『甲斐ヶ嶺第28号』(1995.12.20)

マルチメディアの時代的意味

山梨大学教授  伊藤 洋


 

構造崩壊の時代
情報化をドライブするテクノロジー
異界へつなぐマルチメディア

構造崩壊の時代

 政治,経済,社会……何もかもが判で押したように崩壊の時代を迎えています.その最たるものが政治です.

 戦後世界政治の枠組み「東西冷戦」は,究極のところヤルタ協定に起源を発します.そのヤルタのパラダイムに引導を渡したのがマルタでした.マルタから始まった東西冷戦の崩壊の影響はあたかも僻遠の地に起こった津波のようにやがて世界を一巡して極東のこの島国にも到着しました.その津波によって,「五五年体勢」と呼ばれる自社対立の政治構造があっという間に崩壊してしまいました.自民党一党支配と保革対立は,それこそヤルタの申し子であったことがよく分かります.

 こうして東西冷戦という大状況を失ってみると,自社に争うべき問題はありません.「昨日の敵は今日の友」とばかりに連立政権を組んで平然としています.それを攻撃する野党といえども所詮ヤルタ体勢の申し子なのですから,連立政権を揶揄する言葉にイマイチ張りがありません.

 いまや,政治は大状況から自動的に誘導されるのではなく,テンポラリーに発生するシングルイッシューポリティックスの時代に入りました.政治家は,その都度そのつど問題テーマ別に離合集散しながら最適な解を求めることしかないのですが,本当の意味で政策について争論した経験の無い日本の政治家にとってこれは実に不向きです.かくて羅針盤を失った政治はダッチロールを始めてしまいました.そんな政治家に愛想を尽かした国民は,いまや「無党派」を決め込んで投票所に足を向けさえしません.この期に及んでも未だ政党を作ろうなどといっている人達がいるようですが,何を党是にしようというのでしょうか.

 二流の政治が崩壊するのは当然といえば当然ですが,一流のはずであった日本経済もいまや目を覆うばかりの惨状です.不良債権数十兆円(大蔵省の公式発表でも十五兆円.九五年七月一四日,銀行局長談話)と噂され,バブルのツケは決して少なくないようです.まことに「宴の後」の空疎感が列島の巷を覆っています.

 世界が五〇年間東西対立に緊張している間隙をぬって,この国はフルセット産業国家を形成し,ネジ一本,座金一枚まで何もかも国産品でまかなってきました.そのために二重構造という,一握りの親企業と膨大な数の下請企業群をあたかも親族関係のように組織して,ジャストインタイムの一国経済構造を作り上げました.これが日本型経営の真髄です.

 日本型経営の特徴は,その組織の閉鎖性・鎖国性にありました.系列という名の企業群が小文字で書いた鎖国組織であるとすれば,この国全体がフルセット産業国家という大文字で書いた鎖国国家でありました.水も漏らさぬ系列組織は,ドルの流入になすすべもなく,これを貯め込んで発泡することによって円高とバブルという大きな穴を開けてしまいました.結果,国内空洞化とバブル経済の崩壊というフルセット産業国家の終焉をもたらしてしまいました.

 フルセット産業国家崩壊の市民生活への影響は甚大です.低金利が年金生活者を直撃し,リストラという退職勧奨が中高年の失業を招来し,採用停止が若い人達の就業機会を奪っています.NTTの株の公開に列を作ったのはつい昨日のことのような気がしますが,いまやハローワークスの窓口に行列ができる始末です.

 こういう戦後最大のパラダイムシフト,これが工業化社会から情報化社会への転換なのですが,なかなかその中身が見えません.本稿では,情報化社会の心臓部付近にファイバスコープを差し込んで,文字どおり「葦の髄から天を覗く」ようにその仕組みを検証して見ようと思います.
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情報化をドライブするテクノロジー

マイクロプロセッサの発達

 堅城は,必ずしもライバルによって滅ぼされるとばかりは限りません.難攻不落の城も多くの場合蟻の一穴によって破滅します.工業化社会という堅城が滅びたのは,その社会が作り出した蟻,MPU(マイクロプロセッサユニット)という小さなチップのためです.マイクロコンピュータとかワンチップCPUとか呼ばれる六ミリ角のちっぽけなMPUこそ,工業化社会に穴を開け,情報化社会へのトンネルを開けた蟻に他なりません.

