ココナツの樹の下で

1988年)

はじめに

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9月01

9月02

9月03

9月04

 

 


「文化とは、過剰性の蕩尽である」(ジョルジュ・バタイユ)


はじめに

 

かねてから、私はタイ王国とタイ文化に強い憧れを持っていた。幸い親友の潟Rーケン専務取締役・山本真樹さんが、既に15年程前からタイ国との合弁事業をしておられて、かの国に詳しい。しかも、尊敬する先達・江尻英太郎さんがバンコクに住んでおられる。以前から、お二人にタイ国への旅をねだってきた。それが、突如この夏になって実現することになった。狂喜乱舞したことは言うまでもない。

たまたま、この夏はカナダに行く予定があったが、私の憧れは断然タイランドだ。迷うことなく、そちらをとり止めにしてお二人に甘えることにした。

私がかの国に憧れていたのは、あの国が基本的には成熟した始原的文化、「進歩」を前提としない上座部仏教文化と東南アジア特有の米作農業文化をもっていて、それはちょっとやそっとの外乱で変化することはないだろうという、私の年来の考え方があったからである。それが、近年日系企業の進出が激しく、タイ国が大きに変化していると言われ、次なるNIEs参加国になるだろうという予測が一部になされるようになってきた。そんなことが果たしてあるだろうか。そういう疑問にぜひ解決を与えておきたいというのが、私がタイ国に行きたい最大の動機の一つであった。

非キリスト教国である日本が「近代化」に向かったのは既に100年余前になる。そして同様に今、非キリスト教国である韓国、台湾、香港、シンガポールのような国又は地域が、近代化の渦中にあると言われている。これら東アジアには、それぞれに近代化・工業化のインセンティィブやそれに応える基盤構造が文化の内部にセットされていたが故に、近代化・工業化に向かった。しかし、東南アジアではそれはどうだろうか? インセンティブはあっても文化の基本構造からくる人々の工ートスがそれを許さないのではあるまいか。私達は、アジアに住みながらアジアを知らない。東南アジアとして、一くくりにして見ているが、本当はそういうくくり方には問題がある。LDCとしてのタイ国、インドネジア、マレージア、40年の長きに亙って戦争にあけくれたベトナム、あるいは最貧国としてのカンボジャやラオスなどインドシナ三国、独特の社会主義を標榜しているビルマなどについては、各国それぞれに文化構造を探って見なければ何も分からないのではないだろうか。そんな疑問があった。

もとより、1週間や2週間で、何千年の歴史を持つ国々や地域の将来が予測できるわけもない。だから、この紀行文は単なる或る日、或る時の断片的日記である。単なる一旅行者の見聞きした記録に過ぎない。会って話をしてくれた何人かの人々の意見や信条や行動や観念も全体の中の無作為の一部に過ぎない。それを過度に拡大して一般化することは危険なことにちがいない。それでも、敢えてここでは危険を犯して一般化を試みている。だから、以下は仮説の試みである。

この旅では、上述のお二人は言うに及ばず多くの人々にご迷惑を掛げた。中でも、タイニスカ葛{久保平三社長、須貝保之専務取締役、Samsang Engineering Co. Somsak PHURITAT社長には筆舌に尽くせないご援助を頂いた。記して深甚の謝意を表する。

この他、日本では出発に先立って、山梨県庁企画管理局、分けても熊王壮臣局長、同企画課平嶋彰英課長、同課仲田道弘主事や日本精密滑ロ山博相談役、小林隆二部長に多大なご指示を頂いたし、当地では以下の文中には出てこない人々をも含めて実に多くの人々に会って貴重なお話を伺った。それらは文中に混ぜて記録してある。併せて、心から感謝申し上げる。


本編

 

 

825()日本は曇り時々雨、タイは曇り

 

午前530分起床。準備を終えた645分、今回の旅のバイロット山本真樹さんが義理の従弟・ラッセの運転する車で迎えに来てくれた。直ちに出発する。ラッセの運転は実に完壁で、スウェーデン生まれのラッセの評論する日本文化論に相槌を打ちながら成田まで直行する。所要時間3時間半、成田空港に到着。日本食の食い納めだというので、空港ロビーでスシトロを食べ、日本酒を呑む。1215分、甲府に戻るラッセと別れて搭乗手続き。東京国際空港28番ゲートから、バスで駐機場まで行き、そこから1250搭乗。このところの天候不順のため雨が激しく降ったりやんだりしていたが、この時刻になって雨脚が一段と早くなってきた。篠つく雨の中JALJL-717便は30分遅れて1320分成田を離陸した。

以後、台湾上空からベトナムダナン上空を通過して6時間後、現地時間午後5時バンコクドンムアン空港に到着。入国手続き、手荷物受け取り、通関などを終えて憧れのバンコク市に降り立つ。辺りに漂う強烈な匂いが鼻を衝く。空港前の国道1号線を走る車の発する猛烈なクラクションの騒音とふやけたような高い湿度とを併せて、タイ国の雰囲気は一気にエキサイティングなものになる。同行の山本さんの説明では、これはこの国の家庭で、街路で、レストランで使う膨大なヤシ油のミストの匂いだという。この強烈な匂いこそ、タイ国の一面・食文化国を象徴する香りなのだという。

空港到着出口に、タイニスカの須貝保之専務、それに懐かしい顔が二つ出迎えてくれた。江尻英太郎さんとソムサクさんの二人である。須貝専務とは初対面であるが、物静かなインテリー風の雰囲気に好感を感ずる。この旅でお世話になるのが予感されるが、先ずは安心して初対面の挨拶を交わす。須貝さんの社用車でこの旅のベースキャンプ・ラマガーデンズホデル(RamaGardens Hotel)へ直行。このホテルは空港から10kmと近く、空港を離着陸するジェット機の騒音がちょっと気になるが、それを除けば極めて静かだ。第一日本からのグルーブツアの客がいないのが何より良い。インド人(印僑)経営によるものだそうで、インドエスニック風のエキゾチックなホテルである。宿泊料金は一泊1300バーツ程度。これはこの国でもエクスクルーシブとは言えないが、一級ホチルの価格帯なのだそうである。私がこの国のお偉いさんとホテルで会うようなことがあっても不都合が無いようにという江尻さんの配慮で、彼がリザーブしてくれたものである。

