(『中小企業山梨』1989-2,23巻)

 人材難時代の労働力補完 

山梨大学教授 伊藤 洋


はじめに
人材採用のための企業環境
労働力の補完
おわりに

はじめに

 私事から始めるのはいかにも気が引けるが、筆者は不幸にして?今年山梨大学工学部で電気・電子系学部及び大学院学生の進路指導を担当している。敢えて、不幸にしてと言うのは他でもない。全国各企業の史上空前とも言われる採用意欲に大いに振り回されて、本業である自分の研究や教育の為の時間が全く取れないのである。それどころか、肝心の学生の進路指導を実施する時間的余裕すら無い程に求人者の応接に忙殺されているのが実情である。これは、敢えて言うまでもなく、内需景気という好況と産業構造の転換という時代の節目が重なって、技術者、わけてもエレクトロニクス技術者不足の生じた産業界が学卒技術者の採用に、ある者はこれを絶後のチャンスと見、またある者はこれを生き残りの生命線と捕らえて、社運を賭けて取り組んでいるからに他ならない。こういう傾向は、ここ十余年、すなわち石油危機の去った一九八〇年前後を境にして一貫して生じていたものではあったが、今年の事態は常規を逸したそれであるところが何といっても例年にない大きな違いである。

 そういう中で、過去十年間に無かったこととして、鉄鋼や建設機械、一般重機、紙パルプや繊維などまでが積極的に人材採用を行うようになったのはともかくとして、銀行・証券など従来には技術系学部と全く縁の無かった業種の技術者募集が際立って増加し、かつこれらが極めて熱心であることが上げられる。そして、これら金融関係業種は、製造業とは比べものにならない高額の初任給を提示し、それが持てる国際性と時代を映す現代性とを強調するがゆえに若者達には熱い注目を受け始めたようだ。こうして着実に、学卒技術者の第二次産業ばなれが今静かに開始されたように思われる。

 確たるデータを持ち合わせはしないが、動産・不動産ありとあるモノを含めると、現在我が国にある金融商品は実に四千兆円とも五千兆円とも言われている。仮にこれを五千兆円として試算したとき、もし年金利五%をもってこの金融商品を動かすなら、ここから二百五十億円の利潤が発生する。これは国民総生産(GNP)にも匹敵する数値である。経済における利潤の追求が、ストックからフローへと場を移していると言われるのは、これが所以である。こうして、額に汗するばかりが利益を生みだす手段ではなくなった今日、極く直接的金儲けのマネーゲームの現場にも学卒技術者が必要になってきたようだ。

 しかし、考えるまでもなくこの四千兆円とも五千兆円とも言われる金融商品の因って来たる原因は我が国製造業の技術力とそれゆえに生じた国際競争力のゆえである。その結果生じた円高によるジャパンマネーが、土地を値上げし、金融商品を高騰させ、それがこの金額を作りだしたもののようである。筆者のような技術者から見ればどうしてこの程度の企業にこんな株価が付くかと思われる程に法外な証券価格が付けられている。これこそ浮利の世界だと言わざるを得ないのだが、こういう部門でも争って学卒技術者を採用しようというのだから、人は何人いても足りる筈がない。

 かくして、学卒技術者需要は則(のり)をこえて増すばかりと相なった。学卒技術者の採用は、まさに「娘一人に婿百人」。左様、一大学の一学科から見る限り、見掛けの数値では百倍の求人倍率なのである。

 こういう人材難の環境の中で、優れた技術者を採用したいと考えるのなら、企業はそれなりの体制をもって取り組まなければならない。本稿ではまず初めに、その体制造りについて触れてから、それでも人材難の解消できない企業で、しからばどうすればその穴埋めが出来るのか、いまなすべき労働力の補完について述べていこうと思う。筆者の乏しい経験は、学卒の技術者採用であり、製造業における技術開発や生産技術である。それゆえ以下の論考は、高卒や一般事務を念頭に入れて考えてはいない。したがって、個々の部面では当たらないところが数多くあるかも知れないが、それでも読者のヒントには十分なり得ると考えている。
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人材採用のための企業環境