 パーソナルコンピュータ(PC)の心臓部である中央制御装置(Central Processing Unit)の速度と規模をインテル社の80シリーズを例にとって表一に示します.

表1  米国Intel社80シリーズの性能の推移


 Intel社のマイクロプロセッサの歴史には少なからぬ興味ある前史もあるのですが,紙幅の関係でそれは省略します.

 上の表で,クロック周波数とはコンピュータの演算命令をプログラムに沿って次々と実行していく時のテンポの早さを表し,MIPS(Million Instructions Per Second)値とは一秒間に百万回の命令を処理する能力を表します.またトランジスタ数は,CPUを構成している電子回路の規模を表しています.一九七八年発売当時一秒間に四〇万命令の処理能力しかなかったCPUが,現在では一億一千二〇〇万回を処理できる能力に上昇しています.こういう能力は十年前の大型コンピュータの性能でした.

 業界を二分してIntel社の最大の競争相手であるMotorola社のCPUなどもこれとほぼ同一の変化を遂げています.過去二〇年間にMPUの性能は実に五百倍に向上したのです.

 この発達著しいMPUはコンピュータだけでなく家電製品,精密機器,科学計測機器,ロボット,工作機械等々に取り入れられ,そのことが技術トランスファーを容易にし,途上国に技術移転をもたらしました.それがブーメランとなって国内空洞化を促進し,日本国内のパラダイムシフトを迫っているのです.

ソフトウェアの場合

 ハードウェアとしてのCPUのこのような性能の向上は,コンピュータのソフトウェアにも発達を促します.

 米国のマイクロソフト社の創業者ビル・ゲーツがBASICインタープリターを売り出して,初めて実用的パーソナルコンピュータが市場に紹介された一九七五年当時にはまだPCにはOSというものは搭載されていませんでした.

 OS(Operating System)とは,コンピュータの基本ソフトウェアのことです.そもそもコンピュータシステムは電子回路とそれによって動作するメモリーや印刷機,フロッピーディスクのような周辺装置からできています.これらを動作させるためには,それらの装置類に対して電気的な信号を出してやる必要があります.この信号を制御するコード(符号)を機械語といいます.機械語は単純なコードの羅列ですが,それでいて人間には決して覚え易いものではありません.まして,改良の度に細かな制御機能が追加されますから段々複雑になってしまいます.人間には,自分が普段使う言葉に似た言語らしいもの(人工言語)を使えると思考が容易になります.そこで,コンピュータシステムを使うのに人間と機械の間を取り持って,表向き人間の使っている言葉の「ようなもの」によってコンピュータシステムを動かせるようにする,いわば機械語と人間語の間の通訳の役割をしているソフトウェアがOSです.

 こうしてOSが確立されますと,コンピュータを利用する人は,周辺装置の具体的な中身の動作機構を知らなくても,OSの命令「言語」を使って操作可能になります.OSができあがることによって,機械と人間の間の距離感は縮まります.

 それでも,OSを勉強してコンピュータを動かすというのは専門技術者でもない限りなかなか難しいものです.たとえば,ワードプロセッサを例にとりますと,キーボードから文字を入力し,それをディスプレイに写し出すこと,あるいはそれを修正したり削除したり,結果を印刷したり,あるいはそれらをファイルに格納したりする機能はOSが持っています.それらの機能を場合ばあいに応じて利用すればよいのですが,そのためにはOSについて専門的に勉強しなくてはなりません.ワードプロセッサは文章をつくるという限定された世界の作業をするためのものですから,利用者の思考はそこに集中します.また,文章を作って印刷をするについては挿絵を入れたり,フォントを変えたり,読み易く美しい文書にしたいと思ったりしますから,結構細々した要求が出てきます.そこでOSのうちそういう操作に向くものを集めて,ワードプロセッサとして利用者に分かり易いものにしておくと使い勝手がよくなります.こういう一段階次元の高いソフトウェアをアプリケーションソフトウェアといいます.だから,OSとは,アプリケーションと機械との間を取り持つソフトウェアであるということができます.

