芭蕉DB

許六離別の詞

(元禄6年4月末・芭蕉50歳)


 去年の秋*,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて*,終日閑談をなす.その器*,画を好む.風雅を愛す.こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.画はとってが師とし,風雅は教へてが弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,が見るところにあらず.が風雅は,夏炉冬扇*のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし*.ただ,釈阿*・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」*と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道*にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ.

元禄六孟夏末             風羅坊芭蕉 印 印


年表


 この一文は、元禄5年7月末か8月初め以来江戸在勤であった森川許六が彦根に帰るにあたっての離別の詞として書き送ったものである。許六の才能に対する並々ならぬ敬意を表しながらも、自己の歌論を吐露して、芭蕉の俳諧文芸の神髄を語っている。
 なお 文末の
「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」は、最も人口に膾炙した部分である。