技術革新時代を生きる

山梨大学  伊藤   洋


一.変化と変則性

 カードゲームの話から始めましょう。いま大勢の人々を一堂に集めて、トランプカードを彼らにちらっと見せ、そのカードの種類と数を当ててもらうというゲームを致します。まことに単純ですから、参加者はすらすらと正解を紙に書いていきます。ある程度ゲームが進行してきたころになったら、カードの中に黒い色のハートの8とか、赤い色のスペードの3というようなカードを入れておきます。本来赤いスペードや黒いハートなどはトランプにはありませんが、解答者はそれには気が付かずに、ハートの8とか、スペードの3などと答えて平気でいます。そこで、このような偽のカードを提示する頻度を徐々に増やしていきますと、最初は極く小数の人だけが異常に気づくのですが、やがて多くの人々がトリックに気が付くようになります。

 ところが、ここに何が起こっているのか、トリックの意味がどうしても判断出来ない一群の人々がいます。ゲームの途中から現れ始めた偽のカードに何か変だぞ、とは思うのですが、この変則性の意味が理解出来ません。偽カードの頻度が高くなるにつれて混乱し始め、やがて混乱が極致に達すると、ゲームを投げ出し、怒って席を立ってしまうというような事態に発展したり致します。以上は心理学者ブルーナーとポストマンの心理実験として夙に有名なものです。

 のっけから妙な心理実験の話などを持ち出しましたのは、世の中に出現し始めた変化あるいは変則性に対する人間の反応として、これが大変象徴的な意味を持っていると、私には思えるからなのです。経済が高度成長から安定成長と呼ばれる時代相に入ってくるにつれて、私達の身辺には予期せざる質的な変化、あるいは敢えて変則性と言ってもよいようなものが現れてきました。

 これが単に急激な変化という意味でなら、私達日本人にとっては一九三〇年代以降ずうっと激しい変化の時代の中にいたのですから、とりたてて現代だけを変化の時代だと言う必要は毛頭ありません。謂わば私達は変化には慣れっこになっているのです。それなのに現代の変化は、第二次世界大戦の敗戦の混乱を除けば、第一等の質的変化の時代だと言ってもよいでしょう。

変化と一言で呼びますが、変化には言うまでもなく色々な仕方があります。わけても、その変化の特徴、それを起こさせている原因や機構が不明であると、変化の意味や意義を理解出来なくなって、世の中で生起する事態を変則性として認識されやすいということができます。そして、上の心理実験で怒って退席してしまった一群の人々のように、その変則性に私達は戸惑い、次代のとば口にあって逡巡しがちになるのです。その結果、生きることに意義が見い出せなくなったり、精神的苦痛を味わったりします。よく言われるテクノストレスです。

 


二.変化の諸相

 現代の変化の主要な特徴は何と言っても、量的な変化ではなく、これが質的変化であるということをまず掲げておこうと思います。もちろん具体的な統計指標などで見ますと、それがそもそも数量だけでしか表現されていないのですから、変化は量的にしか見えません。そのために私達はこれを単純な量の変化とみなしてしまいがちです。量的変化と質的変化の違いを具体的に考えてみましょう。

 一九七〇年代に入りますと、次代を表現する言葉が次つぎと提案されるようになりました。その中の一つに情報化社会というのがあり、これは現代では多くの人々に受け入れられ、最早定着したと言ってよいでしょう。ところがこの言葉を曲解して、情報化社会というのは、それ以前には鉄鋼や石油化学製品、自動車や電機がよく売れたのに対して、以後は電話機やファクシミリ、コンピュータやOA機器が多く作られ、よく売れる時代だというように解釈されている面が多分にあります。事実、そのような実態が無いわけではありません。しかしそうではなく、こと情報化社会という時代表現の中には、それ以前の高度に工業化された社会とは異質の概念があって、その質の違いを知悉しておかないと、時代相を見誤ることになりかねません。

たとえば、情報化社会であればコンピュータや複合通信網(ISDN)が完備してくるのは論をまちませんが、高度成長時代に工業製品なら何でも作れば売れた体験を外挿して、現代は情報機器なら何でも売れるというように早合点するのが間違っています。つまり、情報化社会では情報処理や通信ネットワークが社会のインフラストラクチャーになっていきますが、情報化社会へと変転していくのは、次節に見るように工業化社会の持っているネガティブな面を改善または代替していかざるを得ないという事実のしからしむところに原因があったのでした。このように、情報化社会でも、必ずしも情報機器が飛ぶように売れるのではないという事実に直面したとき、この変化は単純な変化ではなく、ここに変則性が含まれていることを、私達は発見することになります。つまり、量や製品種の単純な変化や相違ではなく、社会基盤の転換が起こっているのだということが出来ましょう。


三.変則性の意義

 お酒醸造のたとえ話から見ていきましょう。酒は麦、米、ぶどう、芋などの原料から造られます。収穫された原料を擂り潰してこれに酵母を添加して、適切な雰囲気を整えておけばワインなどでは約二週間ほどで発酵します。発酵とは酵母が糖を分解してアルコールを造ること、つまり糖を摂取して、お酒を排出しながら、酵母自身のコピーを作っていくことと言ってもよいでしょう。このとき糖度の低い原料から醸造しますと、酵母は糖分を分解・消費しながら増殖していきますが、やがて糖分を全部分解してしまうと、その時点で発酵は停止してしまいます。つまり、酵母にとって食糧・資源が枯渇することによって生存が不可能になってしまったのです。このようにして出来上がったお酒は辛口の、アルコール分の少ないものになります。