 いまの二十代前半の若者達は、生まれながらにしてカラーテレビを見、男子ならほぼ間違いなく長男であり、女子ならこれも殆ど間違うことなく長女である。彼らが学校に上がる頃ともなると六畳間の個室が与えられ、飢えの時代が直ぐそこに有ったなどということは想像すら出来ない程の「豊かさ」の中で育ってきた。平均〇.七人の兄弟姉妹しかないから、両親の愛を一身に受け、身の回りの世話は全て親に任せて少年・少女時代を経てきた。それゆえ彼らは自己中心的世界観にどっぷりつかり、「横のものを縦にする」こともしないで生きてきた。結果、気が効かず、専ら自分の趣味にマニアックに浸り、自分の生きている狭い空間を全宇宙と思って生きている。大人達は、そういう彼等を見て大いに戸惑いながら「新人類」というあだ名を命名した。

 こういったあまり評価の芳しくない「新人類」にも、一つの特長がある。それは好きなことならどんな事をしてでもやる、ということである。こういうことができるのは、飢えという根源的な恐怖を実感できない彼らには、好きなことを好きなだけやっていても食うに困る状況が来るとは考えられないからに他ならない。こう言うと、それは特長ではなく短所だと世の大人達は考えるが、そうばかりは言えない。少なくとも、天変地異や核戦争のような想像を絶する破壊が起こるのでない限り、どう見ても飢餓という狼がやってくることなど考えられないのが現代である。世の大人達にとっても、本当はそういう危機は来ないだろうという思いはあるのだが、あの飢餓の時代の記憶が鮮明に残っていて、こういう時代観は不道徳と写る。そこで、大人達は確たる自信も無いままに、飢餓という「狼が来るぞ」と言って説教をし、心ならずも狼少年の役割を演じてしまうのである。

 これは余談だが、敢えて体制の危機を訴えて自党に投票を勧誘する政権党の選挙のようなものである。気持ちは分かるが、その党派が体制を作った時代とはすっかり時代相が変わった現代、こういう勧誘は選挙民には「狼少年」のいたづらとしか聞こえないので、この訴えは逆効果を生む。

 こういう「新人類」の持つ「特長」は今や「独創性」という部面で彼らを活かすしか手はない。独創性は現在、企業が人材に要求する最も普遍的な要素である。しかし、実を言えば我が国が高度成長を続けていたつい最近まで、これは余り芳しい要素ではなかったのである。あの時代にはそれより「協調性」の方がずっと高い要求度を持っていた。それなのに円高時代に入り、NIESはもとより他企業との差別化を図らなくてはやっていけなくなった現代に至って漸く、この「独創性」という要素が我が国でも積極的評価を得るようになってきた。そして、そういう時代に合わせるように若者の「新人類」化現象が現れてきた。これは、時代の変化と人間の変化の、どちらが鶏か卵か分からないが、期せずして起こった総体的変化なのである。そして、ドル高を謳歌していた五〇年代のアメリカで独創的技術がつぎつぎと生まれたのから三〇年遅れて我が国に伝播した時代風潮であろうと筆者は考えている。

 さて、こういう若者達を企業が採用し、その持てる独創性を発揮させようと思うのなら企業のなかで必要とする技術内容、そのために確保してある開発環境、そしてそれに傾ける経営者の情熱に至るまでくまなく彼らに知らせなければならない。もし社内に、こういうまとまったコンセプトすら出来ていないのなら、人材採用で良い成果が表れないことを嘆く資格はないと心得なければならないだろう。しかも、こういうことは、先端技術であるとか、中級技術であるとか、あるいは企業規模が大きいとか小さいとかいうこととは無縁であり、地場産業からハイテク産業までなんら差別はないのである。よく、当社にはブランドが無いから良い人が採れないといって嘆く人事担当者がいるが、大抵の場合無いのはブランドではなくコンセプトなのである。飢餓が無いと確信している人間にとっては、仕事は食う為にあるのではなく、楽しむ為にあるのである。楽しむための仕事とその実績、それに賭ける経営者の夢を「新人類」達に語りかけること、これが独創的人材確保の要諦である。