 説明が長くなってしまいました.OSという考え方は,IBM社によって大型コンピュータの世界で確立されたものですが,PCにOSを搭載するようにしたのもIBM社が最初です.IBM社のPCに初めて搭載されたOSがPC−DOS(ドスと発音されDisk Operating Systemの略)です.その名のとおり,フロッピーディスクを操作するためのOSとして確立されたものでした.このDOSをIBM社に売ったのがマイクロソフト社の創業者ビル・ゲーツその人です.彼は,一九八一年IBM社にこれを売りましたが,同時にMS−DOSとして自社の名前を冠して広く世界に向けて同じものを売り出しました.MSーDOSには,IBMという権威が背景にありましたから爆発的に売れるところとなりました.わが国でこれを逸早く購入して自社のPCのOSとして搭載したのが日本電気鰍ナす.一九八二年に発売されたPC-9801は,わが国で始めてDOSを搭載したPCでした.

 DOSはこうしてよく売れましたから,世界の事実上の標準的PC用OSとしての地位を確立するところとなりました.こういうものをデファクトスタンダードということがあります.

 一九八四年,米国のアップル社はマッキントッシュというマルチウインドウPCを売り出しました.これには,DOSとは全く異なるアップル社独自の画期的なMac−OSを搭載しておりました.そして,それまでのPCがいかにも電子計算機風であったものを,アイコンという小さな絵をマウスという装置でクリックするとソフトが直ちに走り出す,しかも通信機能やグラフィックス機能を満載していましたから大変な人気を勝ち得ました.コンピュータを操作するのにアイコンを提示して視覚的に分かり易くするという手法は,それこそ古代バビロニア文明遺跡などに見られるようにある意味で文字やテキストという構造からの離脱につながります.使う言葉の相違を越えて誰にでも分かるという感覚的親和性が極めて高いのが特徴です.こういう手法をグラフィカルユーザーズインターフェース(GUI)と言いますが,マッキントッシュの成功は,このGUIという人間と機械をつなぐ親和性を向上させたという意味で特筆すべきものです.アップル社は,一九八六年にはハイパーカードと呼ばれるハイパーテキストソフトを発売し,これがマルチメディアへの桟を提供するところとなりました.

 マックの成功は,普及率において格段の高さを誇っていたDOSへ痛烈な刺激を与えました.一九九〇年,マイクロソフト社はマックや後述のワークステーション(WS)が使っていたウィンドウという手法をDOSに取り入れます.コンピュータディスプレイの画面に窓を切って分割し,作業に必要なファイルの全てを表示させ,ファイルからファイルへはマウスをクリックするだけで飛び移ることができるようにしたものです.その最初の製品がWindows 3.0や3.1です.いかにも,画面上に沢山のファイルが表示されていますが,実際に動いているのはアクティブウインドウ一つであって他のものはただ表示されているだけです.こういうのをシングルタスクといいます.ついで,一九九四年にはこれにLAN(後述)用のネットワークOSを搭載したWindows NTを発売,早くも一九九五年九月にはWindows 95を発売してとうとうDOSやシングルタスクと決別して,インターネットへも接続できるOSを発表して大きな飛躍を成し遂げました.DOSは,メモリーが宝石のように高価な部品であった時代に,メモリーを多用しないで情報処理をするという先進的技術でしたが,メモリーの価格がすっかり安くなってしまった現在,ソフト資産の継承性以外に存在価値が希薄になっていたのです.

オープン化というコンセプト

 この間,PCのOSとは別にプロの世界を中心にしてUNIX(ユニックス)というOSが並行して発展してきました.一九七四年米国AT&T社のK.トンプソンらは一台のコンピュータを大勢のユーザーが同時に別々の仕事をすることのできるマルチタスクコンピュータOSを開発しました.これがUNIXです.