 これに反して、糖度の高い原料を用いて醸造しますと、資源が豊富ですから酵母は大量に増殖していきます。そして高い濃度のアルコールを排出していくことになりますが、アルコール分が十余%に達してきますと、酵母は自らの産したアルコールによって殺されてしまい、発酵は停止することになります。これは、つまり消費した資源のエントロピーの捨て場が無いための環境汚染による死滅を意味しています。この結果、資源である糖を残したままの甘口で、アルコール分の高いお酒が出来上がります。

 この話は私達を取り巻く社会の現状と将来をよく示唆しております。すなわち、第一に工業化社会を維持していくには、資源やエネルギーが十分に用意されていなければならないこと。ところが第二に、資源・エネルギーがいかに潤沢に有ろうとも、それの捨て場なり、捨てる手段・方法なりが確保されていなければ、このタイプの社会は生命を維持することが不可能だ、ということです。しかもこの二つの事実は同時に解決されていなければならない問題なのです。

 資源・エネルギーと経済・技術社会とは、常にこれら摂取と放棄の両機構によって成り立つものであって、捨てられるが捨てるべき資源の無い状態や、資源はあっても捨てると大変な事態になるよう状態は、何れもこの型の社会の存立基盤を形成し得ないと言わなければならないのです。

 そして、石油危機や公害問題は実はこれら二つの問題の典型的な現れだったのだということが言えるのです。つまり、高度工業国の進歩・発展を量的に維持することは、少なくとも資源・エネルギーと廃棄物の量的拡大を伴う形では、現代において既に究極的な状態に達しており、これ以上ノルこともソルことも出来なくなっているのです。

 そこで提示された時代表現こそ、脱工業化社会であり、情報化社会であったのだと考えられます。それゆえ、情報化社会という概念規定は量的変化ではなく、質的変化であったのです。そしてとりわけ生産について現れた現象として、多種少量生産とか先端技術商品化といったかたちを取り始めていったのです。その結果生産現場では、これらの変化に対応するために、ロボット、FMS、CAD等々の導入となっていきましたし、オフィスではコンピュータ、OA機器、通信端末機等々の導入へと動いてきました。また金融や流通業では、要求されるサービスの高度化による生産性の低下をカバーするために、情報化による解決とサービスの高度化の両面作戦が展開されるようになりました。それが他方、VANや宅配便、無店舗販売への変化を作動させてもいるのです。

以上のような一連の変化・変則性は、元を正せば上述のお酒の醸造のたとえに帰結する問題への解答として出現してきたものでありました。そうであるなら、これは必然的変化であったと言わなければなりますまい。そこでこれらにどう対応していくべきであるか次節で考えてみたいと思います。


四.何が本質か

 世の中に現れた当初には、とてつもない高額であったワードプロセッサや電卓、パソコンなどは今では大層値段も安くなり、それにひきかえ性能は年々歳々高まってきました。ワードプロセッサは言うまでもなく文章を書く道具です。電卓は四則演算や関数値の計算のための道具であり、またコンピュータは自動計算や制御、作図、ゲームなどのツールです。

 ところで私達の誰もが、小学校や中学校時代、国語の時間に漢字の書き取りテストを受験したことを記憶しています。その成果が、通知表の評価として随分重きをなしていたようです。その結果、国語の勉強の中では、漢字を書く能力を養うことや上手に字を書くことなどが大きなウェイトを占めているのだと、子供達は思っていました。しかしよく考えてみますと、国語の勉強の目的は、文章を深く読んで正しく理解すること、正確な、場合によっては読者を感動に導く文章を表現する訓練、というようなことが本質的なもののようです。ワードプロセッサが容易に手に入るような時代には、漢字が正しく綴れるとか、きれいに書けるなどということは、謂わば機械でも出来る単純なことに過ぎないと言えましょう。

 算数の学習についても同様のことがあります。小中学校の算数・数学嫌いの始まりは、あの退屈な数値計算です。四則演算や開平、公約数や公倍数等々の計算、一度間違えば成績は低く評価されてしまいます。ところが電卓を使えば短時間に正確に計算出来ます。しかしなぜか今でも子供達は、学校であの苛酷な試練を受けています。数学の面白味は問題解決手段の発見、つまりアルゴリズムの探索だと私は思っていますし、事実数学を使って仕事をしていくときには、それが出来ればもう目的を達したも同然、後の問題は機械、つまり電卓やコンピュータに一任しておけばよいのです。数値計算が正しく筆算で出来るということは、ジャングルの中や奥山でならいざ知らず、現代生活の中では大いに誇るべき能力では最早ありえなくなっているようです。

 こう言ったからといって漢字が書けなくてもよいとか、字が下手でもよい、計算が出来なくてもよいなどと乱暴な主張をしているのではありません。ただそういう能力は、もともと能力の本質的部分ではなかったのですが、こと学校ではあたかもこれが全てであると言わんばかりの教育評価がなされてきたことが問題だと考えています。要するに機械でも出来るようなことは機械にやらせる.人間は人間的な創造的な問題にだけこだわり続けたいと、私は思っています。

 以上つづめて言えば、私達の仕事や生き方が、枝葉末節にではなく、人間的で創造的な営みに情熱や情念を捧げることが出来るような、そういう環境がいま整いつつあるということです。そして、そのような人々のライフスタイルに合致した技術や商品は、情報化社会の中でも歓迎され続けることでしょう。また、先端技術は難しいものだといって手をこまねいていてはなりません。これの本来の目的は、過酷な環境と自然への適応を意図した人類の挑戦だったのですから。

おわりに執筆の機会を与えられた、甲府市経済商工課三井勝彦工業係長に感謝します。


 


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