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財団<産業情報山梨>誌1999年1月号巻頭言原稿『もっと分かりあえる明日へ』
新春は,友人の弁護士Hさんから聞いた話で始めましょう.甲府駅の2番線ホームのベンチにそのお爺さんとお婆さんは座っていました.横浜に住む末娘に孫が生まれたので,その誕生祝に餅をついて持っていくのだそうです.お爺さんが尋ねました.
「おい,おばあさん,あれは何ずらかねぇ?」
「あれって何でぇ?」とお婆さんが聞き返します.お爺さんは,面倒くさそうにゆっくり何かを指差しました.その指先を見ていた風もないお婆さんが言いました.
「おお,あれけぇ.お爺さん,あれは,あれじゃんけぇ」
すると,お爺さんは,さも十分納得したように,
「おお,ほうけぇ.あれは,あれだっとうけぇ」
このお二人の会話,ほとんど言語コードを省略しながら,それでいてコミュニケーションは完璧になされていたそうです.
人類は,バベルの塔を作ったときに様々な意見が出てきて収拾がつかず,ついに多くの民族に分かれ,それぞれが異なる言語コードを使うようになって,塔の建設を放棄してしまいました.その後コミュニケーションができなくなり,ついに殺し合いを始めるまでになってしまいました.現在,世界には3,500から5,000に分類される言語があるそうですから,言語をメディアとする限り国際理解と言っても道遠しの感なしとしません.言語コードによるコミュニケーションは,英語一つとってもあの?大変さなのですから,世界中となるとこれはもう絶望的です.
しかし,ご心配御無用.上記のお爺さんとお婆さんの手法に従えば,それほど難しいものでもなさそうです.
お爺さんとお婆さんのコミュニケーションは,コードのテキストを殆ど放てきして,雰囲気という,言語より1ランク高いコンテキストの「記号(semiotics)」を「交感」することでなされているのです.
マルチメディアとは何か,と喧しい議論がありますが,私はこの言語というコードを越えた「記号」の交換,これをマルチメディアと言うのだと考えています.そこには,共感する「美の世界」が大きく広がっているのだとも考えているのですが・・・.