須貝さん、江尻さんと談笑の後、皆でホテルのバーでビールを呑む。とりあえず明日の日程を確認した後、須貝さんは社に戻る。江尻さん、ソムサクさん、山本さんの4人で現地時間の7時、ソムサクさんの車でバンコクで有名なダウンタウン、チュラーロンコーン大学近くのサイアムスクエアに繰り出す。貝料理を腹一杯食べる。大衆的なレストランだが、なにしろグルメの山本さんのレコメンデーションがあるだけのことはあって、味は大変良い。ただ、辛いのにあっては参る。ナンバンによく似た赤いのや青いのが殻のままどっさり入っている。特に青いのが禁物で、これが新鮮な野菜の緑の中に毒蛇のように潜んでいる。こういうのは食べた瞬問失神しそうな程に辛い。こういうのを若いうちから常食していてはさぞかしこの国の人々の神経は麻痺することであろうに。

食事中も物売りがひっきりなしに現れて落ち着いて食べていられない。宝くじ屋、果物屋、おもちゃ屋、花屋に傘屋、・・・果物などはこのレストランのメニューにも入っているのだから営業妨害に当たると思われるのに、店の主人がこれを止めさせる風もない。宝くじはこの国の大きな収入源であるし、ギャンブル禁止のこの国では庶民の夢を実現する唯一の手段でもある。だから宝くじはよく売れる。見れば同じ番号のものがいくつも有る。こういうシステムは多分印刷機の能力から出来上がった風習なのだろう。ウェイトレスは156才の少女で、独特のタイスマイルを絶やさずに食べる側につきっきりで接持してくれる。この国のWorkshearingシステムの一つであろう。

4人で満腹し、メコンというタイの米から作ったウイスキーをたらふく呑んで、全部で日本円に換算して2000円の出費で食事を終えた。

9時過ぎ、江尻さんはタクシーで帰宅する。この国のタクシーにはメータは無い。だから価格は交渉によって決まる。タクシーの数は客の数よりも圧倒的に多いから、価格交渉で不利なのは決まって運転手の方である。そこで損をした分は別の機会に外国人観光客からまき上げる。

残った3人でダウンタウンにくり出す。連れて行かれた場所は有名なバッポンのソープランド。この場所の選択は同行の二人の親切からだそうで、ソムサクさんの言によれぱ、「伊藤の先生の社会勉強」の為だそうである。これは、後で考えてみて実にいい「勉強」になった。

店に入ると大きなガラス張りの、こうこうとした照明に照らされた飾り窓の中におよそ100人程の女性が居る。半数は私服、後の半数は制服で、これが脚の付け根辺りまで割れたセクシーなワンピースを着ている。前者はマッサージ専門、後者は「多芸」なのだそうだ。

皆、胸に大きな番号札を付けて客の指名を待っている。なにしろそこに座っているだけでは一銭にもならない。だから、客の注目を引くように、中には手を振るものあり、じっと客の顔を凝視するものあり、ビジネスにはいたって積極的である。ロビーにたむろする欲望をたぎらした男達と彼らの指名を待つ女達のその姿は、活き魚料理屋のいけすの魚と食客の関係のようで、グロテスクそのものだ。正直いって筆者は未経験。尻ごみをしていると、後ろから励ますように同行の二人から声がかかる。「伊藤の先生、女の子と話をするだけ、いいな」。それではというのでソムサクさんに、英語の話せる私服の子をノミネートしてくれるよう頼んで、同行者と離れて別室にいく。そこに現れたのが、ラオスから出て来たマリーと言う女性であった。マリーの英語は片言であり、こっちのそれがプアとあって悪戦苦闘しながらの会話だったのだが。

1971年アメリカ軍のラオス進攻の為にマリーが住んでいたベトナム国境に近い故郷の村は焼き尽くされた。この時彼女の親や兄弟の殆どは黒焦げになって死んだ。彼女は、毎日やってくる米軍の爆撃に耐え切れず村を捨て、命一つを頼りにして熱帯降雨林づたいに国境を越え、バンコクに逃げ延びてきた。その時マリーは18歳。西も東も分からぬ娘時代のことであったという。二つ違いの妹が彼女に残された唯一の身内であった。その妹はフランス人とバンコク到着後問もなくねんごろになってパリに行ってしまった。生活の途のない彼女は、妹の後を追ってバリに行ったが、そこで彼女を出迎えた妹は既にフランス男から捨てられて惨めな生活:をしていたという。仕方なくパリに3か月いただけで再びバンコクに戻ってきた。この頃、誰か分からない父親を持つ二人の子供が生まれたのだそうだ。いまその子らは16才と15才になり、学校に行っていると言う。この国の国民の学歴は、小学校6年程度が殆どで、16歳で学校に行っているのはシニアハイスクールかボーケイショナルスクールであろうから、圧倒的国民多数からみれば、高い教育をマリーは子供達に与えているということになる。「私には国籍が有りません」というマリーの顔は決して楽しそうではなかったが、子供の話をしているときは自信に満ちた表情を示していた。日々の生活の苦しさを話すが、彼女の顔は滅法明るい。神経は極めてこまやかでやさしい。それが客へのビジネス儀礼からか、彼女の生まれ持った心持ちからかは一介の旅行客には分からない。

