨てて都会に流失して行ったから、残された山梨県は過疎と貧困に喘いできた。しかし、石油危機以後の我が国経済の大転換は内陸部工業を促し、企業や新産業の進出が相次いで起こり、その流れの中にかつて故郷を捨てた人々が大量に含まれていたがゆえに、進出企業は操業を順調に伸して、ハイテク県山梨がここに出現したのである。過疎に築かれたハイテク山梨は乱開発の波も弱く、全体として住みやすさだけは日本一の折り紙が付いたのであろう。

 この間、特に郡内は、そこが火山灰の痩せ地であってみれば米作は皆無に等しく、主食の自給もままならなかった地域であった。かすかに元禄の頃より江戸のブルジョアジーを中心に富士講信仰が興り、これによって観光産業が立地した。しかし、当時の観光産業は旅の恥を掻き捨てようという旅人の財布の中身を当てにする業態であったから、もとより自助努力の世界ではない。そういう中で、郡内織を中心とした機織業が立地して地場産業化していた。そこへ前述のハイテク産業立地のトレンドが到来して今や郡内でも富士北麓地域は、国中、とりわけ甲府・峡中地域と比較し得るほどまでに豊かになってきた。また、大月、都留、上野原を中心とする県東部地域は、大東京と本県を結ぶ結節点として重要な役割が付与されようとしている。こうして、富める国中、貧しい郡内という図式は、いま着実に過去のものになろうとしている。

 以上見てきたように、国中と郡内とはそれぞれに切り離されながら独自の文化を育んでも来た。そしていま双方ともどちらが優位というのではなく、対等にその独自性を主張できる時代環境にある。また更に、地域としてのアイデンティティも共有できる環境下にあるように思われる。それだけに、双方は、競走と協調の時代を迎えているのではあるまいか。もう一度、というより開闢以来初めて郡内と国中が互いに目を見合いながら語り合うときが来ている。豊かさ日本一の実績を共に味合うためにも、この事が焦眉の急である。
 文頭へ戻る


おわりに

 天野久元知事の政治的キャッチフレーズ・「富める山梨」は、極言すればいかにして中央からのパイプを使って山梨にその富を吸い込むかであった。その後の山梨の政治が、この路線から離れることはなかった。中央道大月ジャンクションの分岐の角度一五度三〇分はその富を吸い取る吸入口の形に出来ていたのである。しかし、いま実感はともかくも、山梨は豊かさ日本一と言われるようになった。霞ケ関官庁の政府刊行物の評価ではなく、ここに住む者にとっても豊かさが真に実感できるようになるためには、中央集権機構に徒に擦り寄ることではなく、地域の問題を自ら考え自ら企画していくことが必要なのではあるまいか。貧困な時代を健気に生きてきた甲州人なればこそ、その底力を十分に秘めていると信じたい。

二〇世紀の前半を覆った帝国主義とナショナリズムは、その後の東西冷戦の中に塗り込められて結局この世紀の殆どを生き延びた。しかし、この世紀末には、それもどうやら気息奄奄たる状況を呈している。今時代は、グローバルに考え、ローカルに実行する時代である。ナショナリズムを克服して、グローバリズムに直接に繋いでいく、そういうパースペクティブを提示していくことが「地方の時代」の謂である。御坂の山頂で天下茶屋シンポジウムでも開いてみては如何だろう。

 文頭へ戻る


 itoyo@apricot.ese.yamanashi.ac.jp