(『ミツトヨレポート』182号1992.2)

永遠の普遍性

山梨大学工学部教授

伊 藤  洋


 青春時代,熱い血を沸き立たせてくれたマルクスの『資本論』,その資本論の論理を少なくとも字面の上では具現化したソビエト連邦や東欧がいま音を立てて崩壊しています.そしてもう一方の資本主義社会も,様々な問題を孕んだまま苦悶しているように見受けられます.これを要するに,近代を貫いてきたパラダイムが,今激しく交代を迫られていると言うことができます.まさに歴史は,「朝に死に,夕べに生るるならひ,ただ水の泡にぞ似たりける」(方丈記)という有様です.

 それでは,私たちの身の回りに存在する森羅万象にとって,変転して止まない無常だけが真の姿なのでしょうか.この世には,時代を超え,空間を超えて不易流行していく価値観と云ったものは全く無いのでしょうか.

 時代を超えて普遍的に存在している価値観として宗教,わけても仏教,イスラーム教,ユダヤ教やキリスト教のような普遍宗教・世界宗教を挙げることができるのかも知れません.しかし,これらとてもその存在感は時代により場所により変転してきたように思われます.ただ,これらが千変万化しながらも数千年の長きにわたって普遍的に存在してきたというところが他の物事と異なるように思われます.

 古寺を巡礼してみますと夥しい数の仏像に巡り合うことができます.これらの仏像は,仏教の創始者ゴータマ・ブッダという一人の「覚者」のイメージを描いたものに他なりません.それなのに何と多種多様な仏像群があるものでしょうか.そもそも仏像は,菩薩像,如来像,それに明王像の3種類に分類できます.菩薩像がゴータマの論理性,あるいは知的イメージを強調しているのに対して,如来像は彼のエモーショナルな側面,一切衆生を慈しみ愛しむ慈悲や愛を表現しています.そして明王像は,信仰に対する節度の喪失を叱る教育者としての側面を表わしていると言われています.しかも,仏像はこれら3種のそれぞれにまた夥しい数の細分化がなされております.このように一人しかいなかった筈のゴータマのイメージが無数に広がって多種多様な仏陀像を描かせたところに仏陀の偉大さ,そして時代を超え,場所を超えて語り継がれ,求められていく魅力が秘められているのかも知れません.

 普遍的な存在として風雪に耐えて存在し続けることができるものは,究極的には一つであるにも拘らず,このように,見る場所,見る時代,見る人によって多角的・多面的に認識されるものでなければならないようです.自然もまた,普遍的な存在でありながら,それでいて見る場所,見る時代,見る人によって多面的に把握されてきたがゆえに無限の深さを有しているのでありましょう.自然を計ること,これもまた永遠の普遍性なのかも知れません.