三冊子白さうし

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諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。陰神陽神石殷●馭廬島の天下りて、まづめがみ、喜哉遇可美少男との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれども、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。神代には文字定まらず、人の世と成て、すさのをの尊よりぞ三十一字となれる

八雲たつ出雲八重垣つまごめに

 やへがきつくるその八重垣を

此哥より定れると也。和國の風なれば和哥と云。和哥に連歌あり。俳諧あり。連歌は白川の法皇の御世に連歌の名有。此號の先は繼哥と云。素句の數もさだまらず。日本武尊、東夷せいばつの下向、吾妻の筑波にて、

新はりつくばをこへて幾夜かへぬる

と仰られければ、

かヾなべて夜には九夜日には十日よ

と、火燈しの童の次侍る。是連歌の起とすといへり。業平、いせの國かりの使の時に、齋宮、歩行人のわたれどぬれぬえにしあれば、と云上に、又逢坂の關は越えん、その盃の皿のついまつのすみして、哥の末を書付とあり。

鳥羽の院時、禪阿彌法師小林と云、連哥差合其外の句法式の書作れり。是本式なり。聯句法立也。是より新式あり。

諧と云は黄門定家卿の云、利口也。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いはぬものに物いはせ、利口したる體也。

學大成に、鄭綮詩語多俳諧。俳は戯也、諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を俳諧と云。又滑稽と云有。滑稽は菅仲楚人答る也。本朝に一休和尚あり。是等は人に相當る答の辨の上にありて、いはゆる利口也。古今集にざれ哥と定む。是になぞらへて連哥のたヾごとを世に俳諧の連歌という。

俳諧といふ事はじまりて、代々利口にみにたはむれ、先達終に誠を知らず。中頃難波の梅翁、自由をふるひて世上に廣しといへども、中分いかにしていまだ詞を以てかしこき名也。しかるに亡師芭蕉翁、此道に出て三十余年、俳諧初て實を得たり。師の俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也。されば俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事いかにぞや。師も此道に古人なしと云り。又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐ると、返々詞有。むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり。我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。誠に代々久しく過て、此時俳諧に誠を得る事、天正に此人の腹を得る也。師はいかなる人ぞ、連俳直一也。心詞共に連歌有。俳諧有。心は連俳に渡れども、詞は連俳別て、むかしより沙汰仕をける事共有。俳無言と云書に、聲に云詞都而俳言也。連歌に出る聲のものあれども、俳言の方也。屏風、拍子、律の調子、例ならぬ、胡蝶など云類也。千句連哥に出る鬼女、龍、虎その外千句のものゝ詞俳言也。連歌に嫌ふ詞の櫻木、飛梅、雲の峯、霧雨、小雨、門出、浦人、賎女などの詞、無言抄にも省派紹巴の聞書等にも數多みへ侍る。か様みな俳言也。

  名にめでゝおれるばかりぞ女郎花

   我落にきと人にかたるな

此句僧正遍照さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。先師のいはく、いにしへの俳諧哥雜躰あまたなれども、まめやかに思ひ入たる躰あまたなれども、まめやかに思ひ入たる躰、

  おもふてふ人の心のくまごとに

   立かくれつゝ見るよそもがな

  冬ながらはるの隣のちかければ

   なか垣よりぞ花は咲きける

又いはく、春雨の柳は全躰連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見に行くといふ句は詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳也。又、霜月や鴻のつくづく双居て、と云發句に、冬の朝日のあはれ也けり、といふ脇は心詞ともに俳なし。ほ句をうけて一首のごとく仕なしたる處俳諧なり。詞に有んに有。其他この句の類作意に有。信所一筋に思ふべからずと也。

歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。俳諧の式の事は、連哥の式より習て、先達の沙汰しける也。連哥に新式有。追加ともに二條良基摂政作之。今案は一條禪閤の作、この三ッを一部としたるは肖柏の作と也。連に三と數ある物は、四とし、七句去ものは五句となし、万俳諧なれば事をやすく沙汰しけると也。今案の追加に、漢和の法有。是を大様俳諧の法とむかしよりする也。貞徳の差合の書、その外その書、世に多し。その事をとへば、師信用しがたしと云り。その中に俳無言といふ有。大様よろしと云り。差合の事もなくては調がたし。

の門にその一書あれかしといへば、甚つゝむ所也。法を置と云事は重き所也。されども花のもとなどいはるゝ名あれば、其法たてずしては、其名の詮なし。代々あまた出侍れど、人用ひざれば何ンが為ぞや。法を出して私に是を守れとは恥かしき所也。差合の事は時宜にもよるべし。先は大かたにして宜と也。たヾこゝろざしある門弟は、直に談じて信用して書留るもの、蜜にわが門の法ともなさずばなすべし。

の事を先師曰ク、むかしより二句結ざれば不用也。むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。 いま思ふ所は戀別而大切の事也。なすにやすからず。そのかみ宗砌、宗祇の比迄、一句にて止事例なきにもあらず。此後所々門人とも談じて、一句にても置べき事もあらんかと也。又ある時云ク、前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべしと也。是には此句のみにて、つヾいて戀にも及べからず。新式にも此沙汰あるよし也。しかれども、戀の事は分て其座の宗匠に任すべしと也。

の事、ある俳書に師の曰、連哥に旅の句三句つヾき、二句にてするよし。多くゆるすは神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し。今、旅、戀、難所にして、又一ふし此所にある。旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし、とは連(歌)の教也とあり。又、旅、東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なしとも云りと有。

歌を用いる事、新式に云ク、新古今已来の作者を用べからずと也。八代集は古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、是也。後土御門依勅、新勅撰、續後撰二代を加へて、十代集を本哥に取る。又堀川兩度の作者迄の哥は、十代の外の集たりとも、たとひ集にいらぬ哥也。¥とも、作者の吟味有之かと云也。

、新式にいはく、人のあまねくしらざる歌をば、付合に是を好むべからず。事により證哥には引用ゆべしと也。

哥と證哥と差別あり。本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。證哥とは聊違有。或は一句餘情、又名所續合たる物を付るをいふ也。證哥はいづれの集にても可有事也。

廻の事、新式に薫といふ句に、こがるゝと付て、また紅葉を付べからず。舟にて付べし。こがるゝといふ字かはる故也。夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。又たとへば、花といふ句に、風とも霞とも付て又不可付也。 數句をへだつといふとも、一座に可嫌之、他准之。又、竹と云句に世と付て、又、竹出る時、夜の字不付也。如此の類、遠輪廻也。あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。等類の事おろそかにすべからず。師のいはく、他の句より先我が句に我が句、等類する事をしらぬもの也。よく思ひて味べし。若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし。趣向に表と裏あり。国もよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし。ふるき連歌に、思はぬ方にちらす玉章、と云前句に、山風や枝なき花を送るらん、と有。この句、山風の枝なき花を送るこそ、全ちりたる躰、前句同意の連歌と沙汰しけるよし有。又いはく、

  都をバ霞とともに出しかど

   秋風ぞふく白河のせき

  都にはまだ青葉にて見せしかども

   もみぢちりしく白河の關

此哥の叓、師のいはく、いにしへより色をわかちたる作意によりて、等類のがれたると云来る也。さもあるべし。今師の思ふ所、後のうた、卯月此都を出て、十月に及び白川に至り、紅葉のちり敷たるを見て、前の能因法師の哥を思ひだし、彌その哥の妙所を感コしたりと、云心より詠る哥なるべし。是にて等類よくのがるゝと云り。切字の事、師のいはく、むかしより用ひ來る文字ども用べし。連俳の書に委くある事也。切字なくてなほ句の姿にあらず、付句の躰也。切字を加ハへても、付句の姿ある句あり。誠に切たる句にあらず。又切字なくても切る句有。其分別切字の第一也。その位は自然としらざればしりがたし。猶、口傳あり。師常に道を大切にして示されし也。あこくその心はしらず梅の花、と云句をして、切字を入る事を案じられし傍にありて、此句は切字まくて切るやうに侍ると云ば、切る也。されば切字はたしかに入たるよし、初心の人のまどひに成てあしゝ。つねにつゝしむべし。ましてさせる事もなき句は、句を思ひやむとも常にたしなむべし、と示されし也。

