(『CIRCULAR』Vol.42,No.1,1991<新年号巻頭言>)

『大世紀末に想うこと』

山梨大学工学部電子情報工学科

伊 藤  洋


*『CIRCULAR』は,我が国最大の信号メーカー(株)京三製作所の技術レビュー誌です.本稿は90年代最初の新年号の巻頭言として執筆した.

 今からちょうど千年前,10世紀から11世紀へという大世紀の変わり目がありました.その頃のヨーロッパは,地球環境も今とは異なり,雨が多く,気温は低く,多湿で暗い世紀末でありました.この時代,必ずしもイエス・キリストが言い残したように清廉には生きてこなかった人々にとって既に悔い改める時間的余裕はありません.全てが手遅れとなったいま,世紀の終わりに降ろされるであろう『黙示録』の鉄槌は,如何ばかりの凄さをもって立ち現れるのか,人々は暗い恐怖の中に声もなく沈潜しておりました.
 そんな人々の不安とは裏腹に何の事もなく世紀が変わったころ,幸いにも地球は温暖化の周期に入り,それまでうっとうしくのしかかっていた不順な気候は去り,代わって明るい太陽がヨーロッパを照らし始めました.神の許しをいただいたと考えた当時の人々は神の恩寵に感謝し,自信を回復して一斉に戸外に出るようになりました.社会的活動が活発になり,遠くへ旅をするような元気も出てきて,やがて黒い森を開墾して北へ北へとヨーロッパは広がっていきました.黒い森が消えると,この中に沈澱していた不条理も消滅し,新たな生き方を人々は考えるようになりました.その後の千年は科学を興し,技術を磨き,産業を開いて,人間至上の時間を過ごして今日に至りました.
 そして,いま再び20世紀から21世紀への大世紀末.この千年間に人類がなせるだけなした増長と増慢の結果地球は荒れ果て,その後悔の想いは今私たちの身の回りに暗く重くのしかかっています.神の審判は果して有るのか,有るとすればそれはどんな罰になるのか,世界は固唾を飲んでその時を待っています.ひょっとして過去の大世紀末のように今度も再び神は許しと恩寵とを降だされるのであろうか.もしそうなら私たちはきっと過去の千年になしたような愚かな罪は犯すまい.今や手遅れとなったかも知れない罪の意識が人々を駆り立てるように小さな神様があちこちに出没しています.
 かくのごとく,こういう時代の節目には必ず暗い世紀末の気分が立ちこめますが,世紀が変わる頃には必ずや人々はまた明るい光を求めて動き出します.もとよりその行動が過去のそれと異なる価値観に支配されることは言うまでもありません.そのときの高揚した時代の気分を吸収し,表現出来る企業が次の世紀への発展性を持っています.
 世紀の変わった後の世界では,隷従に対して開放が,圧迫に対して自由が,東西に対して南北が,能率性に対してゆとりが,経済性に対して安全性が,自然支配に対して環境保護が,競争に対して共存が上位の鍵概念となることでしょう.わが国の鉄道事業は疾風怒涛の20世紀をひたぶるに生きてきた歴史と経験を持っています.しかしその経験は「輸送力増強」という物理的次元のテーマによく応えることを専らとしてきたものでありました.こういう次元の課題が優れて20世紀をよく表現してはいたのですが,次の世紀はそこから改変した「日本を休もう」という課題になることでしょう.
 「輸送力増強」によく応え得た鉄道事業者にとって,過去への郷愁は捨て難く存在することでありましょう.しかし,過去によく応え得た企業であればこそ次の時代の課題にも応える力を有してもいるのです.大世紀の変わり目の1990年代が次なる希望と確信への着実な歩みとなるよう願ってやみません.