おおよそ、こんな一人の湯女の身の上話を聞いた。ベトナムでの戦いは報道されている限りは私も当時逐一知っていた。しかし、その戦火の中を逃げ惑っていた一組の名もない姉妹の事など知る由もない。ソファーに掛けながらの話が終わると、彼女はビジネスに入ろうと言う。彼女本来の仕事をしなければ私からの収入が得られない。自分にとってはメイクマネーが今日・明日の生きる糧なのだという。話は分かったので、今日は「肉体」労働をしないでもマネーメイクができるように私が無料奉仕をしよう。そう言って財布を出して初めて私はまだ円をバーツに換えていないことに気づいた。今の彼女の話を1000バーツに評価するが、自分は日本円しかないことを言い、何時でもこれをバーツに換えるようにと言って円で5000円を渡す。この国には至るところに民問?為替市場がある。きっと彼女もそのくらいのことは知っているだろう。暗い気持ちでロビーに降りる。そこに、さっぱりした表情の同行二人が待っていてくれた。マリーともう一人の売春婦オーさんに酌をしてらいながら、併設してあるバーでタイのビールを呑みなおす。現地時問12時ホテルに戻る。留守の問に日本の友人小林隆二さんから、目の覚めるようなきれいなオーキッドなど南匡の花と果物が届けられていた。

この国には50万人の春をひさぐ女がいると旅行書には書いてある。売春禁止法のれっきとして完備しているこの国に、もとよりそんな統計資料がある筈もないから、この数値の正否は疑わしい。だが、この街に一歩でも足を踏み入れた旅人には、その数が生易ししいものでないことだけは実感として分かる筈だ。売春は禁止されているから売春婦は実在しない。したがって、彼女達の不幸は政治の問題にはならない。

タイ国滞在の初日はこうして終わった。誠にエキサイティングな一日になった。いま時刻は既に明日になっている。 Am1:18


 

 

826() 晴れのち雨のち晴れ

 

8時半、山本さんからの電話を合図に室を出る。日本標準時とタイ国のそれは時差は2時問である。習慣というのは恐ろしいもので、タイ時問5時半に目が覚めてそれ以降眠れない。この時刻がちょうど日本時問で7時半に当たり、それが普段の起床時問に対応する。シャワーを使ったり、新聞に目を通したりして時間の経つのをひたすら待つ。待ちながらもたまらなく眠い。

さてロビーに降りると須貝さんと江尻さんが今や遅しという態で特っている。真樹さんを含めて4人で喫茶。特つこと40分、915分頃ソムサクさんが来る。9時半、国道1号線を北にとり、タイニスカに向け2台の車で出発。今日は、日本企業の進出著しいナワナコンエ業団地を見学することになっている。

この工業団地はタイ国の10番目にあたる工業団地なのだそうだが、面積は3haあり、遠く地平線まで続く広大な工業用地だ。すでに第三期迄が開発され、第四期で予定を終わるのだそうだ。日系企業の進出が著しく、すでに100社が進出を予定しており、操業を開始している企業は60社に上るという。

こういう日系企業の進出の動機は言うまでもなく円高とそれにチープレーバの魅力である。タイ国のようないわゆる発展途上国において、日系企業の進出や操業が社会にどう影響を与えるのかは予測の難しい問題であるが、また大いに興味のある問題でもある。それだけにこれが今回の旅の主要なテーマの一つとなるのである。

国道1号線は、何処の国の国道1号線もがそうであるようにトラックの激しく走る道であり、この国のそれも例外ではない。タイ国北部チェンマイ周辺から送られて来る米を満載したトラックが、米の積み出し港バンコク港に向って走る。こういう光景の中で、他の国の国道1号線と大いに趣を異にするのは、道路の主役トラックの装飾である。この国のトラックというトラックはすべからく装飾過多の彩色が施されている。大概、天女や仏像の絵画が極彩色に描かれている。中には、ラーマヤーナの物語がトラックの周囲を一周すると分かるような絵巻になっているものもある。

ところで私は、この国にトラックがこんなに大量に走るようになったのは何時のことであるか知らないが、さして古いことではないだろう。自動車の輪入制限の厳しいこの国では、トラックの殆どは日系自動車メーカの現地進出企業が作っており、その進出がまだ20年とは経っていなことからすれば、こういう状態はここ数年または10余年のことと考えてよかろう。

ところで、言うまでもなくトラックという自動車は重い荷物を大量に運ぶ機械である。であれば、トラックに要求される条件は、エンジンが堅固で馬力があり、足まわりが強くかつ操作性に優れているといったハードウェアの良さであろう。だからトラックの色彩は通例単調なそれにとどまっており、まして天女の絵がポディーに描かれるなぞ劇団かサーカスのそれならいざ知らずあり得ることではない。ところがこの国ではそうはいかない。まず九分九厘細密画が描かれている。

このように極彩色に色を塗るというのは、通例商品が成熟し、固有の性能では差異がないのに、それでも他との差別化に向かって変化しなければならないような事態が到来したときに限られる。この国では、トラックが国産だとはいっても実は日系企業の現地生産に過ぎないから、ここでトラックが成熟商品になったとは考えにくい。それなのにこのようにモノを実物と離そうとするインセンティブが与えられているのは、この国の文化がモノを記号化する強い力を持っているからであろう。タイ国の文化の底流に、実物のモノを記号化する消費過多の構造が出来ていることを、この一事は勇敢に語っている。

11時ナワナコンエ業団地内のタイニスカを訪問。応接室で木下茂工場長の説明を受け、直ぐに工場内見学。従業員180人は殆ど全員が女子である。ワーカー達は黙々と、カメラシャッタの組み立てに専念している。平均年令21才、全員高卒だとのことだが、童顔の彼女達は中学生のようにあどけない。木下工場長の説明では、女子労働の質は、これが単純労働に限って言えば日本の比ではなく、極めて良質だという。

そもそも消費都市バンコクでは、食うことが生活の多ぐを占有している。そしてその食うことに殆ど困らない。餓死を出した歴史が無い程に食の文化が充実している。だから勢い人々の家庭生活は女性が活躍することによって成り立つ。そう言えば、無数にある街頭の屋台の店の主人は女である。だからこういう国では女がしっかりする。その分、男はなまくらで浮気になる。それでいて女権は、イスラーム国程ではないにしても、決して高くはない。為に男の天国になる。これが不幸にして売春婦50万人と喧伝される売春都市バンコクの基盤を形成する。

