山梨科学アカデミー機関紙第2号1996.

マルチメディアに関する「定義」の試み

山梨大学教授・同大情報処理センター長

伊 藤  洋


  1. はじめに

  2. 情報とその伝達

  3. 記号をあやつる人間情報
    4. マルチメディアの定義の試み


 本稿は,1996517日,山梨科学アカデミー年次総会において「マルチメディアの時代的意味」と題して行った特別講演要旨をもとに,特に意を尽くせなかった部分について加筆訂正し,標記機関誌の求めに応じてまとめたものである.

はじめに

 『旧約聖書』創世記第11章によれば,「ノアの洪水」の後,人類として唯一生き残ったノアの子孫たちは彼ら一族が一緒に住む町を作り,そこに一族の結束の象徴として天に届く高い塔を建て始めました.しかし,その天を恐れぬ僭越さに怒った神は,人々を離反させて町と塔を作れないようにしてしまいました.それまで一つの言葉でよく意志が通じ合っていた人々ですが,散りぢりばらばらになるとともに沢山の言語を作り,とうとうお互いにコミュニケーションができなくなってしまいました.この作られなかった架空の町の名こそバベル,この未完の塔がバベルの塔です.

 こうして現在までに,ノアの後裔たる人類は3,000とも5,000ともいわれる言語をつくり,相互の理解を欠き,それがもとで争い,殺し合いしながら生きてきました.近代にいたるといささか怪しげなキャッチフレーズ<単一民族>という概念の下に近代国家を作り上げ,少数言語を抹殺したために少なからず言語数を減らしたとはいうものの,国家の言語=「国語」教育を徹底させもしましたから,いよいよもって諸国語間のコミュニケーションは晦渋を極めるようになりました.わけても戦時下では,敵国語を聞くことも,まして話すことも徹底的に禁じられましたから,ディスコミュニケーションは一段と促進されてしまいました.

 冷戦という相互に「疑心暗鬼」を必然とする時代が終わり,東西の歴史的な和解が成立した1990年頃から,あたかも根雪を割って芽を出す早春の草花のように,インターネットという電気通信ネットワークを介して世界を一つに結ぶ統一的プロトコルが普及しはじめ,燎原の火のようにあっという間に地球上の津々浦々まで拡張していきました.こういうコミュニケーション基盤の広がりは人類のどの時点の歴史を見ても存在しなかったまさに奇跡としか言いようのない大事件にちがいありません.

 インターネットが結ぶシームレスでボーダレスな通信システムは,単なるハードウェアとしての電気通信手段としてだけではなく,バベルの塔以来の多言語とそれゆえの「ディス=コミュニケーション」という制約を突き破って,地球大の共通理解へのコミュニケーションネットワークへと発展する可能性があります.その成否の鍵を握っているのがマルチメディアです.本稿では,このような立場から以下にマルチメディアの「定義」を試みたいと思います.


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情報とその伝達

情報とは

 「情報(in-formation)」という語を『広辞苑(第4版)』は,「@或ることがらについての知らせ,A判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」と説明しています.英語のinformationを「情報」と翻訳したのは文豪森鴎外だといわれていますが,あまりよい翻訳とはいえません.もともと英語のinformationの語源は以下のようなものと言われています.

 不確実な事態に直面したとき,人はその不確実性を解消するために「情報」を求めますが,不確実性を打ち消すのに十分な量の「情報」が取り込まれたとき(in),人は不確実な状態にあったときとは違う何かを内部に形成します(formation).この取り込みと形成を併せて(in-formation)だというわけです.こうして情報を摂取して内部に何かが形成された人は,あらためて的確な判断を下すことも行動を起こすこともできるというわけです.

理想的コミュニケーション

 情報量について差のある個人や集団の間で,情報をやり取りすることによってその情報格差を解消することをコミュニケーション(communication)といいます.情報量の多い方から少ない方に向かって情報が流れ,両者の情報格差が解消されたとき情報の伝達は終わり,両者の間にはコミュニケーション(共通化)が完了するというわけです.

