山梨科学アカデミー機関紙第2号1996.
『旧約聖書』創世記第
こうして現在までに,ノアの後裔たる人類は
冷戦という相互に「疑心暗鬼」を必然とする時代が終わり,東西の歴史的な和解が成立した
インターネットが結ぶシームレスでボーダレスな通信システムは,単なるハードウェアとしての電気通信手段としてだけではなく,バベルの塔以来の多言語とそれゆえの「ディス
「情報(
不確実な事態に直面したとき,人はその不確実性を解消するために「情報」を求めますが,不確実性を打ち消すのに十分な量の「情報」が取り込まれたとき(
コミュニケーションを図るのに,人は,言葉,文章,絵画,音楽,身振り・手振り,顔の表情,その他無意識に表現される様々な行動(ボディランゲージ)など,それこそ無数といってもいいくらい様々な手段や方法を持っています.これらのうちどれを採用するにせよ,これらによって作られたコード体系が人々の間で完全に共有化されていて,送受信者の間で伝達経路が完全につながっているのであればコミュニケーションは完璧に成されます.その順序を確認しておきましょう.
まず,情報発信者が伝達すべき情報を内発します.それを送受信者間で共有化されている「辞書」によってコード化し,同じく天下周知の「文法(範列法則)」にしたがってコードの並びを整えてテキストを形成し,話し言葉なら発声器官を通して,文章なら紙などに書いて発信します(メッセージ作成).音声または紙にメッセージとして表現された一塊の情報は伝達経路が完全にできていれば正確に相手に受信されます.受信者は,このテキストを天下周知の文法によって構文解析し,共有されている辞書にしたがってコードの意味を理解し最終的に発信者の意図したとおりのメッセージを解読することができます.
もし伝達の途中で雑音に妨害されたり,しみや手垢で汚れが発生した場合には,受信者はその旨を通知し,質問や再送要求を発し,再度コミュニケーションを図ります.
これはまことに理想的で感動的なほどのコミュニケーションの仕組みです.以上の様子を下の図にまとめて示します.
ところが事態はこうは順調にいきません.コードをコードたらしめている辞書と文法の質が発信者と受信者とも不完備で,共通の理解に達することなど到底できないのです.大学教育の現場でも,学生が当然所持していてしかるべきだとばかり思い込んでいた「辞書と文法」が実はまるで完備していなくて,行った講義の殆どが彼らに伝達されていなかったということを,学年末の定期試験の答案用紙で知らされるなどということを日常的に体験しています.土壌についての講演を口角に泡を飛ばして
このような教師から学生へのディスコミュニケーションが,今度はコンパの席上やカラオケに行ったときに逆の立場で体験させられます.学生同士で話している内容が当方にとってさっぱりチンプンカンプンなのです.また,歌う唄がなんとも国籍不明でどうみてもソナタ形式やフーガといった音楽の文法に適合していないのです.
実は,上図に示したような理想的なコミュニケーション形態というのは,発信者からの一方的な情報伝達であり,こういう伝達のメカニズムを「発信者優先」のコミュニケーションといいます.発信者優先コミュニケーションの場合には,「辞書と文法」の共有化が絶対条件であることが分かります.同一言語圏に属しながら世代の違いや体験の違いでこれだけの障害が発生しているのですから,まして異言語圏に属する者同士のコミュニケーションなど至難の業であることが分かります.
それなのにコンピュータのような機械によるコミュニケーションでは少なくとも機械同士では「ほぼ」完璧なコミュニケーションが成立しています.それがインターネットです.インターネットを構成している鍵は,唯一デファクトスタンダードなプロトコルです.
コンピュータによるインターネット情報通信では機械が行うコミュニケーションですから融通が利きません.そのため見ためには実に精緻にしてしかも晦渋を極めていますが,基本的には上の理想的なコミュニケーションを実現しています.最初に,全体の枠組みを説明しておきましょう.
インターネットでコミュニケーションを図るについては,上述の辞書と文法をまず世界的標準として確立しておかなくてはなりません.ここに独特なコード体系や統辞体系を持ち込んだりしますと情報ネットワークは大混乱を起こします.電気通信が実用化されて以来,電気通信事業は先ず例外なく政府の手かそうでなければナショナルフラッグとよばれる準政府機関たる独占企業体で実現されていましたから,その技術基準は一本であり,たまさか異なる国家間にまたがる国際電気通信が必要になったらその分界点で協議をしたり,あるいはそこだけ民営化したりしてインターフェースを取るようにしてきました.それとても国際関係が悪化したらインターフェースは遠慮会釈無く取り払ってしまうというやり方がまかりとおってもおりました.これに対し,インターネットは過去の歴史に無いやり方で世界を結ぶという法外なたくらみを実現しました.