さて、12時工業団地内入口にあるゴルフ場のゲストハウスでステーキを昼食に頂く。このゴルフ場は広さ30万坪、完全会員制との事だが、平日ということもあってか客は2〜3人しかいない。その代わりキャディー数十人、一箇所にかたまってわいわいやっている。とにかくこの国は仕事の数より人問の数の方が圧倒的に多い。それゆえゴルフ場など、この国には不要といえばこれ以上不要なものはないのだが、無ければ彼女らは失業する。この国につきまとう無数の矛盾の、極くごくありきたりの一つである。

食後、その足で工業団地内のおもちゃメーカの「トミー工業」を訪問する。ここではタイ進出の苦労話を製造部長の栗山弘毅さんから聞く。おもちゃは低開発国に最も適合する産業である。日本の近代化は、繊維産業と並んでおもちゃ産業から出発した。しかる後に鉄鋼、重機、造船、構械、・・・と重厚長大に進んだ。玩具産業は工業化初期のリーディングインダストリーにふさわしい。予想通りワーカー達は、自分達の作る製品が説明されなくても分かるものであることから労働意欲は高く、作業手順の提案までがあるという。それ故トミー工業がここに居るのは良いとして、この工業団地の殆どに軽薄短小品の製造企業が進出中であり、タイ政府投資委員会の判断の無秩序さがよく分かる。

この後2時半、次の訪問先「旭エレクトロニクス」を訪ねる。ここでも工場長の日向昇さんから話を聞く。ここはカセットヂッキの組み立て一貢生産をしている。従業員800人。部品は全品NIEs各国から持ち込んでいるとのこと。工場長の日向さんは、当社にはカセットシャシーなどのエンジニアリングブラスティック業務があるが、その金型製造が現地企業では役に立つようなものがなく困っていると話しておられた。工業化を成し遂げるには順序というものがある。基盤となる技術要素がないままに工業団地を造り、手当たり次第に工場誘致をしていくと、基盤整備の方向すら見えなくなる。ここにもタイ国のマイペンライ振りが現れているようだ。もっとも日本の地方自治体などでもこれと五十歩百の工業政策を実行しているところが無いわけではない。

工業団地内で操業開始している企業の門前には必ず数人から数十人の若い女の子がたむろしている。聞けば求職の子達なのだそうだ。胸に履歴書を納めて毎日朝から晩まで立っているとのこと。そして彼女達の乏しい小遣いを頂戴すべく屋台の食堂があちこちで開店している。有効求人倍率がどの位かは、後日文部省で尋ねても分からなかったが、小数点以下2桁を上回ることはなさそうだ。こうして立っている女の子達は、この国では高学歴にあたる高卒者なのだ。開発途上国では必ず学歴のインフレが起こるが、ここでも判で押したように学歴の安売りが行われている。

幸い企業に雇用された高卒労働者の月額給金は約1500バーツ程度。これは、この国の最低賃金制度を参考にして決められているが、求人数より求職者数のほうが多いこの社会では、最低賃金制は賃金の最高額を決める役割を果たす。有効求人倍率が1以上の北の社会で、最低賃金制度が賃金の最低額を与えるのとちょうど反対になる。

今日の公式日程はこれで終わりだ。ナワナコンエ業団地の最終の第四期開発予定地といわれるところを見学してタイニスカに戻る。後日の予定の為に同社のエキュゼクティ秘書のチョムカモル嬢を紹介してもらう。彼女は、カセサート大学日本語学科をこの春卒業したという優秀な社員だ。一休みの後ソムサクさんの車で、午後5時ホテルに戻ってシャワーを使う。昨夜来の眠気がきて浅く睡眠をとる。

午後6時江尻さん、木下さん、須貝さんがホテルのロビーに迎えに来てくれた。615分ソムサクさんが来て全員でトンブリ地区のサラリナムという高級レストランで食事。シーフードのリッチな食事やタイダンスのショウなどもあり、果物がうまい。ここは、母なる河メナム・チャオブラヤー河に沿うレストランで、川向かいの世界一を誇るオリエンタルホテルの灯かりが川面に揺れる。ブーゲンビリヤの花が咲き分けに咲いて、それが川風に心地よさそうに揺れている。酒にほてる頬をかすめてチャオブラヤーの水の香りが流れて行く。タイ国は良い国だ。少なくとも呑気に観光をするには間違いなく良い国だ。

国際観光都市と呼ばれる街は、通貨が弱く、消費型で、歓楽的であるという条件をすべからく具備しているものだが、バンコクもこれにびったり当てはまって例外ではない。観光客にとってその国の人々を睥睨できるところが良いのだ。このレストラン・サラリナムには、アメリカ人、イギリス人、中国人に日本人しかいない。タイ人は一人もいない。こんなゴウジャスな食べ物は彼らには及びでないからに他ならない。世界一のホテルがあるのに職が無い。高級レストランがあるのに自国民が居ない。

10時真樹さん、ソムサクさん、江尻さんと別れて、ホデルに須貝さんの車で帰る。フロントで円をバーツに換える。レートは悪い。そのまま寝る。      AM0:00

 


 

827()晴れ、暑い

 

昨夜Wake-up-callを頼んでおいたので午前6時、間延びした電話のベルで起こされる。ぐっすり熟睡はしたもののやけに眠い。約束の7時にロビーに降りると、すでに須貝さんと江尻さん、それに昨日紹介されていたチョムカモル(愛称オーム)さんの三人が待っていた。須貝さんは繁忙のため今日の観光はこのオームさんが代わりに同行してくれるとのこと。須貝さんと別れて江尻さんとオーム嬢の三人でタイニスカの社用車でホテルを出発。バンコク名物のtraficjamはこの時刻では未だない。無人の野を行くような調子で快走。托鉢中の黄衣の憎侶の姿が目につく。この時刻では今日の托鉢はもう終わりだという。寺に帰るのか、僧侶達はそれぞれに無表情に急ぎ足で歩いている。市中心部を通過して、王宮・ワットプラケオ近くの水上マーケットに行き乗船場で舟をチャータする。三人でメナム川を下る。川はあくまでも汚く、舟はあくまでものろい

