(元禄4年1月3日 芭蕉48歳)
大津から発信した句空宛書簡。芭蕉は、1月中旬に伊賀へ行き、2月下旬に大津へ戻って京都に行く、としているが、実際には小旅行などもしているが、伊賀には4月まで滞在していた。
ここでも、京都へ出てくるようにと勧めているが、これは芭蕉が、このころようやく「軽み」の発見に至り、そのことを弟子たちに伝えたい気持ちがあったからではないだろうか?
其後之身の行衛吹風にまかせ候へば、慥に難レ申進レ之候:<そのごのみのゆくえふくかぜに・・・、たしかにもうしがたくこれをしんじそうろう>と読む。
御捨なく候段、則西行・能因が精神、世外之楽、此外有間敷候:<おすてなくそうろうだん、すなわちさいぎょう・のういんがせいしん、せがいのたのしみ、このほかあるまじくそうろう>と読む。精進を続けて、西行や能因の心になれれば、脱俗の喜びとして、これ以上のものはないと思います、の意。