冬の日脚注(3/5)


杖をひく事僅に十歩       
               杜國
つゝみかねて月とり落す霽かな
<・・つきとりおとすしぐれかな>。前詞から「杖をついて歩き出して10歩といかないうちに」、時雨が降って止んだ。止んだと思ったら月が出た。時雨の奴め、月を包みそこねたな。       

 こほりふみ行水のいなずま    重五
<こおりふみゆくみずの・・>その時雨の過ぎ行く速さは、湖を渡る冬の御神渡り(氷が膨張して裂け目が盛り上がって湖を渡っていく現象。長野県の諏訪湖が有名。ここではそれを「水の稲妻」とたとえたのである。)のスピードと同じですね。  

歯朶の葉を初狩人の矢に負て    野水
<しだのはをはつかるひとのやにおいて>と読む。年末に張っていた氷の上を、新年が来てはじめて狩に出かける人を祝って、シダの葉で編んだしめかざりをその矢につけてやる。   

 北の御門をおしあけのはる    芭蕉
<きたのごもんを・・>。その狩人とはほかでもない城の北門を開けて出て行く武士団なのである。  

馬糞掻あふぎに風の打かすみ    荷兮
<ばふんかくおうぎにかぜのうちかすみ>。武士の一団が出て行った門には馬糞が山と積もって、それを春の日にのんびりと掻き出している。「あふぎ」は扇形をしたスキのこと。これで馬糞を除去したのである。前句の緊張を一挙に解き放つ。   

 茶の湯者おしむ野べの蒲公英   正平
<ちゃのゆしゃおしむのべのタンポポ>。馬糞を掃いている場所を城門ではなく野原にした。そこにはタンポポが咲いている。それを茶人は野点をしながら鑑賞していたが、馬糞を掃く農夫がやって来てタンポポに馬糞を投げつけている。なんとも無風流なこと。  

らうたげに物よむ娘かしづきて   重五
<ろうたげ>は可憐な様。<かしづきて>は小首を傾けている様子。ようやく恋心の分かる年頃になった娘が何の本だか小首を傾けながら一心不乱に読んでいる。その愛らしさ。   

 燈籠ふたつになさけくらぶる   杜國
その娘に若い男が二人盆提灯をプレゼントした。それに描いてある絵を見比べながら娘はどちらの男の恋心が深いのか読み取ろうとしている。

つゆ萩のすまふ力を撰ばれず    芭蕉
<すまう>は力が拮抗していること。萩の葉においた露。落ちそうで落ちない。実に絶妙なバランスで秋の朝の萩の葉の露は付いている。二人の男の情も拮抗していて、娘は悩まなくてはならない。   

 蕎麦さへ青し滋賀楽の坊     野水
今は秋。萩の葉の上の露の美しさだけではない。信楽の寺の縁先から見れば蕎麦の花盛りだ。前句を秋の景観に読みかえた。

朝月夜双六うちの旅ねして     杜國
信楽の坊の翌朝早く、双六のプロが旅に出発する。双六うちはばくち打ち、渡世人のこと。  

 紅花買みちにほとゝぎすきく   荷兮
同じ朝早く、こちらは紅花の仲買人が行く道にはホトトギスが啼いている。

しのぶまのわざとて雛を作り居る  野水
こちらはゆえあって信楽に隠棲している男一人。何もしないのは退屈だから雛を作って子供達を喜ばしている。折りしも紅の顔料を買いに行くのだ。  

 命婦の君より米なんどこす    重五
この男のところに禁中の命婦から時折米などが届けられる。ここでこの男の身分を確定した。どうやらただものではないらしい。

まがきまで津浪の水にくづれ行   荷兮
この男の住処は垣根まで津波が押し寄せてきて流されてしまった。どうやらこの「男」は流刑囚らしい。

 佛喰たる魚解きけり       芭蕉
<ほとけくいたる うおほどきけり>。津波と一緒にやってきた大魚を捕らえてみると、腹の中から仏像が出てきた。

縣ふるはな見次郎と仰がれて    重五
<あがたふる はなみじろうと あおがれて>。「縣」は地域のこと。古くからこの地域では、この家柄を「花見次郎」と尊敬をこめてよんでいるのだが。  