ラマV世のチャクリ改革時代に整備されたという運河が縦横に走っている。運河は、湿地帯のバンコクを人の住める大都市に変貌させ、中部タイを世界屈指の穀倉地帯に変えた。だから、この国の近代化政策はこれら運河から始まったと言って過言ではない。しかし、運河に沿う無数の民家はまさにスラム。家々は外から家屋全部が見透せるようになっていて、床は川水の増水によって掃除されるような仕組みになっている。それでも、チレビや冷蔵庫、それにプミポーン国王夫妻の肖像写真が水のつかない部分には必ずある。ちょうど朝のもく浴時問なのか、河の黒い水を使って体を洗う男女の姿が目につく。

どこの国でもそうだが、近代化政策導入の直後には抜きがたい貧富の格差が生ずる。しかし、近代化の後には通常底辺層の底上げもなされるから、極貧層は移民階級を除けば、最後には消えていく。この国では、しかしそうはならなかった。タイ国では、近代化はただ単に階層間を拡大しただけのことにとどまったから、もともとゼロであった極貧層の所得には係数を掛けてもゼロのまま残った。その結果、昔ながらにこの階層が人口の20%今も立派に形成している。

水上マーケット近くに来ると、観光ポートの数は限界を越え、バンコク名物の交通渋滞以上の渋滞が出現する。その押しあいへしあいの中を、船頭達は鮮やかに舟を操り、進む。そう言えば、この国の人々の車や舟を操る術は、殆ど動物的とでも表現したくなる程に優れている。しかもそれが実にカッコイイ。この街が、「劇場国家」のヒノキ舞台であるから、人は己の役割のなかで優れたバフォーマンスを心掛ける。機械を操る人々は、操ることの表現に腐心し、専心する。もはや機械を操ることが、機械の性能を発揮するための手段・方便でなく、操る者の生きてある生の意味と化している。こんなところにも「消費型社会」タイ国の特徴が垣問見えるのである。

ようやくにして目指す水上マーケットに到着。舟を降りて、マーケット内部を見物。店員達が発する日本語の呼び込みのダミ声が飛んでくる。日本人観光客の多いことが察せられる。オーム嬢は、「ここの土産物は高いから、プロフェッサー買わない方がいいですよ」と言う。冷やかしだけでまた舟に乗る。オームの買ってきてくれたココナツの果汁を飲む。冷たく、甘く、オームの優しさが混じって乾いた喉に心地良い。果実:を覆う乳白色のシースを食べる。ココナツチョコの原料だ。脂肪分が多く、おいしい。10時毒蛇博物館で毒蛇ショウを見る。1時間の後、再び舟に乗る。運河の周囲は相変わらず、めくるめくスラムがつづく、日は中天に昇り、川風があっても蒸し暑い。と、突如眼前に金色に燦然と輝く夢のような光景が出現した。王宮だ。

王宮はエメラルド寺院と呼ばれるワットブラケオと一体になっている。すばらしさは万人の目を射て離さない。とり分けエメラルド本尊の素晴らしさと先代王迄が使っていたというイギリス風とタイ風の折衷建築からなるこの王宮の絢欄豪華は筆舌には尽くせない。タイの上座部仏教とタイ王制文化が殆ど完壁な威容をもってここに示されている。トンブリ王朝を倒したチャクリ王朝(バンコク王朝)はこの地にアユタヤ王朝を真似て城郭を作った。運河をつくって水の引いた土地に人々が棲み着いて、それがスラムになった。だから、王宮とスラムが同居している。そういえば水上マーケットに至る水路の両岸のスラムの汚さとその中に数多く有る寺院の美しさの対照性も大変なものだ。

社会は必ず、その社会が必要とする以上に生産し、その過剰を消貧する。このときの消費の仕方を文化という。文化は、だからその社会の尊卑を表す。この過剰の消貧が次の位相でより高い生産性に達するように仕掛けられた非安定型社会を近代社会という。そうではなくて、次のフェーズにおいても前のそれと同じように非拡大再生産の安定型システムを持つ社会を発展途上国という。安定の為には、過剰を吸い取る吸収体としての純然たる消費が必要だ。タイ国では、王族と僧侶と軍人、王宮と寺院と軍隊が優れて安定の為の吸収体の役割を果たしている。あたかも、個人経営の中小企業が、利益の全額を社長一家の華美に費やしてしまって停滞しているのによく似ている。ドンムアン空港に降りたったとき、奇妙に落ち着いた気持ちがしたのは、きっとこの安定が一旅行者としての私の心を慰めてくれたからに違いないと、ここに来て気がついた。

王宮見物を12時に終えて、ロイアルホデルでフランス料理の昼食をとる。ウェイトレスが江尻さんの分の注文を忘れてしまったので、待てどくらせど彼の食事は来ない。ブラボー!マイペンライ!。注文をやり直して江尻さんもやっと食事にありつけた。1時にホテルを立ち、路上駐車した場所から車に乗る。この時少年が現れてチッブを要求するために車の窓を拭き始めた。江尻さんの説明では、この少年は天下の公道を自分の商いのショバにして生活しているとのこと。ロイアルホテル玄関先の道路も、これだけあれば数10人の少年の仕事が作れる。タイ国は優れたworkshearingの先進国だ。

さて、ここよりトンブリ地区を西へ進み、ローズガーデン目指して走る。郊外に出ると地平線までつづく田んぽが見える。遠くに見えるココナツ林のある辺りが農家の有るところだろうが、農耕に田までやってくるには優に一日はかかると思われる距離だ。タイ国は世界屈指の食糧輪出国である。目のくらむような広大な水田地帯が豊かな稲の葉波を形づくって続く。この自然の豊かな恵みと、あのスラムの貧困。何はばかることなく両者が同時に併存する。外国人にタイ国が分からなくなるのはこういうところだろう。