インターネットは世界大の話ですから,ネットワークの物理的な質の良否(回線が光ファイバか導線か)や気象条件,技術的レベルの差や社会的・政治的条件など実に多様な状態が存在するはずです.そういう瞬時にカオスに転ずるかもしれない状況を前提としながら,テキストの配送を確実に,あるいは確実でなければデータを廃棄し,そのことを通知することも含めてコミュニケーションを確立しなくてはなりません.こういうあい矛盾する要求に対してインターネットは応えられたがゆえに(あるいは完璧には応えなかったがゆえに)今日の隆盛をものすることができました.そのプロトコルを総称して
インターネットのプロトコル体系は,アメリカの
図
少し退屈な話になりますが,上述のような階層的プロトコル体系によって実現されるインターネット通信サービスがどのように実際に実現されるのかを見てみましょう.そこでインターネットサービスで最も代表的なものの一つである匿名
さて,遠方のサイトのコンピュータBに掲載されている情報ファイルを取得(
すると,ユーザーのコンピュータAは,
コンピュータAから発せられた
ルータは,このパケットの宛先
こうして自組織から送り出されたパケットは,つぎつぎとルータによる経路制御を受けながらあらゆる目的地までバケツリレー式にコネクションを確立していきます.確立されたコネクションは,セッション終了のプロトコル信号を受信するまで保存されています.
こうして宛先コンピュータBの置かれたサイトのルータまでパケットが到着しますと,そのルータはパケット内の宛先
さて,宛先コンピュータBは,送られてきたパケットを解析し,それが自分が所持しているファイルの転送要求であることをパケット中のポート番号から読み取り,ファイルデータを,上と同様に宛先
こうして最初に送信要求を出したノードAは,ノードBからデータを受け取り,アプリケーションによって解読され,プレゼンテーション層によってディスプレイに映し出されたり,音声として表現されたりします.こういう面倒なことをこともなげに世界中のコンピュータが協同してやっています.インターネットが,「自律・分散・協調」を合言葉にできあがったということがよく分かります.
ここまで,理想的なコミュニケーションの形態においては,人も機械も似たり寄ったりのやり方をとっていることを見てきました.しかし,どうもこれはあまりにも無味乾燥であり,たてまえが強すぎて何か冷たい印象さえありました.
もちろん,人間はこういう杓子定規に情報のやり取りはしていないようです.その第一は,先にコンパの席上での学生同士の会話でみたように,コードの体系を「流行語」という形で断りなしにちょくちょく変形することが挙げられます.
たとえば,気になる語法として,「全然」というのがあります.本来は「全然だめだ」,「全然…でない」のように全否定で使うべきものが,「全然良い」などのように全面肯定に使われ,今ではこの方が市民権を得ています.「こだわりの店」とか「かたくなな味」などといって非合理的なやり方や融通のきかない手法を誇る表現がありますが,元来「こだわり」や「かたくな」は否定的表現であったものが,いまではそれとは全く逆の意味で使われるようになっています.
また,社会的規範の変化によって使用が制限される例もあります.たとえば国際会議で使われる司会者
第3に,価値の変化によるものがあります.「長屋」とか「貸し家」「下宿」は,昭和初期になって工業化による人口の都市集中が起るとその需要が増し,やがて供給も増加して過当競争が発生すると,中身は少しも改良されていないくせに「アパート」と呼び名だけが変わり,これがやっぱり長屋にすぎないと知れると「マンション」やら「レジデンス」やらとなにやら大仰な呼び名に変わりました.低地に建てられた「ハイツ」が,行ってみれば四畳半一間の「下宿」にすぎないなどという例は枚挙にいとまがありません.
これとは違って,変化の仕組みがその国や地域の文化構造の隠れた次元に内包されていて必然的に変化するというようなものもあります.日本語の一人称の「私」は,「僕」←「俺」←「自分」←「わし」←「予」←「拙者」←「我輩」・・・などと溯っていきますが,溯った先の一人称は随分傲慢な響きを与えます.そこで,時代が下るに従って用語上は卑下の度合いを増していきますが,すぐに傲慢に聞こえるようになって使いにくくなってしまいます.それに引き換え,二人称はというと,「あなた」←「君」←おまえ」←「貴様」←「おぬし」・・・などと溯ればさかのぼるほど呼ばれて不愉快になる下落した価値に行き着きます.だから,どんどん価値の高い二人称を使用しなくてはならなくなりますが,それでも見下げた感じが強まって短命に終わります.ちょうど今「あなた」が使いにくくなっている時代に到達しているようです.英語の「I」や「
このように,コードの体系はまことに移ろいやすく,注意深く使用しないととんでもないディスコミュニケーションの原因になりかねません.
ディスコミュニケーションを補完するコンテキスト
先に,理想的なコミュニケーションとして発信者優先のコミュニケーションについて述べました.これとは全く反対に,受信者優先のコミュニケーションというものがあります.
