山梨日日新聞「「環境に時代」の中で」第11回・12回
科学技術は、必ずしも予定調和的に発達して今日に至ったものではない。数々の勘違いや誤解、後世からみればまるで逆方向を向かうような運動を伴いながら、科学技術は「進歩」してきたといっても過言ではない。そういう例として、今回は、電子の発見に至る歴史的経緯を振り返ってみよう。
二つの電荷(電気的性質を持つ粒子のこと)が離れて置かれているとき、両電荷には斥力または引力が働く。斥力は両電荷の符合が同じとき、引力はそれが互いに異なるときである。こういう力をクーロン力と呼ぶことは、高校の物理の時間に教わる。同じように、電流の流れている電線の近くに磁石を持ってくると磁石と電線の間にも引力や斥力が働く。これを電磁力と言うが、これについては小学校で電磁石の実験をしたことがあるので誰でも体験して知っている。
ところで、クーロン力でも、電磁力でも、これらの力は真空を媒介して伝わる力である。しかし、私たちの日常の体験では、力は運動会の綱引きや工場の動力用ベルトのように直接物質を介在して伝達されるのが普通である。だから、電磁気的力が真空のように実態のないものを介在して伝達されるということはまことに不思議なことである。何かが伝えられるというときには、それらの間を取り持つ「実在の」媒体(メディア)が必ず存在すると考えるのが普通だからである。十九世紀中頃までの人々は、電荷、電線、磁石などからエフルビアという目には見えず、匂もない微小な粒子が発していて、これが上述の力の媒介物であると考えていた。例えば、正の電荷同志のクーロン力なら、両者からエフルビアが放出されていているので、これがお互いを打ち合うことによって斥力となるし、また一方が負の電荷である場合には正の電荷から出るエフルビアが負の電荷に吸い取られて、相互に引き合うのだという具合である。
これに対してファラデーは、エフルビアのようなオカルト的な粒子は廃し、ギリシャの哲学者アリストテレスの唱えたエーテルを媒体として導入した。ファラデーは、この宇宙は、たとえ真空といえどもエーテルで満たされていて、それが電気的、磁気的力を媒介しているのだと主張したのである。電荷や電流があるとエーテルに歪が発生し、その歪のことを「場」と呼ぶ。そういう場が有るか否かは、そこに電荷や磁石を持ってきて力が働くかどうかで知ることができるというのである。エーテルも匂や色のない微粒子であることにおいてエフルビアとよく似ているが、違うのは電磁気的な性質を帯びているというところである。以後世界中の科学者はこのエーテルの海の中を飛行する地球の速度を計るという研究に一世代以上の時間を費やし、その検証に失敗した。
他方、J・J・トムソンは、エーテルの電磁気的性質を調べるために、密封したガラス容器を排気し、その中に二枚の電極を設けて、それらに高電圧を印加することによってエーテルの運ぶ電気を知ろうとした。高電圧を電極にかけたまま真空ポンプで排気していくとやがて若草色の蛍光色が見えた。これは今では放電現象としてよく知られているものであるが、トムソンはこれをエーテルの電気的性質であるとして「電子」と名付けた。エーテルはアインシュタインの特殊相対性原理によって完全に否定されるが、それは西暦千九百五年、二十世紀を待たなければならなかった。
現代は、エレクトロニクス万能の時代であると言われるほど私たちの生活と電子とは切っても切り離せない関係にある。しかし、その電子は、まさに勘違いや誤解によって発見された。誤解や勘違いの方は永久に忘れ去られていくから、あたかも科学技術の進歩が予定調和的に発達してきたかのような印象を人々に与える。ここに一つ、科学技術の進歩と環境破壊の根源的な連関が潜んでいるのである。それについては次回に見ることにしよう。
我々の身の回りには、本質的には科学技術に関する形而下的な問題であるのに、それがある種の政治的色彩を帯びて語られることが少なからず存在する。原子力発電などはその格好の例である。これに賛成であるというと政府与党に好意的であるとみなされたり、反対であると言えば反政府的と見られたりする。環境保護などというのも、本音のところではこれに近い政治的雰囲気があるといってもよいであろう。
前回、科学技術は必ずしも予定調和的に発達して今日に至ったものではなく、数々の勘違いや誤解、後世からみればまるで逆方向を向かうような運動を伴いながら「進歩」してきたものであるということを、電子の発見に至る歴史的歩みを例に採りながら述べた。そこに見たように、科学技術は、歴史上の何時の時代にも、その時代の現在という時点にあって人々を取り巻く自然界の森羅万象を矛盾なく説明するものであって、それ以外の何ものでもない。
ところで、数学の証明方法のうちの一つに「数学的帰納法」というものがある。数的に規則的に生じている数学的関係は、それが例えば百番目まで正しい事実であったとした時には、百一番目も正しい数学的関係であるとして、百番目までの証明をもって百一番目以降の関係を証明するというものである。数学のような整序な公理体系においては、これは立派な証明法である。しかし、物理学的法則の成り立ちはこれとは全く異なっている。
物理学は現在という時点において経験している森羅万象を矛盾なく説明するものであるが、それまでには無かった別の現象を発見したとき、これが今までの自然観で説明出来なくなったときには、既存の自然観を全部改めなければならなくなるのである。これを科学革命という。前回の例で言えば、エーテルによって全ての電磁気的世界が説明できていたのに、その風の速度を計測することに失敗したとき、アインシュタインによって時間や空間についての本質的変更を迫られたという事実などがこれに該当する。こういうことは、古くはコペルニクスの地動説が現れたときにも起こっている。
このような大きな革命でなくても、小革命は科学の世界では数限りなく起こる。百の法則の証明がなされていることが、百一番目の命題を自明なこととして証明できることに必ずしもならないというところ、すなわち帰納法の成立しないところが科学技術の特徴なのである。それだけに科学技術の向かうところを謙虚に眺めて、いま我々の生活に何は採り込み、何を捨て、何はしばらく待つべきかをしっかりと選択していかなければならない。まして、これを政治的な派閥抗争の論題として一刀両断に扱うなど言語道断なのである。
ニュートンと並んで、アインシュタインは二十世紀が生んだ歴史上最高の頭脳の一人である。しかし、アインシュタインが特殊相対性原理、一般相対性理論を発表した後、彼は、彼がユダヤ人であったがゆえに政治的に排除された。アインシュタインのノーベル賞受章対象は一般相対性理論でもなければ、特殊相対性原理でもなく、光電効果の理論であり、これはこれで十分ノーベル賞受章対象に輝く立派な業績ではあったが、受章はこれでおしまいだった。これは、ナチズムの妨害という恥ずべき政治的干渉の故であった。
原子力問題といい、環境問題といい、そこに政治的駆け引きやら政治的プロパガンダやらが介在して問題を複雑なものとしたとき、取り返しのつかない未来が待っているということを合せて考えておかなければならない。
科学技術は、必ずしも我々がかくあれかしというように予定調和的に発展するものではない。後世の科学者が、現代の「科学的」説明を無知の時代の学問として一蹴することは十分考えられるのである。ちょうど、プトレマイオス天文学を現代人が嘲笑するように。