つれづれに、車中でこの国のミドル階級の定義について江尻さんとオームに尋ねる。二人の意見は、ここでの中産階級とは月収7000バーツから10000バーツの人々をいうということで一致した。日本円で4000060000円の月給取りということになる。二人の意見が分かれたのは、オームはタイ国の中産階級は人口の70%に上ると言い、江尻さんは10%が怪しいという。中産階級というのは、明日までの生活に心配はないが明後日以降についての糧を心配して、明日中に何とか社会の枠組みを変えておこうと考える人のことだと江尻さんはオームに諭している。そういう意味では、この国には中産階級はいないのかも知れないんだ、と江尻さんの義憤に火がついた。かわいそうにオームは言いくるめられて黙ってしまった。

江尻さんの言によれば、この国の中産階級は、実際は華僑勢力が形成している。彼らはタイ人社会では低い社会的地位にとどまっている。しかも、タイ人と華僑は殆ど完全な迄に棲み分けていて経済システム以外の経路では交流しない、という。その上、葦僑は、東南アジア一帯が植民地であった時代に物流を支配するところから発生しただけに、工業より商業に才能を発揮した。だから、華僑の活躍するところには、第二次産業より先に第三次産業が生まれてしまった。こういう仕組みが、社会の生みだす過剰の拡大再生産を押し進め得ない一因になっているのかもしれない。

140分、ローズガーデンに到着。ニッバヤシの葉で囲ったホールで215分よりショウが始まる。タイダンス、格闘技、結婚式風景、バンブーダンスと実に感動的なショウがタイ国伝統の音楽をバックに展開する。音楽は、西洋の音楽がそうであるように二つの主題を提示して、それを変奏しながら「起承転結」を踏まえて構造的に展開するあのソナタ形式のそれではない。主題も無ければ、和音もない。楽譜もないらしい。何時果てるとも知れないのびやかさでつづく。それは天上の音楽だ。約1時間の後、屋外で行われた像のショウを最後にショウ見物を終わる。

この国の民族芸能にはむやみと格闘技が多い。ゆったりとした舞踊と格闘技とが同じ数だけある。戦いをパフォーマンスという形で儀式化(ritualization)する文化があるらしい。タイ国は平和な国だ。少なくともアユタヤ王朝崩壊後、トンブリ王朝がビルマ軍と戦って以後200年問この国では、日本軍が踏み込んできたときを除いて、自らは戦争をしていない。それも、それぞれビルマや日本の侵略の結果行われた戦いであった。だからスコータイ朝形成後千余百年戦争らしい戦争はしてこなったことになる。それでいて、タイ国は東南アジア世界で唯一植民地支配を受けることがなかった。民族の集団としての闘争エネルギーをこういうパフォーマンスの中でゆったりとリリースしているのであろうか。タイ国の歴史と文化のしたたかさと知恵を見せられた想いがする。

果てしなくつづく野面を走って再びトンブリに戻る。かねて憧れの寺院・ワットアルン(暁の寺)を訪ねる。仏塔に登ってみる。オームも一緒に登るという。急な石だんを登りながら、見れば塔の表面はチャイナが張ってある。鮮やかな色彩が一枚一枚の陶磁に色付けされている。全体バラモンの影響を受けた造りになっている、。いつか写真でみたアンコールトムの遺跡を思い出しながら、おそるおそる一歩一歩登る。オームも初めての体験だという。

塔の中腹から眺めれば、すぐ真下、西日に浮かぶ母なる川・メナムチャオブラヤーが滔々と流れている。川の対岸には王宮・ワットプラケオやワットポー(ねはん寺)が見える。それにつづいて人口540万のバンコクの市街が果てしなくつづく。その中で営む人々の生活する姿はここからは見えない。この仏塔は、チャオプラヤー川の悠久の流れを見続けてきたのであろう。この国でも、人は生まれ、歳老いて死ぬ。だが、この国では、人は死んでも再び生まれ返ってくる。人々の関心は、つぎに生まれ代わるときにブラックコブラや猿でなく、人問になって再び復活したい、というところにある。その保証は僧侶になることによって確実に得られるが、そうでなければ憎に施す布施によってかすかな可能性が生まれてくる。近代を取り込んだ社会では、人は一度死んだら最後、無機物にしかならない。死後の復活のない社会での死はこわい。だから死体が悪臭をはなち、国民医療貧が増大し、医師の社会的身分が不当に上がる。

乞い願わくは、この地で私も死にたいという気持ちが心の底からこみあげてくる。あの街のけたたましい騒音はここまでは来ない。塔を切る川風の音だ`けだ。進歩:を拒否して、時問が止まる。思わず熱いものが身内にこみあげてくる。

寺を後にしてオームがアボイントメントを取ってくれていたタイ食のレストランで夕食を摂る。彼女のタイ風のチョイスはこの三日問のタ食と判で押したように同じであった。それでいて味は全部違う。レシピーの味と名前が一致しない。食文化の発達した非管理型都市の食事の特徴なのだろうか。食事をとりながらオームの話になった。オームは、本当は大学卒業後日本の大学に留学したかったが、彼女の両親の収入では経済的に無理なのでそれは諦めた。いま、日系企業に就職できたので、お金を借りて家を買うことにした。そして、そこへ良いお婿さんを迎えたいと考えている。明日の日曜日はその土地の下見に行く予定だ、とうれしそうに話す。

この国は女系婚姻制度が今も厳として残っているらしい。良いお婿さんとは在家の坊ざんのことですかと尋ねると、必ずしもそうでなくてもいいという答えが返ってきた。この国の中産階級の宗教観念が少しずつ変わってきているのかもしれない。

食事を終えて、二人に送られて720分、薄暮の中をホテルに戻る。相棒の真樹さんは、ソムサクさんとチャムチャイビジネスゴルフとの事で終日所在不明。便器のforcetが故障して水が出ない。ベルホッブに修理させてこれを記す。pm ll:35


 

 

 

