ふじざくら No.22

山梨県立女子短期大学図書館(2005.3)




「卒業論文の作成と図書館」


図書館長・国際教養科教授 島袋善弘


 学生の活字離れが話題になるようになって久しい。さまざまな情報手段が発達したとはいえ、現在でも文字からの情報の入手は大きな意味をもつ。 学生が活字に触れる機会(触れざるをえない機会)が増えるのは、卒論作成の時である。卒論作成のためにはテーマに沿った知識・情報を蓄積することが必要である。図書館で書庫を回りながら文献を探すことは有効な方法である。最近ではコンピューターで図書の検索を行うが、情報収集の初期には書架で直接本を手にすることは、テーマに関する知識・情報について手がかりをつかむ方法として意味は大きい。
 私の卒業研究演習では、テーマに沿う文献・情報収集の方法、そのための図書館利用の方法などを書庫を回りながら話すことから始めている。ほとんどの学生があるテーマに関して多くの本を読むという経験をもたないところから出発するが、卒論作成で、何かを調べるとうことはどういう意味があるのか理解し、ある種の充実感を味わって書き終える。次の卒論の「あとがき」は、その過程と結果を示すものである。

1.「韓流ブーム」について書いた卒論のあとがき
 私は「韓流ブーム」を通じて韓国と日本について調べました。今まで韓国という国にはあまり目を向けていませんでしたが、韓流ブームが日本で起き、とても興味をもつようになりました。大学生活の集大成としての卒論のテーマはとても悩みました。書き終えてこのテーマにして良かったと思いました。論文を書き、また韓国にも行くことができました。本探しで図書館へ足を運び、本も以前よりも読むようになった事はとても自分にプラスになったと思います。気になった事や調べたい事をこのように自分でまとめて一つのものとして作りあげるということが様々な努力を要する事だということを実感し、体験することができました。なにかに興味を持つことや、それについて研究するという精神はいつまでも持っていたいと思います。

2.「第2次大戦中の山梨県民」について書いた卒論のあとがき
 今回私は本当に山梨のことを知らなかったと実感した。私の住む白根(南アルプス市)は畑や山が多くあり、田舎である。この田舎にも、壮大な軍用飛行場が作られていたことに驚かされた。もっと驚いたのは、祖父たちが戦争のため外国に行っていたことである。さらに子ども達も働かされたり、家族で満州に行かされたりと戦争に関わっていたということがショックだった。満州移民や甲府空襲で命を落とした人たちが多くいたことは胸が痛くなる思いだ。私は論文を書くことを通して多くのことを知り得た。自分のことを人に話すためには、まず自分のことを知らないといけない。さらに自分の生まれ育った町、国をよく知らないことは恥ずかしいことかもしれない。自分に子どもができたとき、自分のこと自分の故郷を語るときこの話をしてあげられたらいいと思う。

 自分から求めてテーマに取り組み、本を読むことは楽しいことである。今年は県立女子短期大学の学生が卒論を書く最後の年である。早い時期に取りかかって図書館に通い、充実した卒論を完成させ一段と成長した自分を確認して卒業を迎えて欲しいというのは教員と図書館の願いである。 (2005年2月)





本学先生の研究書紹介

『中国語スタイルでいこう』

国文科助教授 平野和彦 著(駿河台出版社・2004年4月)

 私がはじめて中国語を学んだのは大学の第二外国語でした。1972年の中日国交回復以来、日本の中国ブームはなかなか冷める様子もなく、大学に入学した1979年当時は中国語を受講登録する学生が長蛇の列をなし、時には教室に入りきらない立ち見の学生が廊下にはみ出すといったあり様。そのような授業でしたから、当然?物見遊山的学生も多数混ざっていたわけで、英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などに対して抱いていた外国語というイメージに比べて、予想をはるかに超えたその発音や変わった漢字ばかりが並ぶ教科書に当時の学生は拍手喝采の大爆笑。当初はとても授業が成立するような状態ではありませんでした。ところが、授業も半年を過ぎる頃から出席する学生数が減っていき、物見遊山の輩は中国語の難しさ、と言うより、中国語特有の発音や語法特性について柔軟に順応することができず頭と体が拒否反応を起こして逃げ去っていった、というのが実情でした。斯く言う私自身も学習面において相当のストレスを感じていました。当時は、今日のように報道や様々なメディアを通じて、または、日本に訪れる多くの中国語圏の人たちが話す生の中国語を聞く機会や会話の雰囲気に接する機会は非常に少なく、全くと言ってよいほど免疫性を持たない者にとってはやはり止むを得ないことだったのです。また、教える教師の側も、はっきり言って教育には無縁のご仁が非常勤講師としてやってきた程度のもので、教科書や辞典類もろくに無いという実にお粗末な時代だったことも事実でした。