 こうして若者達の中の極く限られた者達の琴線をゆるがすことに成功すれば、企業の技術の独創化への道は好むと好まざるとに関わらず確保される。琴線をゆるがすことなく入社した技術者は、あまり有能でなくて企業にとって持て余す者か、やがては転職していく者かどちらかであって、いずれ企業にとっては有り難くない人材に違いないのである。
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労働力の補完

 こういう努力をしてもおいそれと人材が得られない企業にとって、それではこの厳しい人材難時代をどう切り抜ければよいのであろうか。ある企業はこういう人材難の環境を嫌って海外に工場を移転したり、またある企業は不法就労者を秘かに抱えていたりする。しかし、そこにも思わぬ危険が付きまとう。ここでは、意外と気づかれていない点があるので初めに簡単に触れておこう。

[海外進出による労働力確保]

 人材難問題への対処の仕方として手っ取り早く、人材の豊富にある地へ移転することが考えられるている。現在少なからず行われている代表的な手段は海外進出であろう。一国経済主義の時代からグローバリズムの支配する時代に入った我が国の企業としては、企業活動をし易い場所で展開することは決して悪いことではない。否、むしろ国際化時代の企業としては当然の選択なのである。しかしそれでもなお、海外展開は軽々しく判断すべきことではない。

 そもそも、海外進出には幾つかの条件が必要である。その中でとりわけ必要な条件として、自社の企業活動を支える技術や商習慣、労働慣行といった文化面での整合性が、その地においてなければならないことが挙げられる。それなのに単純に低賃金の労働力が容易に得られるという魅力に幻惑されて海外進出を実行すると極めて危険な目に遭うと覚悟しなければならない。労働市場の豊かな海外の国や地域では、原則として有るのは労働力であってそれ以外の、近代資本主義的企業活動にとって必要な要素の殆どが無いのだ、というところから考えたほうがよいのかも知れない。

 筆者が、ある中進国の日系企業を訪れて、パーソナルコンピュータのパーツの製造に黙々と働くワーカ達に、彼らが作っている製品が何であるか尋ねたとき殆どの人達がそれを知らなかった、ということがあった。こういう不適応の中で社員提案制度などが役立つ訳がない。また、ある国では百貨店で錆の入った金物を陳列して販売している。その国へ進出したメッキ関係の中小企業の経営者は現地採用の技術者の技術進歩の遅いことを嘆いていた。長期にわたる雨季を持ち、高温多湿の自然環境の中で生活する人々の錆を欠陥と考えない文化の中では、そのことの善悪を問わず鍍金技術は進歩しない。あるいはまた、二直や三直制度を実施しようとしている企業では、労働者の拒否にあってこれが出来ないといって嘆いていた。労働を、報酬のためとのみ考えてそれが「神聖」とは思わない文化ではこれを実施することは困難なのである。寺院や氏族への並々ならぬ帰属意識があるからといって、日本人労働者同様、労働の神聖性や企業への帰属意識を現地人労働者も暗黙のうちに持っているべきだと考えるのは独りよがりなのである。海外進出が有効なのは予め進出先の国や地域に自社の必須とする技術要素や素材・原料や消費市場など基盤となる文化が備わっている時だけなのである。

 こういう文化的側面の完備性は、海外進出の最も難しい要素なのだが、その上、進出の動機を低賃金と採用の容易さにだけ求めているときにはもっと深刻な問題が発生する。それは、こういう労働力確保の容易さの結果として、企業は生産技術革新、新製品への開発意欲それに労働環境の改善への意欲を減殺されるために不断に衰退し始める点である。