 コミュニケーションを図るのに,人は,言葉,文章,絵画,音楽,身振り・手振り,顔の表情,その他無意識に表現される様々な行動(ボディランゲージ)など,それこそ無数といってもいいくらい様々な手段や方法を持っています.これらのうちどれを採用するにせよ,これらによって作られたコード体系が人々の間で完全に共有化されていて,送受信者の間で伝達経路が完全につながっているのであればコミュニケーションは完璧に成されます.その順序を確認しておきましょう.

 まず,情報発信者が伝達すべき情報を内発します.それを送受信者間で共有化されている「辞書」によってコード化し,同じく天下周知の「文法(範列法則)」にしたがってコードの並びを整えてテキストを形成し,話し言葉なら発声器官を通して,文章なら紙などに書いて発信します(メッセージ作成).音声または紙にメッセージとして表現された一塊の情報は伝達経路が完全にできていれば正確に相手に受信されます.受信者は,このテキストを天下周知の文法によって構文解析し,共有されている辞書にしたがってコードの意味を理解し最終的に発信者の意図したとおりのメッセージを解読することができます.

 もし伝達の途中で雑音に妨害されたり,しみや手垢で汚れが発生した場合には,受信者はその旨を通知し,質問や再送要求を発し,再度コミュニケーションを図ります.

 これはまことに理想的で感動的なほどのコミュニケーションの仕組みです.以上の様子を下の図にまとめて示します.

1 情報伝達の機構

 ところが事態はこうは順調にいきません.コードをコードたらしめている辞書と文法の質が発信者と受信者とも不完備で,共通の理解に達することなど到底できないのです.大学教育の現場でも,学生が当然所持していてしかるべきだとばかり思い込んでいた「辞書と文法」が実はまるで完備していなくて,行った講義の殆どが彼らに伝達されていなかったということを,学年末の定期試験の答案用紙で知らされるなどということを日常的に体験しています.土壌についての講演を口角に泡を飛ばして2時間やって,さて質問をどうぞといったら「先生はドジョウドジョウと話されましたが,それはゴマ泥鰌のことですか?,赤泥鰌のことですか?」と質問されたような具合です.大学入試センターテストというのは,煎じ詰めれば受験者が有している「辞書と文法」が,その大学での入門教育時に十分であるか否かを判定することです.そして学生たちはそこそこそのことを保証すると思われる成績を上げて入学しているにもかかわらず,実際の場面では驚くべき「辞書と文法」の欠陥を露呈していて愕然とさせられることが枚挙にいとまなくあります.とりわけ,雲の動きから明日の天気を知ったり,草花や庭木の名前や性質を知っていたり,料理に出てくる食材が畑に生育しているときの姿を知悉していたりという類の,当然親から子へ伝達されるであろう日常的生活の知恵すら辞書化されていないのにはあきれかえってしまいます.

発信者優先のコミュニケーション

 このような教師から学生へのディスコミュニケーションが,今度はコンパの席上やカラオケに行ったときに逆の立場で体験させられます.学生同士で話している内容が当方にとってさっぱりチンプンカンプンなのです.また,歌う唄がなんとも国籍不明でどうみてもソナタ形式やフーガといった音楽の文法に適合していないのです.

 実は,上図に示したような理想的なコミュニケーション形態というのは,発信者からの一方的な情報伝達であり,こういう伝達のメカニズムを「発信者優先」のコミュニケーションといいます.発信者優先コミュニケーションの場合には,「辞書と文法」の共有化が絶対条件であることが分かります.同一言語圏に属しながら世代の違いや体験の違いでこれだけの障害が発生しているのですから,まして異言語圏に属する者同士のコミュニケーションなど至難の業であることが分かります.

 それなのにコンピュータのような機械によるコミュニケーションでは少なくとも機械同士では「ほぼ」完璧なコミュニケーションが成立しています.それがインターネットです.インターネットを構成している鍵は,唯一デファクトスタンダードなプロトコルです.

インターネットのプロトコル体系

 コンピュータによるインターネット情報通信では機械が行うコミュニケーションですから融通が利きません.そのため見ためには実に精緻にしてしかも晦渋を極めていますが,基本的には上の理想的なコミュニケーションを実現しています.最初に,全体の枠組みを説明しておきましょう.