 あれから20年。様相は一変しました。この間の私はと言えば、大学の授業に見切りをつけ、今の所謂ダブルスクールで都内のビジネススクールに通ってネイティブの講座を取り、台湾での2ヶ月の短期語学留学を経て、中華人民共和国から政府奨学金を受けて2年間の長期留学に及びました。尤も専門は中国文学と中国美術を学ぶためで、語学研修は行わず丸々2年間専門を学びました。私にとって語学はそのツールにしか過ぎませんでしたが幸い感性には恵まれていたのでしょうか?長期滞在で中国に渡った1986年時点では日本人と思われることはほとんどなく、台湾で勉強したせいか南方なまりが多少あったので香港人か上海人と勘違いされることしばしば。嬉しいやら悲しいやら何とも奇妙な生活を送りました。
 帰国後2年間は、中国滞在中の、日本人と接する機会も極端に少なかった生活自体がカルチャーショックを生じさせていたのか、夢も独り言も思考回路そのものに日本語がスムーズに登場しないというストレスを感じながら、改めて中国語の語法を学び直し、その後は放送大学や高専、高校、本学などでの中国語教授歴を経て今日に至りました。この間約10年。読めても書けても会話はできないという日本人の語学コンプレックスに、私自身が経験した中国語学習時期と帰国後の日本語回復時期のストレスを真正面からぶつけて完成したのが本書です。随所にこれまでになかった試みを施し、幸いなことに好評を得ているようです。お世話になった多くの中国の方々に、特に今般の出版にあたっては北京大学から本学に着任された李大遂先生に大変お世話になりました。この場をお借りして感謝申し上げる次第です。



『アジア・オセアニアの高等教育』

馬越徹編 著(玉川大学出版部・2004年9月・4500円)