828()晴れ、時に雨

 

6時に電話で起床laundry serviceを発注して、ホテルのレストランで朝食を取る。山本さんとは電話で夕方6時にホテルで再会することにしてロビーで須貝さんと江尻さんに会う。タイニスカ社長車でアユタヤに向けて、815分出発。今日は日曜日。道路はすいている。

1時間でアユタヤに着く。アユタヤは、200年前までアユタヤ王朝のあったところ。。それ迄のおよそ400年間、タイの政治・経済の中心地であった。チャオプラヤー川の支流が複雑に流れ、旧アユタヤの街はその川の中州に出来た天然の要害になっている。先ず日本人村に行く。ここは山田長政らの日本人が住んでいた場所とのことでアユタヤ城外にあたるのだそうだ。今は、ここが日本人村の跡だという説明の日本語の碑が一基あるだげの淋しい場所。乞食のような身なりの人が20人程、うるさいように寄ってきて物売りをする。「あなたハンサムな」というのが彼ら、彼女らの挨拶だ。その昔、敗戦直後の日本で、進駐軍と見れば「はろー はろー」と言ってチョコレートやガムをせがんだ少年時代の己の姿が思い出されてくる。きっと、あの時代米兵にとって、私達日本人少年の姿は乞食に見えたに相違ない。外国人旅行者に自国民を乞食のように見えさせる政治をする者を憎まねばならない。

山田長政の子孫と称する色の真黒なおばさんが居て、見学料100バーツをとるのが面白い。このおばさんの身なりも他の乞食のような人達となんら変わらないが、彼女の態度が堂々としているところが大きな相違だ。謎に包まれた歴史上の人物・山田長政の歴史は、今となってはこのおばさん一人の生活を保証し、彼女の態度を堂々とさせてくれる程度のものらしい。おばさんの差し出す記帳簿に氏名を記してここを後にする。

旧アユタヤ城と日本人村は目と鼻の先だ。つぎに、旧城内にある国立美術館に行く。沢山のVooted Budhaや仏像が並ぶ。このおびただしいVooted Budhaはこの街の支配の原則が仏教の政教一致によってなされていたことを示すのだろう。そしてこれらを装飾として、首につけていたのはこの国の支配者達だったのであろう。仏像の表情は古いものではおしなべて西洋人の顔をしている。ガンダーラ仏像の強い影響がうかがわれる。ここは極めて管理の悪い美術館で、空調もないから館内は蒸し暑い。見張りも無いから、盗難の恐れもあるだろう。もっともアユタヤがビルマ軍に襲われたとき、貴重なものはみんなビルマ人が略奪したようだから、金目のものはまったくない。

ここを出てアユタヤ王宮跡に行くことにする。大して広くない旧アユタヤ城内に居るのに運転手に道が分からないらしく、同じ所をグルグル廻っている。誰かに尋ねればよいものを、黙々として独り道に迷っている。この分では、黙っていると一日中こうしてぐるぐる回っているのかも知れない。その中に気の短い江尻さんが怒り出す。須貝さんは、怒りを一生懸命抑制しているが、肩で息をしているところをみれば、心中穏やかではないのだろう。それが後部座席からよく分かって面白い。

タイ人にとって、分けてもこの運転手のような決して高くない階層の人にとって「道」を教わることがどういう意味:を持っているのだろう。私は、本当は教えたがっている。江尻さんは現に教えている。教えても彼らは覚えない、だから彼らは進歩しないのだ、といって江尻さんは歯噛みする。だが、特てよ。教わって覚えるのは教わったことが明日の資になるからだろう。ここでは、明日は今日と同じ顔をしている。それは、今日が昨日と同じ顔をしていることからして能く分かる。この運転手にとって「進歩」は悪でもないかわりに善でもない。つまり何でもないのだ。ハンドルを握っていない彼を除く3人の日本人は「進歩」を信じ、「進化」を確信し、それをはなから「善」と決め込んでいる。ここが両者で決定的に違っている。

タイ国社会を構成する、華僑を除く人々の大半は「進歩」の思想を持たない。世界は正弦関数の繰り返しをしているのであって、だからこの世は限りなく古い。それゆえ今、世の中少々変わってもそれは正弦波の高まる周期にいるだけで、やがて振幅を下げる周期もあるだろう。振幅が下がったからといってそれを「退歩」といって悲しむ必要はない。やがてまた高まるに決まっている。振幅が上がったからといって、それを「進歩」と呼んで得意になる必要もない。やがてまた下がるに決まっている。だからこそ、人は生と死を何度でも繰り返すことができる。西欧近代は、そういう正弦関数状の史観から脱却して、指数関数的拡大発展の進歩の思想を獲得するところからスタートした。デカルトやフランシス・ベーコンの世界観だ。だから世の中限りなく進歩し、現代が歴史のなかで最も新しい時代だということになる。そして、教育はそういう進歩史観の中でしか存在し得ないのではないだろうか。「進歩」する社会では、教育されなければ人は進歩した社会から取り残されてしまう。取り残される恐怖に押されて人は学習する。怒る江尻さんの横顔:を見ながらそんなことを考えている中にやっとのことで旧アユタヤ王宮跡に到着した。

アユタヤ王宮跡はビルマの徹底的な破壊にあった。今は廃虚と化している。しかしその残骸に往時の栄耀栄華の跡がしのばれる。まさに、つわものどもが夢の跡だ。ここにも、今からちょうど200年前、過剰をたっぶり蕩尽する栄華があったのだ。1時問程大仏などを拝観していると、やがて大粒の雨がきた。ココナツの葉が雨粒にあたってバサッと大きな音を発する。次いで、たちまちにして川を作る雨が来た。急いで車に戻る。

チャオブラヤー川の支流に浮かぶ余り美しいとは言えない舟上レストランで昼食をとる。タイ料理を注文する。味もいまいちなのだが、例によってブラスチックの食器は割れ目もあってA、B型肝炎ウィルスの巣のようで気味悪い。メナムチャオプラヤーは真黄に濁っている。舟に横付けして、小舟で舟上レストランの客にちゃっかり食事を売りにくる女がいる。誰も、これをとがめたりしない。降雨激しく、川面に大きな魚がしきりに飛び跳ねる。