 インターネットでコミュニケーションを図るについては,上述の辞書と文法をまず世界的標準として確立しておかなくてはなりません.ここに独特なコード体系や統辞体系を持ち込んだりしますと情報ネットワークは大混乱を起こします.電気通信が実用化されて以来,電気通信事業は先ず例外なく政府の手かそうでなければナショナルフラッグとよばれる準政府機関たる独占企業体で実現されていましたから,その技術基準は一本であり,たまさか異なる国家間にまたがる国際電気通信が必要になったらその分界点で協議をしたり,あるいはそこだけ民営化したりしてインターフェースを取るようにしてきました.それとても国際関係が悪化したらインターフェースは遠慮会釈無く取り払ってしまうというやり方がまかりとおってもおりました.これに対し,インターネットは過去の歴史に無いやり方で世界を結ぶという法外なたくらみを実現しました.

 インターネットは世界大の話ですから,ネットワークの物理的な質の良否(回線が光ファイバか導線か)や気象条件,技術的レベルの差や社会的・政治的条件など実に多様な状態が存在するはずです.そういう瞬時にカオスに転ずるかもしれない状況を前提としながら,テキストの配送を確実に,あるいは確実でなければデータを廃棄し,そのことを通知することも含めてコミュニケーションを確立しなくてはなりません.こういうあい矛盾する要求に対してインターネットは応えられたがゆえに(あるいは完璧には応えなかったがゆえに)今日の隆盛をものすることができました.そのプロトコルを総称してTCP/IPプロトコル群といいます.

 TCP/IPは,実に膨大なプロトコルからなるもので,そのいちいちをここで解説する紙幅は全くありませんが,大まかに言ってTCPTransmission Control Protocol)は,送受信コンピュータ間のデータ転送の信頼性を確保するための,IPInternet Protocol)は,情報を送受信する両コンピュータのアドレスを認識し(アドレッシング),それらの間の経路の制御(ルーティング)をつかさどるプロトコル群です.

 インターネットのプロトコル体系は,アメリカのARPANETAdvanced Research Projects Agency Network)という軍産学のプロジェクトとして徐々に確立され,RFCRequest For Comment)という誰でも提案し,それがよければみんなでそれを規格化するという実にオープンでルーズな中央管理組織を持たないコンソーシアムで1982年頃までにほぼその原形が作られました.

2 TCP/IPによるネットワーク構成

 TCP/IPプロトコルによるネットワーク構成例を図2に示します.図は二つのコンピュータであるノードAとノードBの間のインターネット通信サービスを利用する場合のプロトコルの仕組みを模式的に表現したものです.このようにプロトコル体系は階層的に構成されています.各階層は,上下の階層間でしっかりインターフェースをとることだけがなされていれば,ベンダーは与えられた役割をどのような方法で実現しても構いません.また,隣接以外の階層とは全く無関係であって相互に干渉し合うことは無いことになっています.このようにインターネットプロトコルは,枠組みとしての強い規定と具体を実現するための自由さとが際立っているコンセプトでできています.こういう考え方はいかにも欧米的です.あたかも,街並みや家々の構造や色彩に強い規制があるのに,市民生活の自由や人権はよく保証されているというのとよく符合します.校舎の建物は思いおもいに特徴的なのに,同じ教科書と共通試験を受けているこの国の学校教育との強い対比を感じるのは筆者一人でしょうか.

 図2の階層構造とOSI参照プロトコルの相対関係を下の図に示しました.ここに,OSI(Open Network Interconnection開放型システム間相互接続)参照プロトコルとは,ISO(International Organization for Standardization国際標準化機構)からオープンシステムに関して各ベンダーに発せられた準拠すべき基準ですが,実態は枠組みだけが提示されているだけで具体的な中身を詳述したものではありません.インターネットプロトコルであるTCP/IPは,そういう意味でOSI参照プロトコルに準拠して作られていますがOSIとは直接的関係はありません.そして,TCP/IPOSIプロトコルとを関連付けますと,OSIのトランスポート層にTCPプロトコルが,ネットワーク層にIPプロトコルが,そしてデータリンク層と物理層にLANネットワーク(Local Area Network)が対応しています.