第5章「シンガポール-グローバリゼーションに挑む高等教育改革」
分担執筆 幼児教育科助教授 池田充裕

 "COE(Center of Excellence: 研究拠点)"、"アクレディテーション(Accreditation: 品質認証)"、"FD(Faculty Development: 教授能力開発)"、"ピア・レビュー(Peer Review: 教員相互評価)"…かつては教育学者の間で用いられていたこれらの専門用語も、今日では一般の大学教員や職員、新聞等のメディアで普通に取り上げられる用語となりつつあるようだ。
 本書『アジア・オセアニアの高等教育』を手に取っていただければ、これらの地域の大学でもやはり同じ用語が飛び交い、同様の方向へ高等教育改革が進行していることがすぐにお分かりいただけるだろう。「同様の方向」とはすなわち、"公費支出の削減と歳入多元化(民間資金の導入)"、"産学連携と「知」の商品化"、"国立大学の自治化・企業化"、"多様化した教育ニーズに対応するための特色作り"、"教育の品質保証と研究評価の重視"、"保証・評価装置の創出と多元化"、"ワールド・クラスの大学(WCU)と人材の育成"、"同僚性(collegiality)から経営効率性へ"といった戦略概念である。
 本書を編集した日本比較教育学会会長の馬越徹教授(桜美林大学大学院教授)は、韓国教育研究の泰斗であり、同国の執筆にあたっている。また他のアジア8ヶ国(中国、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、シンガポール、フィリピン、インド)とオセアニア2ヶ国(オーストラリア、ニュージーランド)についても、同学会員の各国専門家が新しい動きを克明に描写している。
 具体的には、1997年のアジア金融危機を起爆点として、各国にグローバル化の波が押し寄せ、急速なスピードと大胆さで高等教育改革が進行したことが読み取れるだろう。たとえば、中国では"科教興国(科学と教育による興国)"のスローガンの下、「985工程」では「世界一流大学作り」計画が進行し、北京大学と清華大学に約300億円、他の有名7大学には約130億円が投じられ、「211行程」では約100 校のCOE大学作りのために約1,600億円が用意された。韓国の「頭脳韓国21世紀事業」では約1,400億円をかけて、COEプロジェクト公募事業が行われ、採択プロジェクトの半数がソウル大学に集中した。これに対して我が国の場合、国立有名大学に4分の3が集中したとはいえ、100強程度の大学に1校あたり1〜5億円を、文字通り"バラ巻いた"にすぎない。その資金規模と集中の度合い、"世界水準"やCOEという捉え方自体に、大きな相違があるといえるだろう。
 池田が執筆したシンガポールの高等教育改革も壮大である。既にシンガポール国立大学は、アメリカのシリコンバレーやバイオバレー、中国・上海に海外カレッジを開設し、スタンフォード大学や復旦大学といった地元有名大学と提携して、各地に毎年100名ずつの学生を派遣留学させている。今年中にはインドやヨーロッパにも海外カレッジが置かれる予定である。留学生政策については、今後10年以内に国内大学と企業で留学生・研修生を20万人受け入れる計画である。国内人口350万人の国に20万人ということは、我が国でたとえれば約600万人の受け入れに相当する。20年かけて昨年ようやく「留学生(・就学生)受け入れ10万人計画」を達成した我が国と比べて、国家観や社会観、高等教育機関の役割が根本的に異なっていることが窺えよう。同国にとって大学とは、国家開発と社会改造、国家間競争の最先兵なのである。
 同書を一読していただければ、グローバリゼーションの外圧に軋みながらも、明確なビジョンと大胆な発想でこれに挑もうとするアジア・オセアニア諸国の逞しさと、我が国のマッタリとした高等教育改革の穏やかさを感じることができると思う。





本の散歩道

「隗より始めよ」

事務局長 歌田日出男

 5年ほど前に上司が、面白いからと貸してくれた宮城谷昌光著『楽毅』という小説について少し触れて私のエピソードとさせていただきたい。かなり分厚い単行本4巻にも及ぶ長編である。久しく小説などというものに目もくれない時代が続いていた我が人生の異変であった。上司が勧めてくれたのは、「かいより始めよ」の故事が書かれていること、何より「主人公がっ楽き毅が何とも格好いい(生き方が)」と思ったためのようである。
 「人がみごとに生きるのは、むずかしいものだな。」これがこの小説の書き出しである。主人公楽毅のつぶやきであるが、この一行に引き込まれるように読み始めた記憶がある。中国戦国時代、秦の統一前の中国にいくつもの大・小国があり、生存をかけて様々な駆け引きの中で、合従連衡しながら戦をしていた。その時代を生きた一名将の生き方が「人がみごとに生きることとはどういうことか」をテーマに描かれている。全編を通じて終始、 楽毅が国を思い、王を思い、将軍として兵や民、周囲の者を思い、仕えるどの王にも単に従うのでなく、相手の立場に立って、しっかりと考えを述べる中で自らの身を処す、その忠(義)と誠実さは見事という感じで読み終わった記憶がある。上司曰く「格好いい」は正に同感であった。

 ところで、「かいより始めよ」という言葉である。私の理解は「他人に言うときは、まず自分からやりなさい」という意味程度であり、「かい」の漢字も知らず、「自分から」が何故「かいより」なのかも知らず、何時何処で知ったかも覚えていなかった。この本によって、中国戦国時代の燕という国の昭という王が、国に賢者を集めるにはどうしたらよいかと家臣の「郭隗(かくかい)」に相談したところ、「まずこの郭隗から使ってみてはどうか、そうすれば自分よりもっと優れた賢者が集まる」と答えたことから、その名をとった「先従隗始」、「隗より始めよ」となったことを知った。この郭隗の答もまた、その昔にあった故事をもとにして考えた言葉であることが、この本の中に出てくる。
 「隗より始めよ」の日本での使い方は、転じて「言い出した本人から始めるのがよい」意に用いられることが国語辞典に説明されている。もう一つついでながら、私が、前の段で中国の大・小国が「合従連衡」しながら戦をと書いたが、これは今日我が国で、政党等の再編論議等に際し使われているので、中国戦国時代の戦いも、「あちらと手を結び、こちらと手を結び」の様を表現したつもりだった。が、漢字を間違ってはと思い辞書を引いたところ、何と「中国戦国時代に六ヶ国が連合して強国の秦に対抗した攻守同盟の政策」と説明されていた。これもまた元は中国かと思いながら、一方で、日本人の、何事にも外のものを日本的にうまく利用する、特技の一つかとの思いもしたところである。
 話が取り留めなくなってきたが、私は、早くからテレビ人間になっている。普段ボケーと過ごしていながら、おかしなことに、仕事で忙しいときに、別の関係ない本を読みたくなり夜更かしするなんてことも経験してきた。何かに集中し、充実していることが大事であり、普段の読書癖が大事と思っている。
 この『楽毅』は名将の戦を通じての生き方であり、男性主人公であるが、世は正に男女共同参画の時代、仕事につく人すべてに参考になる本のような気がする。私も一度読んだだけで大それたことを言えないが、また読んでみたいと思っている。