その昔,大学入試の英語の試験で見たこともない単語に遭遇して愕然としたというような体験を筆者は持っています.そのとき前後の関係から何となく想像される「和訳」をつけておいたら偶然当たっていてことなきを得たなどという体験です.このように前後関係から読み取れる情報をコンテキストといいます.
下の図
考古学は,無文字社会を研究対象としています.文字があり,書き物が残っていれば考古学ではなく歴史学です.だから,考古学は有力なコードである文字を頼りにできないだけコンテキストへの依存が大きくなります.発掘されたもの言わぬ土器の破片やその底にこびり付いた炭の炭素を同定して年代を推定したり,同種のものが異なる遺跡から発見されたことで二地点間の文化交流や経済交流を推量ったりします.
医療などは,病人という対象がそこにいて言葉や苦痛の訴えなど多種多様なコードを発するがゆえに考古学と比べればはるかにコンテキストの依存度が少ないかもしれませんが,病人に診断ができないという意味では医者の診察に待つしかありません.そして医者は諸々の所見から病名を決定していくという意味でコンテキストを読むという行為になっています.それだけに優先される受信者としての医者の「特権」が際立ち,医療過誤が見えにくくなります.インフォームドコンセントが叫ばれる要因はここに発します.
その外に,探偵や検事の事件捜査も,それが難事件であればあるほどコンテキストへの依存の程度が大きくなります.探偵シャーロックホームズの助手のワトソンが医者であったこと,だいいち作者コナン
片言をしゃべりだした幼児のおよそコードとも呼べない未熟な発話を母親は殆ど完全に理解しています.幼児の方も母親の発する完成された言葉を,コードとしては殆ど理解していないにも拘わらずコミュニケーションが完璧になされているのをみて,父親たる男性は一種の羨望を感じます.これは,母親が幼児の発する情報を完全に理解しようとする熱意の成果です.
ナンセンス詩という意味を成さない「詩」があります.一例を下に示します.
これはもう全くコードの体系を有してはいません.したがって「常識」の範囲では全く理解を超えています.こういうとき私たちは,これを単なる悪ふざけとして敢えて解読に及ばないという手を使うことができますが,これが著名な現代詩人鈴木志郎康作の『口辺筋肉感覚による叙情的作品』というれっきとした「芸術作品」だと聞かされれば何とか解釈を試みてみようという意欲がわいてこようというものです.もちろんその解釈は,悪いカラス鳴きから遠く離れた故郷の病気がちな母親への不吉な連想や,朝の湯飲み茶碗の中に浮かんだ茶柱から今日の幸運を期待する程度のものかもしれませんが.立体派の抽象絵画やバルトーク以来の現代音楽などもこれと同じ範疇に属します.
このように人は必ずしもコードの体系が完備していなくても,解読の意欲を持っていさえすればコミュニケーションを実行する能力を持つものです.上述のようにほぼ百パーセントコンテキストに依存しなくてはならないというのは極端であって,もうすこしコードに近いところでコミュニケーションを実行することも可能です.それがコードの持つ共示義です.
コードあるいは記号(記号(
赤い<ばら>は,薔薇の赤いのを指しますが,辞書には「薔薇」として意味が書いてあります.広辞苑によれば,「バラ科バラ属の落葉低木の総称.高さ
記号が有するこのような共示義は,表示義が言語によって様々なのに対してはずっと人類に共通性があります.バラでいえば英語では似ても似つかない<
どうやら紙幅が尽きました.
歴史の奇跡のようにインターネットが世界中に張り巡らされ,如何なる特権を持たなくても誰でも自由に情報を発信することのできる仕組みが,殆どボランティアの手によって完成しました.初期のインターネット構築の段階では,関係者は全くの無報酬で,厳しい規制の網に邪魔されながらシステムを立ち上げていましたし,いまでも大学の情報センター関係者は無報酬で関与しているところが殆どです.にもかかわらず,今や
しかし,このメディアが殆ど英語という必ずしも世界で一番言語人口を有するのではない言語(英語は中国語に次いで
「百聞は一見にしかず」動画や静止画や三次元グラフィックスなどの画像や,音声や音楽を加えた認知科学の成果をここに盛り込む必要があります.コンテキストの表現,表示義より共示義の多用など百年を費やすべき膨大な研究や開発が残されています.
そうであれば理学や工学だけではなく心理学,精神分析学,社会学,政治学,教育学,文化人類学,国際関係論,地域学,都市論,言語学,医学や芸術,宗教にいたる学芸百般を含む総合科学として,学際をはるかに超越する膨大な学問成果をここに投入する必要がありそうです.
マルチメディアの世界は膨大な奥行きを持ち,人類相互の深い理解という,ノアの一族が分散して以来一度も達成したことのない歴史的難題に応えていく可能性を秘めている実に夢多き研究対象のように思われます.
これが,筆者のマルチメディアにかける「定義」の試みです.最後に,執筆の機会を与えられた山梨科学アカデミー関係者にお礼を申し上げます.
(96/10/14)