 AT&T社は米国最大の電気通信業者ですが,通信業者ですからコンピュータを作ることは法律の規制で許されません.したがって,開発したUNIXは他人の作ったコンピュータに搭載するしかありませんでした.しかし,OSの中身(ソースコード)を知らないとメーカーとしてはこれを扱うことができませんから,AT&T社はUNIXを必要な人に差別なく低料金で提供するという方針を決定しました.OSを他者に公開するということはそれまでの歴史にはないことでした.(IBM社をはじめメインフレームメーカーは独自のOSを持っていて社の最高機密としました.IBMのOSを写し取ったとしてFBIに逮捕された日本のコンピュータメーカー二社の産業スパイ事件は記憶に新しいところです.)この公開によって,カリフォルニア大学バークレー校などでもUNIXの改良に着手し,また,ベンチャー系のコンピュータメーカー(たとえばサンマイクロ社など)がUNIXをワークステーションの標準OSに採用しました.こうしてその優秀性もありましたが,むしろオープン性のためにUNIXはたちまちデファクトスタンダードの座を獲得しました.

 UNIXのオープン性はこれだけにとどまりません.ユーザーやベンダーから改善の提案があればそれを公開の下に採りいれて,その結果を発表するという徹底したものでした.情報の公開と公益性と改善・改良をシステム化したのです.こういうところはいかにもアメリカ的です.これがUNIXの成功の原動力ですが,そのためにOSの非公開性を原則としていたメインフレームメーカーが窮地に立たされました.いわゆるダウンサイジングの波が発生したのです.この波は瞬く間に世界を席捲し,分散処理システムを作り出し,これが後述のインターネットへの橋渡しをすることになります.

 UNIXはオープンシステムですから,誰でも中身を知ることができます.泥棒や犯罪を目論むものにも差別なく公開されています.ということは情報システムの中に,セキュリティ上の脆弱性が原理としてビルトインされていることを意味します.そのことが,ネットワーク社会における倫理(ネットワークエチケット=ネチケットという=「他人の情報を撹乱しないこと」・「自分の情報は自分で守ること」・「人に見られて困るような悪意の情報を流さないこと」)を要求する根拠になっています.インターネット社会は,民主的なディスクロージャと高い倫理性を要求している社会組織なのです.

ネットワークのひろがり

 こうしてオープン化・ダウンサイジング化・分散化という波は大きなうねりとなって世界に広がっていきました.大型コンピュータを中心にした集中型の情報システムを作るのではなく,業務別に分散した専用のコンピュータをネットワークにつないでマルチタスクで仕事をするLAN(Local Area Network)というシステムが構築されるようになりました.分散化された小さいコンピュータシステムが多数集まって大きな仕事をする,分散しているために故障や改善の経費が安くすむ,ネットワークの広がりが簡単に実現できる等々,激しい技術革新に悩まされていたユーザーにこの波は絶大な支持を得ました.

 LANのプロトコル(通信規約)は,世界的に標準化がなされていましたから,ローカルな一組織が構築したネットワークであっても,全く別の組織のローカルネットワークとの間で接続が可能になります.こうして,ネットワーク間を結ぶ「ネットワークのネットワーク」が提唱されるようになりました.これがインターネットです.

インターネット

 いまや,インターネットについての話題が新聞やテレビに登場しない日はないほどインターネットは時代の寵児です.学校では児童生徒がインターネットを使って外国のデータベースを引きながら勉強しています.研究者は,ニュースという形で自分の研究成果を勝手に発表しています.学会はこれを使って投稿原稿を受け付けたり,論文誌を配信したりしています.それらの成果をあさって歩いて,HIV遺伝子の進化の歴史を集大成するという離れ業をやってのけた学者がいます.仏国の核実験の反対署名をカナダの理論物理学者がインターネットで呼び掛け,ネットワーク上で何万と集まった署名がシラク大統領に届けられます.阪神大震災の安否情報が世界中に飛び交っています.何時の間にかインターネット上でちゃっかり商売を始めて大請している企業があります.ネットワークを結んで他国の企業との間で受発注をし,勝手に企業グループを構成してあたかも大企業のような規模と組織を誇っているバーチャルカンパニーがどんどんでき上がっています.インターネットでの電子新聞は数百に及び,その求人広告欄で求職活動をする学生が増えています.世界一五二ヶ国に広がる広大な情報ネットワークの海とその社会的影響力は驚異以外のなにものでもありません.