「この頃のたのしみ」

国際教養科助教授 高野美千代

 このところ子どもの本を好んで読みます。私自身の息子と娘が読んでほしいと言うので、むかし読んだような(読まなかったような)本を手にとるようになったのです。
 モモちゃんシリーズや『いやいやえん』などの懐かしいタイトルは、設定がまさしく昭和のある時期で、自分が子どもだった頃と重なります。語彙も今どき使わないようなものが出てきて、祖母や母との思い出がよみがえります。わざと昔っぽい口調で読んでみたり、 うちの子どもになじみのない言葉を説明したりするのも楽しみです。(そういえばイギリスではハリー・ポッターのお話を親が読み聞かせをするときに、登場人物に合わせて声色を変えたりするのを楽しんでいる、と聞いたことがあります。)
 それから最近は大正から昭和初期にかけての児童文学が好きです。当時の児童雑誌『赤い鳥』(復刻版)を読むと、一種カルチャーショックのようなものを経験します。おそらく小学生くらいの年齢層の子ども向けに書かれた作品なのでしょうが、まずその日本語の美しさに感動し、一冊の本の中に収められた作品や記事の内容の幅広さに驚かされます。当時の子どもはこんなに洗練された月刊誌を手にしていたのかと、何かうらやましいような気になります。毎号巻末に読者から寄せられた作文が掲載されていますが、低学年の児童の作文は方言を使って書かれていて、なんとも言えないあたたかさがあります。
 『赤い鳥』と言えば、『ごんぎつね』の著者として知られる新美南吉も作品を投稿していました。新美南吉の作品の中で、『てぶくろをかいに』が私の一番のお気に入りです。子どもに読み聞かせていると、いつも涙するのは私のほうです。それもいつも違う場面で胸にこみ上げてくるものがあり、子どもの前で本当にばかみたいと思いながらも、涙をぬぐいつつ読んでいます。
 最近になって再会したピーターラビットもくまのプーさんもガリバーも新たな魅力がいっぱいです。息子と娘のおかげで日々の楽しみがまたひとつ増えました。





図書館のあゆみ

 蔵書は開学当時に比べ5倍以上に増え、調査相談件数は過去10年で4倍に。文献複写の受付件数も増えています。また現在ではビデオやCDの他、CD-ROMなど新しいメディアも急増しています。県立大学として出発するにあたり、蔵書は飛躍的に増えます。それに伴い、本館との間に書庫を増設する予定です。しかしながら、入館者数は減少中。皆さんの知的財産をもっともっと有効に活用してほしい・・・。





<写真で見る図書館の歩み>

 1966年開学の頃は、写真左端の建物(旧:第一研究棟)が図書館でした。

↑創立30周年記念誌(1996)より転載

現在の建物は1981年3月に完成!

2005年4月県立大学新設!図書館利用がますます便利に!!!
開館時間
9:00〜19:00
(↑予定)
一人2週間
5冊まで





編集後記

最終号のふじざくら。原稿をお寄せ頂いた皆様、ありがとうございました。
図書館の利用者が増え、ますます皆様のお役に立つことを願っています。(図書委員会)


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最終更新日 07/3/27
制作 山梨県立大学 (文責 : 図書館)
Yamanashi Prefectural University