山梨工業会誌99年巻頭言

山梨工業会員のみな様へ

工学部長・山梨工業会会長 伊藤洋


 マックス・ウェーバーは,歴史的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において,ヨーロッパで初期の近代資本主義が発展したのはルターの宗教改革を受け入れた地域に限られていたと述べています.分けても過激なカルバン主義を奉じた地域において特に顕著であったとも強調しています.カルバンは,人は生まれてきたもの全てが神によって受容されているのではなく,したがって死が訪れたとき全ての人が天国に召されるのではないと説きます.神は『創世記』にあるように1週間で天地を創造しましたが,その仕事にはわざと不完全さを残しておいたというのです.天地創造の仕事の完成は,後世において特別な印を持った人間にだけゆだねられたのですが,その印を持っている人だけが死後天国に召還されるのだというのです.その印は誰にも目には見えませんが,これをつけている人には一定の特徴があるとも言います.それは無駄口をたたかず,決して浪費をせず,私欲のために他人を欺かず,能も無いのに人の上に立ちたがらず,ただ黙々と仕事をする人です.彼が行うこの仕事こそ神から与えられた『天職(Beruf)』であり,創世記における神の技の不完全さを正す聖職であるというわけです.
 こうして黙々と働く労働価値観と禁欲性が合致しますと,当然のことながらお金が溜まります.たまったお金は,神の仕事ベルーフをもっと能率的に進める努力に投資されなければなりません.仕事の改善・改良,新技術の導入もまた印をつけた神の子の義務でありましたから.もし自分に労働の能率を上げるのに必要な才覚が無いならば,蓄えられたお金をそういう才のある人の仕事=事業に投資してあげなくてはいけません.すなわち,投資はもとより投機ではなく,神の仕事の円滑な遂行という神聖な行為に他なりません.こうして,それまで不浄の象徴であった金銭は,カルバンの教えによって神聖な対象へと180度の変更がなされることになりました.(イタリアやスペイン,南米各地などカソリックを奉じていた地域やセルビア正教,ロシア正教など東方のギリシャ正教を奉じる地域では金銭は相変わらず不浄でその浄化のためには寺院への寄進や免罪符の購入に蕩尽・消費され,金融資本市場はついに最近まで形成されませんでした.)
 このように,ウェーバーによれば,前期近代資本主義は無口で禁欲的で無愛想なプロテスタントによって創造された「神聖」な社会システムであったのですが,やがて金持ち=よき神の子というたてまえだけの図式となるにつれて,手段を選ばない成金趣味との差異が消失していきました.そして私達が現在見る,強欲資本主義,金融派生商品=デリバティブやスペキュレーションのバブル経済=後期近代資本主義の世界へとつながっていきました.
 ところでわが国にはプロテスタンティズムと言われるようなものは存在しませんでしたが,それなのに近代資本主義が受容されました.そしてあろうことかバブル経済にまで到達したのですから,ウェーバーの説は必要十分な説とは言えないことになります.そこでウェーバーを信奉する司馬遼太郎などは宗教に起源を求め,儒教こそマックスウェーバーの言うプロテスタンティズムと同種のものであったと述べています.しかし,これはあまりにも牽強付会の説と言わざるを得ません.
 明治になってこの国が欧米に伍して近代資本主義を受け入れたのには,ヨーロッパのプロテスタンティズムの禁欲性とは異なるエトスがあったからでした.これについて筆者は中山間地における中農の一所懸命にその起源を求めます.中山間地には大河がなく,そのために米作が不可能でした.モンスーン圏のアジア一円においてそうであるように大河の扇状地では豊かな米作が可能で,それゆえ人口を多く抱えることができました.しかし,ここには定期的にやってくる洪水の被害もあって,土地を失った人々は小作農に転落する危険を何時も背中合わせに抱えていました.洪水は,貧困な大量の小作農を作りだし,ごく少数の大地主を富ませます.大地主は明日の生活が困らないゆえに生活を改善する必要がなく,小作農はぎりぎりの生活で明日への希望はなく,米作主体の平野部は,タイ語でいう<マイペンライ>の横溢する千年王国でありました.
 これに対して,中山間地では洪水によって土地を失うことがあまりないために地主制度が発達しませんでした.どんぐりの背比べの自作農が狭い傾斜地を耕し,狭いながらも自分の土地ですから,そこを「一所懸命」の拠り所にして,多少の工夫を加えて農業技術を改善しながら営々として生きてきました.そこには少なからず進歩の思想も育まれていたに違いありません.そこへ明治近代がやってきたとき,生まれたばかりの技術職など中間管理的職業に就いたのが中農の次三男坊達でありました.彼らは郷里の先祖の持っていた農地=一所へのエトス=「一所懸命」を,時間へのエトス「一生懸命」に置き換えながら,近代的職業に従事し,それが近代のパラダイム=資本主義を底辺から支えたのではなかったのでしょうか.
 我が山梨大学工学部の前身,山梨高等工業や山梨工専,そして工学部となってからも高度経済成長期までの学生達にはまぎれも無くこの「一生懸命」のエトスが息づいていたのを,私は教官として共有してきた記憶を持っています.しかし,世界第2位の経済大国ともてはやされ,アズ ナンバーワンと自讃してバブル経済に突入していった頃から状況が一変します.「一生懸命」はダサイ精神となり,職業意識は希薄化し,人生に如何なる目的を持っているのか不明な若者がキャンパスを埋めるようになりました.「豊かさの精神病理」がこの国の若者を蝕み始めていたのです.
 加えていま大学は,少子化と行財政改革の荒波に翻弄されています.「存続か廃止か」が叫ばれた50年前の歴史の再来です.その「国敗れて山河有り」の50年前とはベクトルの180度異なった方向からの難問の解決が迫られているのです.日本の国立大学が過去に体験したことの無い初めての一大椿事です.
 もはや,金銭的ゆたかさ世界第2位,国富1,200兆円という時代におけるこの問題解決は,「一生懸命」のエトスでは言うべくして何の役にも立ちません.ここは,新しいパラダイムの創造なのであって,埃を払って過去の建学のパラダイムを引き出してみてもアナクロニズムに陥るしかありません.言ってみれば,死と再生の時がついに到来したのです.だから,新生山梨大学工学部を「創立」するぐらいの平成の大改革が必要です.すでに徒に空費され,残された時間は私の手元には僅かしかありません.
 成るか成らないか,結果は旬日を経ずして判明しますが,私はこの高波を避けることなく,266名の学部教職員,3,000名の学生達と共に一丸となって未来へ向かって進んでいきたいと考えています.23,000人の会員の皆さんのご支援を心から望む所以です.