「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく*、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し*。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め*、この財を忘れて*、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず*。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし*」と言ふに、人、いよいよ嘲る。
かたへなる者の云はく:傍らにいた人が次のように言う。
鵝毛よりも軽し:<がもうよりもかろし>と読む。「鵝毛」は鵞鳥の羽で、軽いものの象徴。ここでは、生あるものの命のはかなさを表現した。
いたづがはしく外の楽しびを求め:ご苦労なことに、(愚かな者たちは)生の喜びなどではなく、他の楽しみを求めて右往左往しているのふだ。
この財を忘れて:生の喜びという財産のあることを忘れて、の意。
この理あるべからず:「この理」とは、「人、死を憎まば、生を愛すべし」を指す。生を愛する人は、死に臨んで死を恐怖することはない、ということらしい。積極的な生の肯定は、死以外には常に生なのだからということであろう。それなのに、生を楽しまない態度は、常に死の恐怖に脅かされているのだが、それは死の近いことへの恐怖なのだ、とも言う。
生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし:<しょうじのそうに・・、まことのことわりをえたりと・・>と読む。生死の問題から超越しているというのであれば、それは真理に到達しているということに違いない。
兼好の死生観を、人々の議論という形式を使いながら述べた段。中世仏教の死の肯定というよりも、積極的な生の喜びを強調する。
究極的には、「もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」にあるのであろう。
「うしをうるものあり。かうひと、あす、そのあたいをやりて、牛をとらんという。よるのまにうししぬ。かわんとするひとにりあり、うらんとするひとにそんあり」とかたるひとあり。
これをききて、かたえなるもののいわく、「うしのぬし、まことにそんありといえども、また、おおきなるりあり。そのゆえは、 しょうあるもの、しのちかきことをしらざること、うし、すでにしかなり。ひと、またおなじ。はからざるにうしはしし、はからざるにぬしはぞんぜり。いちにちのいのち、ばんきんよりもおもし。うしのあたい、がもうよりもかろし。ばんきんをえていっせんをうしなわんひと、そんありというべからず」というに、みなひとあざけりて、「そのことわりは、うしのぬしにかぎるべからず」という。
またいわく、「されば、ひと、しをにくまば、しょうをあ いすべし。ぞんめいのよろこび、ひびにたのしまざらんや。おろかなるひと、このたのしびをわすれて、いたずがわしくほかのたのしびをもとめ、このたからをわすれて、あやうくたの たからをむさぼるには、こころざしみつことなし。いけるあいだしょうをたのしまずして、しにのぞみてしをおそれば、このことわりあるべからず。ひとみなしょうをたのしまざるは、しをおそれざるゆえなり。しをおそれざるにはあらず、しのちかきことをわするゝなり。もしまた、しょうじのそうにあづからずといわば、まことのことわりをえたりというべし」というに、ひと、いよいよあざける。