(雑誌「MELLW第21号」1995.8.25)

『異界につなぐマルチメディア』

山梨大学教授 伊藤 洋



 日本昔話『桃太郎』の成功の要因を一言で言えば「異界」との交流である.お爺さんとお婆さんの住む村への桃太郎の漂着が最初の「異界」との交流であったし,鬼ヶ島での戦闘の成功は,犬・猿・雉という異界に棲む獣との交流によるものであった.そして,鬼ヶ島やそこに棲む鬼たちが何といっても極めつけの「異界」であったのだから,この物語が私たちに語りかけてくるメタファーはといえば,「異界」と宜しくコミュニケーションせよということになる.

 18世紀の啓蒙時代から,「近代科学」という武器を片手に,資本主義という財布をもう一方の手に持って,私たちは近代という「異界」に挺身してきた.そして,ここを隅々まで掘り起こし,耕し尽くしてみればもはや何処を見渡しても「異界」なぞ存しない.ただひたすら連作疲れを起した病める大地が地平線まで続いているだけである.やれ,円高だ,震災だ,カルト教団のハルマゲドンだ,ビジネス社会に疲れたエリートサラリーマンのハイジャックに日米自動車部品摩擦だと,弱り目に祟り目といった椿事が次からつぎと出来する.どれを見ても「異常」ではあるが,それでいてこれらが起こっている時空間は「異界」ではない.古来遊牧の民がなしてきたようにいまやもう一度,私たちは現代というパラダイムのパオ(包)をたたんで次ぎなる草原,遥かなる「異界」に移動しなければならない.そこへの経路が,なにしおう「マルチメディア」なのである.

 ところで,烏の鳴かない日があってもマルチメディアが人の口の端に上らない日はない.それでいて,マルチメディアの何たるかがいま一つ判然としない.その理由は,マルチメディアを,文字や音声,画像を一緒にして扱う混合情報媒体などと定義するからではないか.紙芝居はこの定義に入らずとも,テレビなどは十分にあてはまる.あの騒々しいだけのテレビが次代を担うなどとどうみても考えられないから,こういう定義ではマルチメディアの時代的意義などおもいも及ばない.どうやらマルチメディアというのは,もう少し混みいったもののようである.

 筆者は,既存のパラダイムの下では起り得ないイベントが生起する(時間と3次元空間に加えてもう一つの)第5次元空間をマルチメディアだと考えている.既存の時空間では本質的に不可視のコトの世界をヴァーチャルに「実感」することのできるもうひとつの世界であり,「異界」との交流の情報ネットワーク空間こそマルチメディアではないだろうか.そうして,そういう空間は工業化社会のパラダイムには決して無かったものである.

 一つの例を上げておこう.ある日のこと,筆者の所属する大学の情報処理センターのadmin宛に一通のメールが入ってきた.みればBBCのディレクターからで,アジアの技術革新についての番組を企画しているが,躍進目覚ましいアジアの現場に相応しいようなトピックスがあったら知らせてくれという内容であった.早速,こんなのがあるがどうですかと手前味噌を書いてリターンしておいたがその後の反応は未だない.話はこれだけだが,インターネットというシステムが無ければこの某というBBCのディレクターと邂逅することなど筆者の貧困な人生では先ずありえない.そうして筆者の(いささかいい加減な)返答のおかげで,先方は極東の一人の男の存在を意識したことであったろう.だいいち,BBCという放送局の番組企画がこうまでしてなされているのかという,この国の安手のテレビ番組に辟易している筆者としては爽やかな感動をも得たのである.これに類する体験はインターネット上では枚挙にいとまがないが,これはコンピュータネットワーク(メロウ・ネットはその最たるもの)という新たな情報都市空間の発生のためにほかならない.

 ところで,このメールは残念ながら英文であった.英文とはアルファベット26文字の組み合わせで,英単語というコードを作り,それらの意味作用と範列法則を利用して単語を配列してテキストを構成し,そのテキストから受信者の脳にシンボルを想起させることによってコミュニケーションがなされるものである.最終的に受信者の脳に生じたシンボルは必ずしもこのような道筋を通らずとも形成される.コミュニケーションのありようは多様で,最終的にテキストが持つ記号作用さえ確保されていればよいのだから,英語(のような言語)によらなくてもコミュニケーションは伝えられるはずである.そうであれば,あの忌まわしい英語コンプレックスから解放されて,どんなにか幸せになれるのだがと筆者はつくづく思っている.それはともかく,既存のコードの体系から解放されて,情報のやり取りができるようになるのはそう遠いことではないであろう.あと100年もすれば,バベルの塔の建設現場で無軌道に発生した3,000とも5,000ともいわれる言語コードから人類は解放されるのではないだろうか.そうなれば,クジラやアシカとだって会話ができるかもしれない.そのときに完成しているであろう定義によれば,マルチメディアとは「コードの体系から解放された自由な象徴表現の可能な情報空間のことを指す言葉」となっているかもしれない.そうであればマルチメディアは,ラスコーの壁画・バビロニアの楔形文字・グーテンベルグの印刷術以来の大革命となるにちがいない.

 キイプ=ミュラーの実験(1959年)によれば,人間の情報処理速度は,加減算などの計算速度で30bps,読書速度で40bps,ヒアリング速度で40bps,鍵盤楽器の演奏速度ではたったの20bpsといった程度のものらしい.いまや,1台10万円台のパソコンでも1Mipsぐらいの処理速度があるから,人間の脳はこれを端末機としてみるとどうやらパソコンに比べてはるかに劣るということになる.こういうふうに元来があまり高くない処理能力だから,歳をとって耄碌したなどといって悲しむ必要はさらさらない.代替手段はいまや十分に用意されている.それよりも,マルチメディアを介して「異界」に竿差す心理的エネルギーを喪失することのほうがずっと深刻だ.そう自分に言い聞かせながら,いかにも不器用なコンピュータと,今日も私は悪戦苦闘している.


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