 ところで,インターネットとはLANとLANとを結んで異なるLANに属する人々の間でコンピュータ通信をすることを指していう言葉です.だからLAN間接続といいます.LAN間接続をするためには,それぞれのLANの管理者が相談をして両者を繋ぐためのプロトコルを取り決めれば接続できます.これが普通名詞としてのインターネットです.しかし,そういうやり方をしていたのでは,話し合いのついたところとだけしか接続できません.そこで,プロトコルを一元化して世界中でそれを使うようにしたら,相互に話し合わなくても不特定多数のLANとの間で接続ができます.そこで,TCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol) というプロトコル群を定めてLAN間接続を可能にしたのが,今話題の固有名詞としてのインターネットです.

 それでは,インターネットでは何ができるのでしょうか.

 まず,最も有名なのが電子メールです.インターネットに接続しているLANの構成員であれば,そのLANの責任者から接続許可(アカウントといいます)をもらいます.そのときにEメールアドレスとIDであるパスワードというものが発行されます.筆者のEメールアドレスは,「itoyo@apricot.ese.yamanashi.ac.jp」です.これは,後ろの方から読んで,日本「japan」の学術分野「academic」(国公私立大学や国公立研究機関を意味でac.です.民間企業などでは,companyの意味でco.,政府機関等ではgovernmentの意味でgo.,ネットワークプロバイダではorganizationの意でor.などと付けられます.)である山梨大学「yamanashi.」のLANに属していることを意味します.ここまでは,公的に認証されているもので勝手に名付けることは許されません.その次の「ese.」は山梨大学工学部電子情報工学科というサブネットワークです.山梨大学ではこういうサブネットワークが三五程あり,およそ千台ほどのコンピュータが接続されています.「apricot.」はそのサブネットワークに接続された更に下級のサブサブネットワークで大概一つの建物またはフロアのユーザー端末を束ねたものになっています.こういうところにはコンピュータ(多くはワークステーション)がサーバーとしてあって,メールを一時保管してくれたり,グループがよく使うデータベースが搭載されたりしています.そういう構成をクライアント/サーバーシステム(CSS)などといいます.「apricot」は,そのサーバーの愛称で,配下のユーザーが相談して命名しました.@を境にしてその前にあるのは個人名で,ネットワーク管理者の了解の下に本名でも屋号でもペンネームでも,その人の直属するネットワークの中に重複さえなければ原則として好きな名前をつけてよいことになっています.

 さて,こうしてメールアドレスが与えられれば,世界中の誰にでもメールを発信することが可能になります.発信されたメールは,インターネット内にあるノード(情報センター)のルータというコンピュータが宛て名に従ってバケツリレー式にメールの本文を転送し,相手先のサーバーまで送ってくれます.メールの発信者は,どういう経路でメールを送るかなどということは分からなくても構いません.第一そんなことは分かりもしません.インターネットは世界中で間断なくノードが増設されているのですから,その状況を知っている人は神ならぬ身の誰も知らないのです.誰も知らないのにどうしてメールが正しく世界中に送信されるのでしょうか.じつは,何処にノードが増設されたかという情報をノードのルータ同士が一定時間おきに教え合っているのです.そのコンピュータ間の噂話が何時の間にか周辺全体に広がって,その存在が認知される仕組みになっています.

 時々刻々増加していくインターネットの現在を熟知しているのはネットワークを監理している(つもりの)人間ではなくてルータと呼ばれるコンピュータなのですから,ことこういう知識に関してはコンピュータこそ全知全能だと言ってよいでしょう.