3 TCP/IPOSI参照プロトコルの関係

インターネット情報通信

 少し退屈な話になりますが,上述のような階層的プロトコル体系によって実現されるインターネット通信サービスがどのように実際に実現されるのかを見てみましょう.そこでインターネットサービスで最も代表的なものの一つである匿名FTPAnonymous File Transfer Protocol)を例にとって,遠方のコンピュータ上に格納されている情報ファイルを受け取ったり(get,あるいはそこに情報を提供したり(put)するときの手順を以下に簡単に説明します.匿名FTPは,いまや世界中に文字どおり無数に存在し,膨大な情報資源がそこに横たわっています.ここに入ってみると,まさにインターネットは知識の宝庫であり,インターネットが世界大の学習社会のインフラストラクチャになっているということが実感できます.

 さて,遠方のサイトのコンピュータBに掲載されている情報ファイルを取得(get)したいという要求が発生したと仮定します.ということは,当然自分にその情報が無いからに他なりません.そこで,それをgetするために自分のコンピュータA上にapplicationとしてFTPソフトウェアを立ち上げます.このソフトは,UNIXなら標準で装備されていますし,パソコンでも最近はOSの中に組み込まれていたり,あるいは大学のサーバーで無料で提供したりしていますから誰でも容易に入手できます.ユーザは,このソフトウェアを用いて求めるファイルを掲載しているコンピュータのIPアドレス(世界中でユニークに与えられているコンピュータやネットワーク機器の固有名詞,あるいはコンピュータ端末利用者名のことでEメールアドレスとしても使われる.この例では情報を格納している宛先コンピュータのハードウェアアドレス)とそのファイルの置かれているディレクトリを書き込んでネットワークの中に投げ込みます.

 すると,ユーザーのコンピュータAは,TCP層で,宛先ポート番号(この場合はデフォルトで20と決められている)を与え(匿名FTPのファイルをgetすることを意味する),そのファイルが送られてきたときには自分のコンピュータは何番目のポートで受信する用意があるかというデータを添え,今送ろうとしているパケットの全長はどのくらいの長さであり,相手とどういう手順で対話をすることにするかなどをTCPデータグラムに包み込んでIP層に送ります.それを受け取ったIP層は,宛先IPアドレスと一緒に要求者自身のIPアドレスを加えます.これがTCP/IPプロトコルです.そのプロトコルに準拠して発送される信号をTCP/IPパケットと呼びます.

 コンピュータAから発せられたTCPパケットは,コンピュータのデータリンク層から物理層を介して,先ずは自組織のLAN内にARPAddress Resolution Packet)リクエストパケットを送出します.ARPリクエストパケットは,宛先IPアドレスに相当するコンピュータBのハードウェアアドレス(広く使われているイーサーネットでは,MACアドレス(Media Access Control):コンピュータの物理的番号であり,一台のコンピュータでも複数の人によって共同利用されることがあるので,そのコンピュータ利用者のアドレスとは必ずしも一致しない.)を知り,そこへTCPパケットを送るためです.LAN内には多数のコンピュータが接続されていますから,ARPリクエストパケットの存在を全コンピュータが感じますが,宛先IPアドレスが自分のものではないので読み飛ばしてしまいます.その中で唯一LANを仕切っているルータだけが,その宛先が自組織にはなく遠方のサイトであること,それは自分の担当であることを認識して,ARPキャッシュメモリーにノードAのMACアドレスをメモした上でARPレスポンスパケットを送出して自分に以下のTCP/IPパケットを全部送信するように促します.

 ルータは,このパケットの宛先IPアドレスを解析して,パケットをどういう経路で伝えていくべきか,具体的にはIPアドレスから目的地に向かうための隣接のルータを調べ,そこへ接続されている回線に信号を転送します.こういうルーティングについての知識は,各ルータ間で一定時間おきにルーティング情報を流していて(これをトラフィックといいます),時々刻々と増えたり減ったりする世界中のサイト情報を交換し合っています.こうして集めた情報を,ルータはルーティングテーブルというデータベースに刻々と更新しながら貯えています.つまり,ルータは,どのようなIPアドレスなら何処のサイトに送ればよいかを常に熟知しているのです.

 こうして自組織から送り出されたパケットは,つぎつぎとルータによる経路制御を受けながらあらゆる目的地までバケツリレー式にコネクションを確立していきます.確立されたコネクションは,セッション終了のプロトコル信号を受信するまで保存されています.

