芭蕉DB

野ざらし紀行

(富士川の捨て子)


 富士川*のほとりを行に、三つ 計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩*がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに

(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)

 いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか*。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。

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表紙 年表


猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 「哀猿」とは晩秋の頃、猿が甲高い声を上げて叫ぶあの求愛の声。悲壮感を煽る猿の声は、古来哀しみの象徴として詩歌に詠まれてきた。その哀猿の声と捨子の哀れな鳴き声とどちらが一体哀しいのだろうかと問う。この時芭蕉は、捨子を救済することなく通過した。一句の卓抜さとは裏腹に、後日、人道的非難を十分に被った作品。
それにしても、歳の頃三歳の子供(当時はかぞえ年齢だから満年齢では2歳だろうが、それにしても・・・)と言えば、もはや物心もつき、分別すら持っているはずだ。第一、芭蕉が 「三つばかりなる」というからには捨て子の姿・顔付きなども見たことになる。それなのに気休めに袂から食い物をなげ与えただけで通り過ぎたというのは、いかにも薄情ではある。芭蕉の名誉のために、「猿の声」を際立たせるための文学的フィクションと解釈することも可能。

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現在の富士川.東海道線車中より.上流の鉄橋は東海道新幹線,その上流に東名高速道路の鉄橋