 インターネットは,現在およそ一五二ヶ国七千万人の人が参加していると推定される世界で一番大きなネットワークです.しかも,毎月百万人が新たに参入していると言われ,米国の調査会社データクウェスト社の推計では,二〇〇一年には五〇億人がこのネットワークに入ってくるであろうと少々乱暴な結論を出しています.五〇億人と言えば地球の総人口なのですから,地球市民全員が一つのネットワークで結ばれるということになります.

 こういう推計の当否は別にしても,今の増加率を外挿すれば驚異的な数の人々がこのネットワークに参入してくるであろうことは確かです.そして,このようにネットワークで結ばれた一大組織,それを都市や国家と見れば人類の歴史に存在しないサイバーな一大都市であり,一大国家です.それが,既存の国家や地域を越えて通信プロトコルTCP/IPを介するだけでシームレスにつながりあっています.理屈抜きに国際化,ボーダレス化が進んでいくことがよく理解できます.こういうなしくずしの情報化・地球市民化のなかで一体国家は,わけても鎖国国家日本は,今後何を拠り所としていけばよいのでしょうか.規制緩和とか円高対策とか,国内的な問題にかかずり合っている間に情報化された社会はそういう枠組みをすり抜けて広がってしまっているのです.TVが,東ヨーロッパを解放したといわれていますが,いま私達の前に立ち現れているインターネットはそれをすら遥かに凌ぐ規模と質で人々の思想や感性に影響を与え始めているのです.

 その昔,アインシュタインは戦争の無い地球として世界連邦を提唱しました.世界に国家があり国境がある限り争いは絶えない,地球を一国家にして,国境を取り除こうというのがアインシュタインの提唱する世界連邦でした.しかし,東西冷戦の中でこの提唱は一顧だにされませんでした.

 インターネットは国境というハードな構造物を透明化し,ボーダレスな世界を実現しようとしています.アインシュタインの提唱した世界連邦が,ようやくインターネットというコンピュータネットワークに形を変えて実現し始めているのかも知れません.

 インターネットの特長は,実はEメール以外にあります.

 近年人気のWWW(World Wide Web)やゴーファー(gopher)は,マルチメディアのデータベース配信システムであり,公開されている無数のデータベースから最新の情報を引き出すことができます.いまや,インターネットの代名詞のようになっているWWWですが,これとてもインターネットの中では大したものではありません.

 WWWからくらべれば匿名FTPというシステムはもっとずっと威力があります.公開されているコンピュータソフトウェアや情報データなどの情報ファイルを丸ごと誰にでも無料で送信してくれるサービスです.

 また,リモートログイン機能は,さらに素晴らしいシステムです.遠隔地にあるコンピュータの中に直接入り込んで,そのコンピュータの機能をフルに利用して結果を自分の情報として摂取することができます.一台数億円もするスーパーコンピュータはなかなか買えませんが,そのコンピュータ所有者の了解を得ればその使用規定にしたがって利用できます.もちろん原則として有料ですが,ソフトウェアも含めて利用できるのは究極のアウトソーシングと言ってよいでしょう.将来は,この機能を使って,大学や自治体のコンピュータを市民が共有して使えるという時代が到来すると思います.そうなれば,自宅のPCがそのままスーパーコンピュータになるのです.

 この他に,MBONEというサービスではTV放送をしています.NASAのスペースシャトルの飛行が全行程放送されたりしています.現状のMBONEはパケット通信という方式ですから,TV放送といっても現行のテレビのようなきれいな画面というわけにはいきませんが,B−ISDNというネットワークができたあかつきには,ハイビジョンの精細さの映像を見ることができることになっています.