章の事、師のいはく、惣名を文章といふ也。序に、由_序、來_序、丙_序といふ三體あり。由は起るよしを書、來は是より先の事を書、内はその書の内の事書也。此三體を一つにして序一ツにも書る也。跋は序を猶委しく云たる物也。ふみとまりて委しくするの心也。序跋ともに年號月を書。五字七字書は長哥の格也。七五三などゝ地の詞亂に書。あるひは對ある時は必對を置く。古事を置時は古事の對、野山、水邊、生類等おのおの對、同前也。詞書その書様和にならひたし。漢には其綾もある事と也。記は其物を記すの心。格は序跋に同じ。意の違のみ。銘は前に同じ。意の違のみ。賛はほむるの心也。即山吹に句をする時は、山吹をほめて賛也。山吹を褒美の義理也。惣而文章に書時、四五字四五字に書、大かたの格也。

合判の事、衆議判と云は、連中の打寄詮議批判するを云也。蛙合は衆議判の格也。故に判者もしかとなし。ほん判といふ時は、判者奥に跋にても又序にて書なり。句引までも付る也。哥に哥合有、即座の判、兼而の判もあり。即座の判は左右に文臺を立て判者あり。難陳あつて判者是を聞、それにもかゝはらず判を書也。巻頭は多くは持のもの也。

紙の事は、 百韵本式也。五十韵哥仙みな略の物也。連歌の古式は、表十句、名残の裏六句、月七句去、花裏表に一本宛、表の内名所必一有。今も清水連哥此如しとなり。師のいはく、古法表十句の例を守て、八句の後二句過る迄、表に嫌ふものゝ類、連歌に今にせず。俳にはくるしからず。連哥に龍虎鬼女さし出たる類、表の内嫌。俳諧にも鬼女はなりがたし。龍虎はくるしからず。その外人を殺す、切る、しばるなどの類は用捨すべし。百韵一所に過べからず、と師の云也。又、戀の詞、述懐の類、祝言に云たる句は、表の内いかヾ侍らん、とたづねる時、師のいはく、句によるべし。文字はくるしからず。祝言にいひなすとても、人のうえに云ばいよいよ述懐也。花のさびしきの類はくるしからず。崩し壁に下る夕貌などゝ全の貧家を移す句は用捨すべし。他人の句はとがむまじと也。又、戀無常其外嫌ふ古事、本祝を下心にして、表にあらはさず。又、他物のおへにかり用ひたるなどの句の類、いかヾ侍らんと云ば、師のいはく、大形は表に嫌ふべし、事にもよるべき事ながら、いづれとても心嫌也。詞に出さずして、心の下に嫌ふ事を持たるは作者清からず。心きたなし。一向にうち出て云たるかた然るべし。されども表の躰にあらざれば、常にくるしからず、うち出せというふははあらずと云り。又古今の人の名、表に出す事いかヾ侍らんとたづねしに、師の云、今の人の名はつゝしむべし、古人の名は物によりてくるしかるまじ。されども、好がたし。心嫌也と云り。懐紙に戀をなくていかヾしく、むかしより沙汰し來る。なくてかなはざる事か。好む心はいかヾにと云ば、此事は知て大切の事也。懐紙に戀を目立る事、神代より日本はじまるの例也。戀なくては詮なき事也。つゝしむべしと也。

のいはく、たとへば哥仙は三十六歩也。
 

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