或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ*。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり*。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る*。この戒め、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す*。況んや、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き*。
諸矢をたばさみて的に向ふ:<もろやをたばさみてまとにむかう>と読む。「諸矢」は甲矢<はや>と乙矢<おとや>の二本一組を言う。一手矢<ひとてや>とも。
後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり:日本の矢を手にすると、あとの矢=乙矢が有るからといって、一本目の矢=甲矢が等閑<なおざり>になってしまう。
懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る:弟子本人の意識には全くない懈怠<けだい>の心が、先生には見えてしまう 。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す:仏道を学ぶ人は、夕方には明日こそしっかりと、朝は朝で夕方に懸命に学ぼうと、重々念入りに学ぼうと思っているのである。がしかし、・・・。
何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き:なんと、発起した一念をその瞬間に実行に移すことの難しいことか!!仏道修行でも、朝な夕なにかさねて学ぼうとするのだが、その中にも一瞬の懈怠心のあることを知らねばならないと説くのである。
「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」。筆者の人生を省みて、穴があったら入りたい気持ちに駆られることだ。
あるひと、ゆみいることをならうに、もろやをたばさみてまとにむかう。しのいわく、「しょしんのひと、ふたつのやをもつことなかれ。のちのやをたのみて、はじめのやになおざりのこころあり。まいど、たゞ、とくしつなく、このひとやにさだむべしとおもえ」という。わずかにふたつのや、しのまえにてひとつをおろかにせんとおもわんや。けだいのこころ、みずからしらずといえども、しこれをしる。このいましめ、ばんじにわたるべし。
みちをがくするひと、ゆうべにはあしたあらんことをおもい、あしたにはゆうべあらんことをおもいて、かさねてねんごろにしゅせんことをごす。いわんや、いちせつなのうちにおいて、けだいのこころあることをしらんや。なんぞ、たゞいまのいちねんにおいて、ただちにすることのはなはだかたき。