山梨のインターネット

 山梨県でもインターネットは盛んです.盛んだというより先進地域であると言ってもよいかも知れません.山梨県下には現在三つのインターネット組織があります.その一つはアカデミックネットワークで,山梨大学情報処理センターと東京大学がTRAIN(Tokyo Region Academic Information Network)のコードネームで接続され,これが全国およびアメリカ・アジア・オセアニアに接続されています.山梨大学配下には,山梨医科大学・都留文化大学・山梨学院大学・山梨英和学院短期大学・西東京科学大学・山梨県工業技術センター・学校法人サンテクノカレッジ,それに初等中等教育実験校として山梨大学附属小学校・谷村工業高校・長野市立篠ノ井中学校・長野県美麻村立美麻小中学校・新潟県中郷町立中郷小学校が,コードネーム「TRAIN山梨」としてつながっています.さらに,サンテクノカレッジの配下には「YACC」というコードネームで,百貨店・新聞社・放送局・製造業・ソフトウェア企業・小売業・印刷業・医師団体・観光組合・ワイン業者のグループ・県立増穂商業高校など県内の一八組織(九五年一一月一日現在)が接続され,それぞれに活躍しています.その他,主に個人加入者を接続する民間のプロバイダ「インターネット山梨」があります.

 特に,YACCは県域インターネットとしては,行政のバックアップもなしに全国にさきがけて自力で作られたネットワークであり,その活躍は全国から大いに注目され,高い評価を得ています.YACCの形成過程を見ますと,山梨大学の技術的支援はあったものの,サンテクノカレッジの職員の熱意と初期会員のボランティア精神を頼りに,会員間で侃侃諤諤の議論をしながら自力でこれを構築したもので,インターネット精神を実に良く体現しているのを見て取ることができます.インターネットは,一応全体のありようを管理する組織はあるものの,個々のネットワークは全くのボランティアで構築し維持する建前になっています.だから,システムが故障しても,資金が無くても誰も助けてはくれません.自分のことは自分でしろというわけです.そこでは,情報社会に竿差す冒険心とネチケットを守る倫理観だけが頼りです.今後このネットワークのひろがりが大いに期待されます.

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異界へつなぐマルチメディア

 日本昔話『桃太郎』の成功の要因を一言で言えば「異界」との交流です.お爺さんとお婆さんの住む村への桃太郎の漂着が最初の「異界」との交流であったし,鬼ヶ島での戦闘の成功は,犬・猿・雉という異界に棲む獣との交流によるものでした.そして,鬼ヶ島やそこに棲む鬼たちが何といっても極めつけの「異界」でしたから,この物語が私たちに語りかけてくる教訓は,「異界」と交流しなくては大切なものは何も得られないということです.

 18世紀の啓蒙時代から,「近代科学」という武器を片手に,資本主義という財布をもう一方の手に持って,私たちは近代という「異界」に挺身してきました.そして,ここを隅々まで掘り起こし,耕し尽くしてみればもはや何処を見渡しても「異界」なぞ存在しません.ただひたすらアスファルトのジャングルが地平線まで続いているだけです.やれ,円高だ,震災だ,カルト教団のハルマゲドンだ,弱小金融機関の取付け騒ぎの後に大手都市銀行の不正取り引きだと,弱り目に祟り目といった椿事が次からつぎと出来します.どれを見ても「異常」ではありますが,それでいてこれらが起こっている時空間は「異界」ではありません.古来遊牧の民がなしてきたようにいまやもう一度,私たちは現代というパラダイムのパオ(包)をたたんで次ぎなる草原,遥かなる「異界」に移動しなければなりません.そこへの経路が,なにしおう「マルチメディア」です.

 ところで,烏の鳴かない日があってもマルチメディアが人の口の端に上らない日はありません.それでいて,マルチメディアの何たるかがいま一つ判然としないのはどういうわけでしょうか.その理由は,マルチメディアを文字や音声や画像を一緒にして扱う混合情報媒体などと定義するからにほかなりません.紙芝居はこの定義に入らずとも,テレビなどは十分にあてはまります.あの騒々しいだけのテレビが次代を担うなどとどうみても考えられませんから,こういう定義ではマルチメディアの時代的意義などおもいも及びません.どうやらマルチメディアというのは,もう少し混みいったもののようです.