 こうして宛先コンピュータBの置かれたサイトのルータまでパケットが到着しますと,そのルータはパケット内の宛先IPアドレスを取り出してARPリクエストパケットを送出し,MACアドレスを解析して目的のコンピュータBとの間でコネクションを確立してそこへ件のTCPデータを送りつづけます.対象外のコンピュータは自分のMACアドレスが異なるため情報を受け取ることはできず聞き流します.この状況は,少なくとも情報転送が続いている時間は維持されます.

 さて,宛先コンピュータBは,送られてきたパケットを解析し,それが自分が所持しているファイルの転送要求であることをパケット中のポート番号から読み取り,ファイルデータを,上と同様に宛先IPアドレス(ノードA),送信元IPアドレス(ノードB),宛先コンピュータの指定ポート番号,自分のポート番号(この例では20),このパケットの順番,もしデータが途中で消えたときに対処すべき処理手順などをTCP/IPプロトコルパケットに包んで自分のLAN内に投げ込みます.そして,すでに確立されているコネクションルートを介して要求者のコンピュータ(ノードA)のすでに上で指定したポートに向かって送り届けます.

 こうして最初に送信要求を出したノードAは,ノードBからデータを受け取り,アプリケーションによって解読され,プレゼンテーション層によってディスプレイに映し出されたり,音声として表現されたりします.こういう面倒なことをこともなげに世界中のコンピュータが協同してやっています.インターネットが,「自律・分散・協調」を合言葉にできあがったということがよく分かります.


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記号をあやつる人間情報

変化するコード体系

 ここまで,理想的なコミュニケーションの形態においては,人も機械も似たり寄ったりのやり方をとっていることを見てきました.しかし,どうもこれはあまりにも無味乾燥であり,たてまえが強すぎて何か冷たい印象さえありました.

 もちろん,人間はこういう杓子定規に情報のやり取りはしていないようです.その第一は,先にコンパの席上での学生同士の会話でみたように,コードの体系を「流行語」という形で断りなしにちょくちょく変形することが挙げられます.

 たとえば,気になる語法として,「全然」というのがあります.本来は「全然だめだ」,「全然…でない」のように全否定で使うべきものが,「全然良い」などのように全面肯定に使われ,今ではこの方が市民権を得ています.「こだわりの店」とか「かたくなな味」などといって非合理的なやり方や融通のきかない手法を誇る表現がありますが,元来「こだわり」や「かたくな」は否定的表現であったものが,いまではそれとは全く逆の意味で使われるようになっています.

 また,社会的規範の変化によって使用が制限される例もあります.たとえば国際会議で使われる司会者chairmanは男女の性差別を助長する廉で使用が牽制されchairpersonと変更を余儀なくされています.stewardstewardessも同様にflight attendantとかcrewと言い換えるようになっています.これはフェミニズムという社会的規範の変化による例にあたります.

 第3に,価値の変化によるものがあります.「長屋」とか「貸し家」「下宿」は,昭和初期になって工業化による人口の都市集中が起るとその需要が増し,やがて供給も増加して過当競争が発生すると,中身は少しも改良されていないくせに「アパート」と呼び名だけが変わり,これがやっぱり長屋にすぎないと知れると「マンション」やら「レジデンス」やらとなにやら大仰な呼び名に変わりました.低地に建てられた「ハイツ」が,行ってみれば四畳半一間の「下宿」にすぎないなどという例は枚挙にいとまがありません.

 これとは違って,変化の仕組みがその国や地域の文化構造の隠れた次元に内包されていて必然的に変化するというようなものもあります.日本語の一人称の「私」は,「僕」←「俺」←「自分」←「わし」←「予」←「拙者」←「我輩」・・・などと溯っていきますが,溯った先の一人称は随分傲慢な響きを与えます.そこで,時代が下るに従って用語上は卑下の度合いを増していきますが,すぐに傲慢に聞こえるようになって使いにくくなってしまいます.それに引き換え,二人称はというと,「あなた」←「君」←おまえ」←「貴様」←「おぬし」・・・などと溯ればさかのぼるほど呼ばれて不愉快になる下落した価値に行き着きます.だから,どんどん価値の高い二人称を使用しなくてはならなくなりますが,それでも見下げた感じが強まって短命に終わります.ちょうど今「あなた」が使いにくくなっている時代に到達しているようです.英語の「I」や「You」が実に500年間にわたって安定しているのと比べると極めて寿命の短い人称代名詞であることにあらためて驚きます.

