徒然草(上)

第48段 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを


 光親卿*、院の最勝講奉行してさぶらひけるを*、御前へ召されて、供御を出だされて食はせられけり*。さて、食ひ散らしたる衝重を御簾の中へさし入れて*、罷り出でにけり。女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ*、「有職の振舞、やんごとなき事なり」と*、返々感ぜさせ給ひけるとぞ。

光親卿藤原光親<ふじはらみつちか>。権中納言。後鳥羽上皇の寵臣だったが、承久の変に連座して、1221年、鎌倉へ護送中に 山中湖・御殿場の境の籠坂峠で殺される。

院の最勝講奉行してさぶらひけるを:「最勝講<さいしょうこう>」は、後鳥羽院主催の最勝王教を読誦する仏事で、光親卿はその講の執行責任者の役目だった。

供御を出だされて食はせられけり:<ぐごをだされて・・>と読む。「供御」は天皇 一家の食事のこと。光親もその席に列席したのである。

食ひ散らしたる衝重を御簾の中へさし入れて:「衝重<ついがさね>」は、椀台。食器を載せる台。これを、食べ終わった後そっと御簾の中に隠してしまった。まことに作法には無い行為。

「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ:女房たちは「まあ汚いわねぇ。誰に掃除しろっていうのかしら」などと話し合っていた。

「有職の振舞、やんごとなき事なり」と:<ゆうそくのふるまい、・・>と読む。有職に詳しい者の仕業に違いない。実にすばらしい」と、後鳥羽院はかえすがえすも感心しながら言った、という。


 何事も度が過ぎると、それにはなにか本質的な意味があるかと思わせる力が出てくるという例。


 みつちかのきょう、いんのさいしょうこうぶぎょうしてさぶらいけるを、ごぜんへめされて、ぐごをいだされてくわせられけり。さて、くいちらしたるついがさねをみすのなかへさしいれて、まかりいでにけり。にょうぼう、「あなきたな。たれにとれとてか」などもうしあわれければ、「ゆうそくのふるまい、やんごとなきことなり」と、かえすがえすかんぜさせたまいけるとぞ。