関口芭蕉庵
芭蕉は、延宝5年(1677年)から約4年間神田上水の水道管理(実態はメンテナンス業務またはそれに係る管理代行業務か?)の 担当者として延宝8年までこれに従事した。その折に住んだのが龍隠庵(りゅうげあん)。現在の東京都文京区関口2丁目(関口芭蕉庵)であったといわれている が、 ここに住んだという証拠は無い。この時代、ここより上流は早稲田田んぼの美しい農業景観が広がっていたのである。そして、ここに小型のダムが建設され、そこから神田上水が配水された。
芭蕉の水道工事に関する最初の文献は森川許六の『風俗文選』で、その巻頭に下記のような文章がある。
芭蕉翁者伊賀人也。武名松尾甚七郎。奉仕藤堂家。壮年時辞官遊武州江戸。風雅為業。号桃青。乃誹諧正風躰中興祖也。嘗世為遺功。修武小石川之水道四年成。速捨功而入深川芭蕉庵出家。年三十七。天下称芭蕉翁。遊東西南北説風雅助諸門人。国中悉帰芭蕉風。一遇難波津伏病。終卒年五十一。葬江州義仲寺。 ( 森川許六編『風俗文選』より)
また、蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』の中の「芭蕉翁伝」にも、次のような一文がある。
喜多村信節の「筠庭雑録」には、次のような前文がついている。
桃青江戸に来たりて、本船町の名主小澤太郎得入(宝永六年十二月二十四日没ス。卜尺ハソノ子也。卜尺ハ号。)が許に居れり。日記などかかせたるが多く有しと也。其頃の事にてもあるにや。水道普請にかゝれる事見えたり。そのかみ神田、玉川両水道ともに、町年寄支配なればさやうの事工夫者なりしかば、こころみに差図を計はせしなるべし。役所日記延宝八年六月町々へ触れ書きあり。
ここに写す。綾ニシキ* 得入(小澤氏師不知)*。卜尺(長子ハジメ弧吟と云)季吟門人、次の卜尺(先卜尺ノ長子)現存ト云り。又云、ハセオ翁、東都ニ於テ始テ履ヲトカレシハ古卜尺やどり也。
綾ニシキ:「綾錦」。享保17年刊の書名。
得入:この文章には登場人物が3人いる。得入、卜尺<ぼくせき>、卜尺で、それぞれ父、子、孫の関係。初代の得入のところへ、季吟門下の二代目卜尺が芭蕉を連れてきた。その二代目卜尺は、父の仕事をしていないように見えるのが不自然だが、芭蕉は得入の日記など(事務文章のことであろう)を書く書記の仕事をしていたというのである。そして、三代目の同じく卜尺を名乗るおそらく俳人がいて、この文章の時にはこの男だけが生きているらしい。この得入の師が誰であるかを知らないというのは筆者=喜多村信節<きたむらのぶよ>の注である 。
全文翻訳: 桃青は江戸に来て、本船町(日本橋にあった)の名主小澤太郎得入(宝永6年12月24日没。有名な卜尺は得入の息子。ただし、卜尺は俳号)の許に居た。だから桃青に書かせた文章などが沢山卜尺宅にはあったという。その頃のことらしいが、桃青は水道事業に関わったことがあるらしい。昔は、神田上水や玉川上水は町年寄の配下にあったので、多少の心得のある者ならばコミットメントが可能であったのである。ここに役所日記延宝8年6月の町触れがあるのでそれを書き写しておこう。
「綾錦」の著者小澤得入(彼の師が誰であるかは不明)。卜尺は(得入の長男ではじめ弧吟と号した)北村季吟の門下で、その次の卜尺は先代の卜尺の長男が今生きている卜尺だという。また、芭蕉翁が江戸に来て最初にわらじを脱いだのは先代の卜尺の家であったという。
大洗堰のあった付近にある歩行者専用も大滝橋.橋の先は早稲田だ
神田川は典型的な都市河川
神田川は外堀と後楽園へと分流される。江戸川橋付近
神田上水の関口の大洗堰跡(椎貝博美先生撮影)
江戸古地図(関口芭蕉庵のご好意による)
上図の接続部分古地図(定評ある人文社刊『江戸東京散歩』より)