 五形菫の畠六反         とこく
<げんげすみれの はたけろくたん>。その旧家もいまは六反のレンゲの咲く畑になってしまって消えてしまったのだが。。

うれしげに囀る雲雀ちりちりと   芭蕉
レンゲ畑の上にはヒバリがうれしげにさえずっている。(芭蕉が座の流れを変えた。)

 眞昼の馬のねぶたがほ也     野水
そんな春の昼下がりには馬も眠たそう。

おかざきや矢矧の橋のながきかな  杜國
「矢矧は」、<やはぎの>と読む。岡崎市の西に架かる橋。太閤秀吉が信長に仕えることになった橋として有名。東海道で最も長い橋といわれた。そんな長い橋を渡るときには馬だって飽きて眠くなってしまう。

 庄屋のまつをよみて送りぬ    荷兮
矢矧川といえば庄屋。その庄屋の古松を詠んだ歌を送った。

捨し子は柴苅長にのびつらん    野水
<すてしこはしばかりたけにのびつらん>。古松を詠んだ歌というのはほかでもない。昔私がその庄屋の門前に棄てた子ももはや大きくなって、柴刈りに出かけられるくらいの背丈になったことであろう。今更親だと名乗り出るわけにもいかないので、歌に託して贈ったのです。

 晦日をさむく刀賣る年      重五
<みそかをさむくかたなうるとし>。子供を捨てたというのも浪人の身のこととて養うことができなかったからで、いまでもこの年の瀬に刀を売って年を越えようという有様で。

雪の狂呉の國の笠めづらしき    荷兮
<ゆきのきょう ごのくにのかさ めずらしき>。雪の日の風流に、友が「笠は重し呉天の雪」などと吟じながら来てくれた。笠を売ってでもこの風流人をもてなさなくてはなるまいて。

 襟に高雄が片袖をとく      はせを
<えりにたかおが かたそでをとく>。風流人の襟に巻いている布は吉原のおいらん紺屋高尾の片袖をちぎったものだそうな。

あだ人と樽を棺に呑ほさん     重五
「あだ人」は恋しい人のこと。高尾のような人と呑めるなら命をかけても一樽飲み干そうぞ。

 芥子のひとへに名をこぼす禪   杜國
<けしのひとえに なをこぼすぜん>。恋する人と命をかけて一樽呑むなどというのは、ケシの花が簡単に散るように、禪では名を失う行為だと説くことであろう。

三ケ月の東は暗く鐘の聲      芭蕉
ここで主題転換。西の空に三日月がかかっている。東の空はもはや夕ぐれの暗黒。そして入相の鐘が聞える。

 秋湖かすかに琴かへす者     野水
<しゅうこかすかに ことかえすもの>。入相の鐘の聞こえる湖に舟を浮かべ、琴を奏している者がいる。その音が湖面を伝ってかすかに聞こえる。

烹る事をゆるしてはぜを放ちける  杜國
<にることを ゆるして はぜをはなちける>。湖の舟の上の風流人。ハゼ釣りを始めたが、もとより煮て食べようというのではない。釣り上げても再度湖に帰してやるのだ。

 聲よき念佛藪をへだつる     荷兮
<こえよきねぶつ やぶをへだつる>。前句の風流人がハゼを湖に帰してやるのも無理は無い。声の美しい念仏の声が藪の向こうから聞こえてきたのだ。それが殺生を思いとどまった理由なのだ。

かげうすき行燈けしに起侘て    野水
<かげうすき あんどんけしに おきわびて>。朝が来て行燈の光も不要にはなった。しかし、なんだか起き上がりかねてそのままにしている。

 おもひかねつも夜るの帯引    重五
<・・よるのおびひく>。「おもひかねつ」は思いにたえかねている様。行燈を消そうかと思い悩んでいるうちにふと隣に寝ている人の帯に手をかけたというのか???? 隣の人は異性でなくては面白くない?

こがれ飛たましゐ花のかげに入   荷兮
<こがれとぶ たましい はなのかげにいる>。前句のような思いは実は想像上のもので、ついに恋焦がれている私の魂は、憧れの恋人を花と見立ててその花に入るのだ。

 その望の日を我もおなじく    はせを
<そのもちのひを われもおなじく>。「その望の日」とは、西行の辞世「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」で、2月の15日(釈迦入滅の日と伝えられ日)のこと。前句の「花かげに入る」のを「死」ととって、私も西行法師のようにこの日に花蔭に隠れたいものだと応じた。



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