八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき*。
「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき:「息子に問い詰められて答えに窮してしまいました」と人々に話しました。
『問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ』と、諸人に語りて興じき」の主語は、「父」である。聡明な息子を自慢する「父親」の姿が浮かんでくる一編。人間兼好の人となりもまた垣間見えてくる。終段にふさわしい優しい一文。
やっつになりしとし、ちちにといていわく、「ほとけはいかなるものにかそうろうらん」という。ちちがいわく、「ほとけには、ひとのなりたるなり」と。またとう、「 ひとはなんとしてほとけにはなりそうろうやらん」と。ちちまた、「ほとけのおしえによりてなるなり」とこたう。またとう、「おしえそうらいけるほとけをば、なにが おしえそうらいける」と。またこたう、「それもまた、さきのほとけのおしえによりてなりたもうなり」と。またとう、「そのおしえはじめそうらいける、だいいちのほとけは、いかなるほとけにかそうらいける」というとき、ちち、「そらよりやふりけん。つちよりやわきけん」といいてわらう。「というつめられて、えこたえずなりは んべりつ」と、もろびとにかたりてきょうじき。