徒然草(下)

第158段 「盃の底を捨つる事は、いかゞ心得たる」


 「盃の底を捨つる事は、いかゞ心得たる*」と、或人の尋ねさせ給ひしに、「凝当と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん*」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを残して、口の附きたる所を滌ぐなり*」とぞ仰せられし。

盃の底を捨つる事は、いかゞ心得たる:返杯などのように酒の盃を相手に渡すに際して、盃の底に残っている酒を捨てることを、どう思うか?

凝当と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん:「凝当<ぎょとう>」というのですよ。杯の底に残った酒。また、その酒で、杯の口を当てた部分を洗い流すこと。また、杯の飲み残しを捨てるための容器のことですよ。これは、兼好の答え。

さにはあらず。魚道なり。流れを残して、口の附きたる所を滌ぐなり:すると別の人が、「凝当」とは「魚道」のことですよ。杯には酒の存在を残しておいて、それでいて口の付いたところをすすぐことをいうのですが、それが魚の通り道と同じだからですよ、と答えたというのだ。


 一般に流布している言葉でも、その語源の不明または怪しいものは数限りなくある。ここの主題である「凝当」という言葉もこの時代、人々は訳も分からずに使っていたということであろう。兼好法師にしてかくの如しなのだからましてや・・おやである。


 「さかずきのそこをすつることは、いかがこころたる」と、あるひとのたずねさせたまいしに、「ぎょうどうともうしはんべれば、そこにこりたるをすつるにやそうろうらん」ともうしは んべりしかば、「さにはあらず。ぎょどうなり。ながれをのこして、くちのつきたるところをすすぐなり」とぞおおせられし。