 このように,コードの体系はまことに移ろいやすく,注意深く使用しないととんでもないディスコミュニケーションの原因になりかねません.

 ディスコミュニケーションを補完するコンテキスト

 先に,理想的なコミュニケーションとして発信者優先のコミュニケーションについて述べました.これとは全く反対に,受信者優先のコミュニケーションというものがあります.

 その昔,大学入試の英語の試験で見たこともない単語に遭遇して愕然としたというような体験を筆者は持っています.そのとき前後の関係から何となく想像される「和訳」をつけておいたら偶然当たっていてことなきを得たなどという体験です.このように前後関係から読み取れる情報をコンテキストといいます.

 下の図4は,図1と対になる図です.理想的なコミュニケーションである発信者優先のコミュニケーションではコードの体系が完備していて,疑いの余地無い情報伝達ができましたが,コード体系が上述のように不安定で信用ならないとしたら,コンテキストに頼らざるをえません.コンテキストは受信者が独自に持つものですから,受信された情報はもはや受信者の特権として処理されます.

4 受信者優先のコミュニケーション

 考古学は,無文字社会を研究対象としています.文字があり,書き物が残っていれば考古学ではなく歴史学です.だから,考古学は有力なコードである文字を頼りにできないだけコンテキストへの依存が大きくなります.発掘されたもの言わぬ土器の破片やその底にこびり付いた炭の炭素を同定して年代を推定したり,同種のものが異なる遺跡から発見されたことで二地点間の文化交流や経済交流を推量ったりします.

 医療などは,病人という対象がそこにいて言葉や苦痛の訴えなど多種多様なコードを発するがゆえに考古学と比べればはるかにコンテキストの依存度が少ないかもしれませんが,病人に診断ができないという意味では医者の診察に待つしかありません.そして医者は諸々の所見から病名を決定していくという意味でコンテキストを読むという行為になっています.それだけに優先される受信者としての医者の「特権」が際立ち,医療過誤が見えにくくなります.インフォームドコンセントが叫ばれる要因はここに発します.

 その外に,探偵や検事の事件捜査も,それが難事件であればあるほどコンテキストへの依存の程度が大きくなります.探偵シャーロックホームズの助手のワトソンが医者であったこと,だいいち作者コナン=ドイル自身が医者だったことは,こう見てくれば偶然でないことが理解できます.大道易者や祈祷師は,当たるも当たらぬも卦次第,百パーセントコンテキスト依存の例です.

 片言をしゃべりだした幼児のおよそコードとも呼べない未熟な発話を母親は殆ど完全に理解しています.幼児の方も母親の発する完成された言葉を,コードとしては殆ど理解していないにも拘わらずコミュニケーションが完璧になされているのをみて,父親たる男性は一種の羨望を感じます.これは,母親が幼児の発する情報を完全に理解しようとする熱意の成果です.

 ナンセンス詩という意味を成さない「詩」があります.一例を下に示します.

ポポ

ヌムヌムモナラミ

ヌルヌルモナヌム

ギレッチョ

ズルマッチョ

ヌルヌルモナラミ

ヌルヌルモモヌム

ズルマッチョ

ポエ

 これはもう全くコードの体系を有してはいません.したがって「常識」の範囲では全く理解を超えています.こういうとき私たちは,これを単なる悪ふざけとして敢えて解読に及ばないという手を使うことができますが,これが著名な現代詩人鈴木志郎康作の『口辺筋肉感覚による叙情的作品』というれっきとした「芸術作品」だと聞かされれば何とか解釈を試みてみようという意欲がわいてこようというものです.もちろんその解釈は,悪いカラス鳴きから遠く離れた故郷の病気がちな母親への不吉な連想や,朝の湯飲み茶碗の中に浮かんだ茶柱から今日の幸運を期待する程度のものかもしれませんが.立体派の抽象絵画やバルトーク以来の現代音楽などもこれと同じ範疇に属します.

