徒然草(上)

第50段 応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるを


 応長の比*、伊勢国より*、女の鬼に成りたるを率て上りたりといふ事ありて*、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし*」、「今日は院へ参るべし*」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云う人もなし* 。上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず*

 その比、東山より安居院辺へ罷り侍りしに*、四条よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町に鬼あり*」とのゝしり合へり。今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり*、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて*、人を遣りて見するに、おほかた、逢へる者なし*。暮るゝまでかく立ち騒ぎて、果は闘諍起りて*、あさましきことどもありけり。

 その比、おしなべて、二三日、人のわづらふ事侍りしをぞ*、かの、鬼の虚言は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし*

応長の比:1311年4月28日から1312年3月までの短期間。花園天皇在位のこと。後述のように、「疫病」が流行ったので改元した。

伊勢国より:今の三重県。

女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて:「ゐて上りたり」とは、<率て上りたり>で鬼になってしまった(不幸な)女を連れて上京したということがあった、のだが、誰が連れてきたのかは不明。

昨日は西園寺に参りたりし:西園寺は、太政大臣西園寺實兼。この頃、権勢並びなき人物で、恨みも十分に集めていたことであろう。それゆえ、北山にあった彼の大邸宅へ、鬼は行ってほしいという願望が人々の間に渦巻いていたことであったろう。

今日は院へ参るべし:この時の院政の主は、伏見上皇であった 。これも、民衆のルサンチマンは西園寺に対すると同じであったのであろう。

まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云う人もなし:まさに私のこの目で見ましたよ、という人もない代わりに、これは嘘話ですという人もいなかった。

上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず:身分の高い低いを問わず、この鬼の話で持ちきりだ。

一条室町に鬼あり:現在の京都御所北西隅。 室町幕府成立は1336年なので、まだここには無い。

安居院<あぐいん>。京都市上京にあった比叡山竹林院の宿坊。比叡山の僧侶(この頃は今の暴力団よりひどい暴力集団であった)の京都市内の宿泊施設。ここも人々から、恨みを買うに相応しい場所だったであろう。

院の御桟敷のあたり:上皇の賀茂祭見物の桟敷で、一条室町にあった。

跡なき事にはあらざンめりとて:まんざら根拠の無いことでもなかろうと思って、筆者は、人を調べさせに現場にやったのである。

おほかた、逢へる者なし:一向に鬼に逢った者などいないのである。

果は闘諍起りて:<はてはとうじょうおこりて>と読む。あげくの果てに野次馬の間で喧嘩が巻き起こったのである。

その比、おしなべて、二三日、人のわづらふ事侍りしをぞ:歴史年表をひいてみると、1311年春には京都でインフルエンザらしい伝染病が猛威をふるったらしい。 これを「田楽病」と呼んだという。このため、年号を延慶<えんぎょう>から応長<おうちょう>へと変えたのである。

このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし:この疫病の「前兆」として「鬼」が「伊勢」からやってきたのである 、と言う人もいたものだ。


 「鬼」は、それを見る人の心の中に住んでいるのである。 悪政に対する民衆のルサンチマンがこういう悪質な「鬼」を生れさせるのである。


 おうちょうのころ、いせのくにより、おんなのおにになりたるをいてのぼりたりということありて、そのころはつかばかり、ひごとに、きょう・しらかわのひと、おにみにとていでまどう。「きのうあはさいおんじにまいりたりし」、「きょうはいんへまいるべし」、「たゞいまはそこそこに」などいいあえり。まさしくみたりというひともなく、そらごとというひともなし。じょうげ、ただおにのことのみいいやまず。

 そのころ、ひがしやまよりあぐいんへんへまかりはんべりしに、しじょうよりかみさまのひと、みな、きたをさしてはしる。「いちじょうむろまちにおにあり」とのゝしりあえり。いまでがわの へんよりみやれば、いんのおんさじきのあたり、さらにとおりうびょうもあらず、たちこみたり。はやく、あとなきことにはあらざめりとて、ひとをやりてみするに、おおかた、あえるものなし。くるゝまでかくたちさわぎて、はてはとうじょうおこりて、あさましきことどもありけり。

 そのころ、おしなべて、ふつかみか、ひとのわづらうことはんべりしをぞ、かの、おにのそらごとは、このしるしをしめすなりけりというひともはんべりし。