 筆者は,既存のパラダイムの下では起り得ないイベントが生起する(時間と三次元空間に加えてもう一つの)第五次元空間をマルチメディアだと考えています.既存の時空間では本質的に不可視のコトの世界をヴァーチャルに「実感」することのできるもうひとつの世界であり,「異界」との交流の情報ネットワーク空間こそマルチメディアではないでしょうか.そして,そういう時空間は工業化社会のパラダイムには決して無かったものです.

 ところで人間は情報の交換に文字や言語を使ってきました.こういうものはコードの体系でできています.たとえば,手紙を例に採ると,日本語という文字の羅列で情報を表現します.日本語には,いろは五十文字,その他に漢字というコードがあって,第一水準の漢字約三千五百,第二水準約三千四百の膨大なコード数を誇っています.

 コミュニケーションは,これらのコードを組み合わせて,単語という一段階高いコード体系を作り,それらの意味作用と範列法則を参照しながら単語を配列してテキスト=文を構成し,そのテキストの全体像からコンテキスト=文脈を想像したり創造したりさせることを通して,受信者の脳にシンボルを想起させることでなされます.人は,実に面倒な過程を経て情報を交換していることがわかります.

 しかし,最終的に受信者の脳に生じたシンボルは必ずしもこのような道筋を通らずとも形成させることができます.コミュニケーションのありようは実は多様で,最終的にテキストやコンテキストが持つ記号作用さえ確保されていればよいのですから,日本語(のような言語)によらなくてもコミュニケーションは伝えられるはずです.

 人が情報を摂取するとき最大の手段は視覚です.視覚は聴覚,触覚,嗅覚などを含む全ての感覚の総量の八割以上であるといわれています.文字を読むのは確かに視覚ですが,これは視覚の特性を使ったものとはいえません.文字というコードを視覚で読み取っているだけです.バラの映像は,「薔薇」という漢字の読めない人にも通じます.それが真っ赤なバラなら,そこから「熱情」や「愛情」もシンボルとして表象されます.人は,そういうシンボルを操るがゆえに人なのです.

 「私の娘は男の子でした」という文章があれば,これはテキストとしては間違いか,嘘です.娘というものはまず間違いなく女だからです.しかし,このテキストに映像が付加されていて,公園のベンチで老婦人が彼女らの娘が産んだ孫の話をし合っている情景が映っていれば,「私の娘(が産んだ赤ちゃん)は男の子でした」という意味であることが一目瞭然に分かります.「俺は鰻だ」というテキストも,これが鰻の化け物でなく人間の発する言葉だとすれば間違いか,嘘に違いありません.ここでも昼飯時の駅前食堂の風景が映し出されていれば,このテキストは「俺(の注文)は鰻だ」と読まなければならないことが理解できます.この場合映像はコンテキストの役割を果たしています.そして,この映像を必ずしも実写で撮る必要はありません.コンテキストをよく表現する映像としては,アニメーションのようなバーチャルな映像の方が分かり易い場合が多いのです.こういうところにマルチメディアが出番を待っています.

 既存の文字や言語コードの体系から解放されて,情報のやり取りができるようになるのはそう遠いことではないでしょう.あと百年もすれば,バベルの塔の建築現場で無軌道に発生した三千とも五千ともいわれる言語コードから人類は解放されるかも知れません.そうなれば,クジラやイルカとだって会話ができるかも知れないのです.そのときに完成しているであろう定義によれば,マルチメディアとは「コードの体系から解放された自由な象徴表現の可能な情報空間のことを指す言葉」となっていることでしょう.

 世紀末から来世紀初頭にかけて,五〇億の地球市民が結ばれる膨大な広域ネットワークWAN(Wide Area Network)が構築されようとしています.そこではもっともっとよく理解しあえる媒体が必要です.南と北,障害者と健常者,老人と若者,弱者と強者,マイノリティとマジョリティ……マルチメディアがこれらの間に立ちはだかる壁を除去するのに役立つ媒体であって欲しいと願ってやみません.(いとうひろし 電気通信工学)

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 itoyo@apricot.ese.yamanashi.ac.jp