 さて、こうして人材難の解決方法として海外進出も容易ならざる問題をはらんでいるとすれば、私達はまともな方法でこれを解決しなければならないことになる。その為には、企業内に省力生産システムを導入するしか方法はないことになるであろう。

[省力システムの必要性]

 ところで、海外進出にはもっと別の問題点もある。それは、生産が人海戦術による為に製品の均質性が得られないということである。現在の企業における省力化の必要性は、労働力を単純に補完する為だけのものではない。ほんの一例に過ぎないが、エレクトロニクス機器などの部品は今やその品質にppmオーダの均一性が要求されている。また機械部品などの加工部門においても形状・寸法にミクロンオーダの精度が要求されている。こういう高い品質管理要求は、円高の中で価格競争が激しく行われたことなどのために、労働力が自動機械やロボットなどを使った自動挿入機器や自動組み立て機械などを駆使する無人化・省力化システムに置き換えられてきた結果、部品の形状・寸法・品質・性能に均一性がないと生産システムが有効に働かないようになってしまった為である。また、コンピュータや通信機器、OA機器などを初めとする電子回路は高速化と小型化のために実装密度の著しい向上が図られてきた。対象の寸法が小さ過ぎて人間の手足を使う生産方法が原理的に不可能になってきた。あるいはまた、クリーンルームの清浄度が高く要求されるため、人間が工場に入ると歩留りが悪化したりするようになってきた。こうなると最早労働力が、とりわけ単純労働力が豊富に有るということが重要ではなくなってしまうのである。

 このように、労働力市場の払底した先進工業国では必ず省力化システムや無人化システムが完備し、更にこの完備したシステムに合わせた社会的システムで企業間関係・製品流通のネットワークが出来上がってくる。したがって、好むと好まざるとに拘わらず我々はそれと整合する生産システムを確保しなければならないのである。もし、その整合性を欠くならば、例え製品が機能的には満足していても、それは商品にはならないのである。これが技術社会の文化と呼ばれるものの正体である。それゆえに、いま我が国の中小企業にとって省力化とは、労働力の省力という本来の意味を越えて、工業先進国・日本の技術文化に整合する為の整合技術という意味を持っていることに気づかなければならないのである。

[何処を省力するのか]

 それでは、我々は自分の企業のなかで何を、どのように省力化すればよいのであろうか。ここで、その為の基本的な方向性を提案しておこう。

 アメリカの経済学者J・ボーグによれば、もし経済が物の生産による付加価値と情報の生産による付加価値とからだけなると仮定するならば、一定の経済システムの中から最大の付加価値を生みだすのは、両付加価値を五〇%ずつとした時であるという。ボーグはこれをアメリカにおいて二〇世紀初頭から今日までのトレンドから、アメリカという国家経済全体を最も効率化するための指針を求めて得た結論を述べたものではあるが、この説は一企業に適用してもよく当てはまるように思われる。すなわち、企業において、現状の資本、生産設備、労働力、すなわち企業の付加価値を生みだす全システムに対して、これが製造による付加価値と情報による付加価値とを半々とするシステムとなっているのなら、既に最大の利益を生みだしているのであって、それ以上高い付加価値を生みだすことは出来ない、というのである。換言すれば、そうなっていないのであれば、これらを半々に近づけることによって最大現状の倍までの付加価値を付与することが出来ることを示しているとも言えるのである。そして、我が国の殆ど全ての製造業に属する中小企業は、文字どおり製造そのものによる付加価値しか得ていないのであって、これが巷間言われてきた工業の二重構造と呼ばれるものの中身であった。それだけに、労働力市場の払底した現在、情報による付加価値の付与は中小企業にとって必須の経営資源であり、産業の情報化が叫ばれる所以である。