表示義と共示義

 このように人は必ずしもコードの体系が完備していなくても,解読の意欲を持っていさえすればコミュニケーションを実行する能力を持つものです.上述のようにほぼ百パーセントコンテキストに依存しなくてはならないというのは極端であって,もうすこしコードに近いところでコミュニケーションを実行することも可能です.それがコードの持つ共示義です.

 コードあるいは記号(記号(semiotics)というときには人が自身にとって「意味のあるもの」と認識した場合に使います.コードは人が意味があるとしていつのときにか作ったのですから必ず記号ですが,コード以外にも「意味あり」としたものは全て記号になります.上述のカラスの鳴き声や茶柱,落選した政治家や定年後のサラリーマンがながめる雨の中の一片の落ち葉なども立派に記号です)には,それが表す二とおりの「意味」があります.そのうちの一つは国語辞書に書いてある語の意味です.語でなくても道路標識や表示,コンピュータのアイコンなども11に対応する意味があります.これを表示義(denotation)といいます.これに対して辞書には書いてないが,コードにはそれに付随した「意味のような」もう一つの「意味」があります.それを共示義(co-notation)といいます.

 赤い<ばら>は,薔薇の赤いのを指しますが,辞書には「薔薇」として意味が書いてあります.広辞苑によれば,「バラ科バラ属の落葉低木の総称.高さ12b.葉は有柄,托葉があり,羽状複葉.花は高い香りをもち,基本型では萼片・花弁は各5.・・・」とあります.これが/ばら/の表示義です.しかし,赤いばらにはそれを見た人が感ずる<熱情><愛情><激しい愛欲>といったようなもう一つの(象徴的)「意味」もまたあります.これが/ばら/の共示義です.カルメンがドン=ホセを誘惑するときのコケティッシュな目つきは口にくわえた真っ赤なバラがあってこそ効果があります.あれがドクダミやボケの花だったらどうでしょうか.さすがのホセもカルメンの虜になって身を持ち崩すことはなかったでしょう.

 記号が有するこのような共示義は,表示義が言語によって様々なのに対してはずっと人類に共通性があります.バラでいえば英語では似ても似つかない<rose>ですが,<熱情>を表現しているということでは共通しています.バベルの塔ゆえにばらばらになった表示義としてのコードの多種性も,共示義としてまだその共通性を保持していたことに気が付きます.こういう共示義を辞書にした「シンボル辞書」というものがあります.


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マルチメディアの定義の試み ―――おわりにかえて

どうやら紙幅が尽きました.

 歴史の奇跡のようにインターネットが世界中に張り巡らされ,如何なる特権を持たなくても誰でも自由に情報を発信することのできる仕組みが,殆どボランティアの手によって完成しました.初期のインターネット構築の段階では,関係者は全くの無報酬で,厳しい規制の網に邪魔されながらシステムを立ち上げていましたし,いまでも大学の情報センター関係者は無報酬で関与しているところが殆どです.にもかかわらず,今や8,000万人とも1億人ともいわれる人々がここに参入しています.

 しかし,このメディアが殆ど英語という必ずしも世界で一番言語人口を有するのではない言語(英語は中国語に次いで2番目です)によって支配されているのは問題があります.もっとよいコミュニケーションをということであれば,インターネットの情報コンテンツを世界に共通なメディアとして完成させなくてはなりません.

 「百聞は一見にしかず」動画や静止画や三次元グラフィックスなどの画像や,音声や音楽を加えた認知科学の成果をここに盛り込む必要があります.コンテキストの表現,表示義より共示義の多用など百年を費やすべき膨大な研究や開発が残されています.

 そうであれば理学や工学だけではなく心理学,精神分析学,社会学,政治学,教育学,文化人類学,国際関係論,地域学,都市論,言語学,医学や芸術,宗教にいたる学芸百般を含む総合科学として,学際をはるかに超越する膨大な学問成果をここに投入する必要がありそうです.

 マルチメディアの世界は膨大な奥行きを持ち,人類相互の深い理解という,ノアの一族が分散して以来一度も達成したことのない歴史的難題に応えていく可能性を秘めている実に夢多き研究対象のように思われます.

 これが,筆者のマルチメディアにかける「定義」の試みです.最後に,執筆の機会を与えられた山梨科学アカデミー関係者にお礼を申し上げます.

(96/10/14)


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