『情報パーク山梨No8−4』(1996.8)原稿

「道具」ではなくなったコンピュータ 

伊 藤  洋

(山梨大学教授・同大情報処理センター長・山梨県地域情報化推進協議会副会長)


 「高等動物」の定義の中に「道具の使用」ということがあります.わけても人間は,道具をつくり,それを使うがゆえに高等動物であるというわけです.

 近年の動物行動学の研究成果によれば,オランウータンやチンパンジー,それにゴリラなども道具を使うことが分かっています.蟻の巣から蟻の子を,蜂の巣から蜂蜜を木の枝を「道具」にして上手に採取していますし,二枚の石を使って固い木の実を器用に割って食べている情景がTV映像に記録されたりしています.こうなると猿類と人間とを分類するのに,「道具を使う」というだけでは適切でないということが分かります.

 もとより,人間が作り出してきた「道具」は,猿たちが使う木の棒や石器などとは比較にならない高度なものであり,人類は類人猿とは比すべくもない高等動物だとしても悪くないようです.しかし,ヒトの現在の能力を生物進化の究極の姿と見れば,類人猿といえどもこのまま人間に生存を脅かされず進化をこころゆくまで成し遂げられるのであれば,やがてリニアモーターカーやコンピュータを道具にするオランウータンやチンパンジーがサバンナに現れても不思議ではないことになります.だから,道具を使うというだけで人間の優位を単純に誇るわけにはいきません.

 筆者は,高等動物の定義として「道具でないものを作る能力」という項目を加えたら類人猿とヒトとを区別するのに適切ではないかと考えています.その「道具でないもの」の筆頭に位するのがコンピュータです.コンピュータは計算や通信をする「道具」だと考えている人がまだたくさんいます.そして,これは間違いです.

 たしかに,コンピュータに関わってきた多くの科学者や技術者はコンピュータを計算する「道具」,あるいは文書作成器,図形製作機というように考えて作ってきましたが,それが完成の域に達したいまコンピュータはそのすべてを内包してしまってついに「鵺(ぬえ)」になってしまいました.それでも,スーパーコンピューターやメインフレームと呼ばれる大型コンピュータはそれぞれ特殊な性能を主張する分「道具」としての性格を色濃く持っていますが,パーソナルコンピュータやワークステーションにいたっては誇るべき専門性を持たざるがゆえに「道具」性を失ってしまいました.それでは,「道具」でないコンピュータとは一体何なのでしょうか.

 1825年,洋酒菓子サヴァランの発明者として名高い仏国のモラリストで政治家ブリア・サヴァランは『美味礼讃』という名著を出版しました.そのアフォリスムに曰く「どんなものを食べているか言ってみたまえ.君がどんな人であるか言い当てて見せよう」と.これは,「禽獣(きんじゅう)は食らい,人間は食べる.教養ある人にして初めて食べ方を知る.」の後に書いてありますから,うっかり昨夜食べたほうとうとハンバーグの食べ合せなどと正直に報告するわけにはいきません.食通サヴァランともなれば食べ物でその人の品格を理解してしまうというのですから全く油断も隙もありません.

 「鵺」と化したコンピュータに関わってサヴァラン流に言えば,「君が使っているデスクトップのアプリケーションソフトウェアを言ってみたまえ.君がどんな人であるか言い当てて見せよう」ということになります.つまり,コンピュータをどういう目的で使っているか,あるいはいないかがその人の社会性・知性・興味関心・表現力等々を表していて,いわばコンピュータのディスプレイがそれを使う人の脳みその中身を映し出す鏡になっているようです.だからうっかりコンピュータの電源を入れっぱなしにして手洗いに立つなどということは勇気の要ることです.まして,コンピュータが使えないというのはなかなか告白できないことで,それだけに功なり名を遂げた「偉い人」ほどコンピュータを避けて通らなくてはならなくなります.コンピュータが専門家の計算のための「道具」であった時代は過去のこと,ネットワーク時代のコンピュータはますます「鵺」となって世界中を飛翔することでありましょう.

 人類が初めて手にした道具にして道具にあらざるコンピュータ.それを世界大に結んだネットワークであるインターネットがさかんに喧伝されていますが,企業や団体にとってはインターネットではなくてイントラネットの構築を早急に考えるべきです.ホームレスと蔑まれないためにも,WWWホームページを組織のデータベースとして利用していくことで構成員のリテラシーを確立し,しかる後にインターネット化を進めていくのがいま最も手っ取り早い「鵺の飼育法」のように思われます.


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