 一例として、極端な例に属するかも知れないが、筆者がよく知っている下請け製造業A社の事例を報告しておこう。A社はある自動車会社のヘッドライトの金型を、その自動車会社からみれば第三次下請けとして製造している。当初は親会社から金型図面を部品展開図の形で支給されていたものを、ただひたすら図面に忠実に製造しているだけであった。幸い、社長初め社員も腕がよく、発注先からは好評で迎えられていた。こういう状態のときを第一期ということにする。この時期は金型の完全な組み立て・調整は親企業がしていたのであってA社は部分の製造を分担していたに過ぎない。しかし、円高時代に入るや受注はあるものの価格は極端に抑えられ僅かにあった利益は消えていった。そこで、親企業には金型完成図面の形で発注してもらうように改め、自社で展開図を起こすようにした。こうして若干の単価の上昇があったので赤黒トントン程度のかすかな利益が得られるようになった。この時期を第二期と呼ぶことにしよう。第一期と第二期との違いは展開図を自社で起こすという情報付加価値の増加が図られた点である。

 しかし、円高による自動車産業の競争力の低下は、それを回復するための努力として矢継ぎ早のモデルチェンジとなって現れてきた。その為、設計変更の始末に追われる結果となってA社の利益を圧迫するようになってきた。そこでA社はCADを導入することを決心し、度かさなる設計変更と納期の短縮に対応することとした。勿論導入は順調ではなかったが、若い社員を一人これに専従させ、彼の並々ならぬ努力によって成功したものである。この時期を第三期ということにする。この時期の設計変更は比較的マイナーなものであったからCADは実に威力を発揮する。これは設計変更という情報をCADという情報システム化によって応えたことに相当する。こうして、親企業は対応の早いA社への発注を増やし、やがて設計図面も磁気テープ渡しに変わってきたから、同業他社では対応できず、A社は現在こういう下請け関係の中では独占的地位についている。この時期を第四期と呼ぼう。今後、A社は下請けの地位の向上、つまり差し当たって第三次下請けから第二次下請けの位置にまで上がることによって利益体質を強固なものとすることが出来るであろう。そのうえで、製品企画まで出来るようになれば、企業としての社会的地位は一気に確固たるものになるかも知れない。こういう過程はそれぞれ第五期、第六期であり、企業の進化の一つの方向性である。

 さて、A社について調べてみると、第一期から第四期までの間、企業としての全付加価値Vに対して設計部門の上げる情報付加価値Iとの関係が丁度VがIの二乗に比例するようになっていた。勿論、ここでの比例係数は極めて小さいが、このような二乗関係にある限り、上述のように付加価値を最大化するためには製造部門の付加価値をMとするとき、MとIが等しければ両者の和Vは現状のヒト、モノ、カネのままでもVを最大にすることが出来る、というのがJ・ボーグの学説である。言うまでもなくMとIを等しくするには大変な知恵と才覚が必要であることは論をまたない。この例に象徴されるように、我々が企業のなかで何を省力化するかというとき、その方向性は現状の企業の体質をよく知った上で、ソフトウェア価値、つまり情報付加価値とハードウェア価値、つまり製造付加価値のバランスを取るように志向することが肝要なのである。こういうことに専念しないと、仮に売り上げが伸びて企業規模が拡大したように見えようとも、それは企業としては成長したのではなくただ肥満しただけのことになってしまう。いま、どこの中小企業をみても、それが製造業なら企業の付加価値はハードウェア生産による度合いが殆どで、ソフトウェア生産による付加価値は極めて少ないのが実態である。こういう体質の上に単純であれ、熟練であれ工員を集めてハードウェア生産だけを単純に増やすのであれば、尚一層のハードウェア付加価値が付加されるだけであり、これは屋上屋を重ねることにしか当たらないのである。現今の労働力逼迫はこういう企業体質の改善を迫り、企業の情報化を進めるべき好機であると理解しなければならい。

 これはまったくの余談であるが、農産物自由化に揺れる日本の農業がいま岐路に立たされている。しかし、あれは製造付加価値にだけ依存した日本の農家の農業が問われているのであって、流通や商品化までを連結して農業を論じた時、日本の農業もまた十分な付加価値産業なのである。

[どのように進めるのか]

