室町後期の連歌師・古典文学者。紀州和歌山の生れ。別号、自然斎・種玉庵・見外斎。連歌を宗砌
・専順・心敬らに、和歌を飛鳥井雅親に、故実を一条兼良に学び、東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けた。三条西実隆とも親交。北野連歌会所奉行および将軍家師範。
西行や能因法師と並んで芭蕉が最も尊敬していた詩人の一人。古典文学に関する高い教養を持ち、在来の連歌の上に古今和歌集の幽玄さを加えて連歌の革新を図った。折しも、応仁の乱から戦国時代にかけて大名が各地に割拠するようになると、畿内の諸大名は言うに及ばず、周防の大内・越後の上杉、若狭の武田氏など成り上がりの戦国大名らは京の文化教養への憧憬を宗祇の提唱する連歌革新の中に見つけた。そのために宗祇は全国各地から招かれて、旅する連歌師ともなったのである。芭蕉が憧れた旅に死す
生き方はこういう時代の中で育まれたものである。有心(うしん)連歌を大成。連歌の古典『新撰菟玖波集
』を編集した。
1502年、越後から美濃に向かう旅の途次、箱根湯本で死去。静岡県裾野市桃園定輪寺に葬られた。
連歌作品として『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』、『吾妻問答』、『浅茅』。句集に『萱草(わすれぐさ)』『老葉
(わくらば)』、『下草(したくさ)』など、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』など。
宗祇は終生髯を伸ばしていた。そこで髭宗祇池に蓮ある心かな(素堂)というくらいであった。
関こえて爰も藤しろみさか哉 (『あら野』)