 A社の事例に戻ろう。ここまでやって来るについては、A社にはたまたまCADの勉強を苦しみながらも忍耐強く続けた青年が一人いたことが大きかった。しかしいま迫り来る情報化に対応するには、彼一人では十分ではない。とりわけ、CAD/CAMからCIMやCAEへという概念を実現したいと考えているA社の経営者にとっては、御多分にもれず人材難は深刻である。しかも、A社の程度の企業では学卒技術者採用はまず諦めなければならない。A社の社長はいま盛んに学卒採用の社内条件づくりを進めてはいるが、それが功を奏するのはしばらく先のことになりそうである。

 そこで、A社では知恵を他所に求めることにしてシステムハウスと連携を取り始めた。現在、産業の情報化の高まりに呼応して、システムハウスが随所に設立されている。山梨県内にも十指を越えるシステムハウスが立地している。多くは一匹狼のベンチャ企業である。彼らはシステム造りはお手のものだが、製造業の個々の実態はよく知らない。そこで、A社の経営者は自社の夢をシステムハウスにあらいざらい告げることにして、現在自社のCAD/CAM化に取り組ませている。A社はいま、システムハウスとの交流を経営資源に取り込むことによって成長の第五期に入ろうとしているのである。

 いま計画中のシステムは膨大なものである。また、実現するための技術的ディーテールも難解を極めている。素人の経営者にはチンプンカンプンの代物である。それは当然のことであって少しも恥じることではない。ただ、我々として知っておくべきことは、これら膨大なシステムのディーテールではなく、これらをブラックボックスとして眺めながらもその原理についてだけは正確な知識を有していることである。これは、そういう知識がシステムの高度化を進める上で絶対に必要な要素だからに他ならない。こういう態度でシステムハウスと連携することが人材難時代の中小企業情報化への差し当たって有効な進め方であるように思われる。

 二倍に及ぶ有効求人倍率時代は単に労働者が得られないというにとどまらない。人々が額に汗し、油にまみれる労働現場から、現実的にも、心理的にも離れていくムードをも作っていく。だから、今後仮に不況が来て、求人倍率が下がったからといっても、再び製造現場に労働者が群がることは残念ながら考えられない。それだけに、次代を見すえて企業の情報化、インテリジェントシステム化を、いま進めなければならないのである。

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おわりに

 ジャパンダラーが優勢でいる限り、原油価格が安定している限り、かつまた外国為替が安定している限りという限定付きではあるが、現状の景気の好況は当分の間安定して続くのかも知れない。そうであれば、第三次産業における雇用も安定して逼迫し、為に人材難という中小製造企業の「困難」も安定して継続すると覚悟しなければなるまい。それなのに先進国における中小企業は技術イノベーションを確実に続けなければ安定して存立できない。そのイノベーションは差し当たり企業の情報化を促進するところにある。その上、こういう環境の中での企業は、企業文化として誇れるような「何か」を持ち得なければならないのである。これらの方向性を支えるのが人材であってみれば、思考は一巡してやっぱり人材問題に憧着するのである。そもそも中小企業は創業者という人材を得たがゆえに存在している。創業の精神をいま一度振り返って眺めながら、自企業内部に有る現有の人材の教育も自助の努力として始めなければならない。そのために、大学や公的試験研究機関への留学や研修・派遣制度など多様な教育制度を社内に確立する必要があるように思われる。

 本稿は本誌編集部から、人材難時代のいま、すぐ役立つ労働力補完の方法を具体的に書くように依頼されて書いたものである。しかし、どだいこの注文には応じ切れない。中小企業の持っている問題点が多様過ぎるからに他ならない。所詮個々の問題は個々に当たるしか対策は無いのである。それでも、筆者は一定の指針はここに書いておいたつもりでいる。個々の中小企業で業容に適合させるように個々に解読して頂くことを希望する。

 最後に、執筆の機会を与えられた本誌編集委員会に感謝する。

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itoyo@apricot.ese.yamanashi.ac.jp