1時過ぎ、食事を終えてラマIV世の離宮・バンパイン離宮に行く。するとあの大降りの雨が嘘のように上がった。してみると、運転手の道に迷っている問に、すべて彼が消貧した時問がうまく納まっていたことになる。結果オーライなのだ。こうなるのだから少しばかり時間を空費したからといって怒るには及ばない。タイ国の「マイペンライ」の真骨頂を見せてもらったような気持ちがする。バンパイン離宮の庭園と建築物とその調和とは、非のうちどころのない芸術だ。このすばらしさには何も言うことはない。

時刻は3時、今日の見学の予定を終えて、国道1号線をホテルヘ帰る。420分、ホテルに帰着。2人と別れてシャワーを使う。少し疲労を感じて仮眠をとる。

65分前、江尻さんから電話。ロビーにいるとのこと。旅の相棒山本さんはソムサクさんとチャムチャイゴルフ練習から帰る。やがてやってきた須貝さんを加えて5人でダウンタウンに勢いよく繰り出す。トンブリにあるフカヒレ料理屋へ行く。グルメの山本さんのレコメンデーションは、食うことに関して外れたことがない。成田で買った持ち込みの日本酒におかんをつけてもらって、みんなで元気よく呑む。フカヒレの暑さと味わい、久しぶりの日本酒は申し分はない。

店の外に出ると猛烈なスコールが来た。駐車してある場所までは5mとはないが、その間を歩けば確実に全身びしょ濡れだろう。こういう時タイ国では慌てることはない。必ず助けがやってくる。果たせるかな助っ人が現れた。大きなビーチバラソルをもった傘差し屋の少年が傘に入れという。彼に促されてみんな車に乗った。少年にはソムサクさん10バーツやった。この国のサービス産業の発達は目を見張るものがある。政府は、国民の雇用政策など持ち合わせがない。だから、職業は人々が自ら創りだすしかない。こういう傘差し屋も珍しいが、他にも珍しい職業は枚挙にいとまが無い。バスが右に左に曲がる度にニョキッと窓から手を出す方向指示器屋、便所の手洗いの水道栓を日がな開けたり閉めたりする水栓屋、庭の水撒きを専らとする水撒き屋、イナゴの後ろ足を取るのを専らにする足取り屋、スコールで川になった街路を横断するのに舟を漕いで渡らせる道路横断屋、・・・数え上げたらきりがない。タイの職業の種類の多さはきっと世界一だろう。日本のように電話が普及して、職業別電話帳でも作るとなったら編集者は大困りだろう。そして、庶民が発明するこの種の職業は、残念ながら人々の尊敬や神聖視の得られるものとはなっていない。

すごい雨の中をソムサクさんの運転する車でIBM前のおかゆ屋に行ってメシの食い直し。フカヒレをたらふく食べた後だ。特に空腹である訳もないが、スコールの涼が気分を変えたのか、ケを変えるに不十分であったか、みんな健咬家振りを発揮して、呑み、かつ食った。腹一杯5人で食べて400バーツ支払った。これは日本円で2000円ちょっとにあたる。こと程左様タイの食黄は、円に換算して思うことだが安い。

日によって変わるのは勿論だが、いまタイ国の通貨バーツ紙幣は円に対して1バーツが512銭位である。これで勘定をするとタイ国の何もかもが安い。何もかも安いからその国の人々は結構な生活が出来るという訳にもいかない。第一給料が安い。それでは為替の換算比率がもっと大きくてもよい筈だ。例えば1バーツが50円と10倍にしてみてはどうだろう。10倍とする根拠は何かあるだろうか。江屍さんの説では、それには売春料金を充ててみるとよいという。その理由は、この売買の必要度というのが、本質的に限界効用のレベルにあるからだという。先に会ったマリーが生活に必要だから私に彼女の春を買ってくれと言ったときに提示した料金は500バーツであった。これは約2500円強だ。日本のこの産業に詳しい人に尋ねると、我が祖国のそれは20000から30000円と勘定すればよいとのこと。してみると、ちょうど10倍だ。つまり、これが生活実感からくる為替レートにふさわしい。それならこのオカユ屋の料金は20000円だったのだ。これで納得がいく。タイ人がここで、これだげ呑んで、食べて、いざお金を払うときの財布の傷みかたは、20000円に感じられるのだと結論したら、、江尻さんから「先生、そのマリーとやらは、先生を日本人とみてふっかけたのですよ」という。「タイ人相手なら200バーツと言ったでしょう」とも言う。それでは、まだ倍だけ狂いがある。するとここの支払いは、タイの人には40000円に見える。どうりで、この数日私達が食べるレストランには、チャイニーズタイ人以外のタイ人を見たことがない。やはり、タイ国の経済は国民一般大衆にとっては、いたって重いものなのだ。

国際為替市場は、国民のファンダメンタルズに基づいて決定されると、経済学の教科書には書いてある。一体全体、一国の経済的ファンダメンタルズとは何を指すのだろう。わけても、所得格差の絶望的な高さのあるこの国では、どの階層の経済力を「国民」のファンダメンタルズといえばよいのだろう。。経済学など勉強することはない。何の役にも立ちはしないから。

930分、ソムサクさんの運転する車で、途中須貝さんを家に送り、江尻さんをお宅に届けてホテルに無事凱旋。山本さんとロビーでコーフィーを飲みながらタイ国について、例によってああでもないこうでもないと話し合う。その後、彼の部屋でブランディーを飲みながら話し込む。12時、自室に戻ってこれを書く。1時半就寝。 AMl:20


 

 

 

829()晴れ

 

午前7時起床。昨夜は歳甲斐もなく、興奮して全く眠れない。とうとう、徹夜同然になってしまった。どうやら寝る前の、ロビーで飲んだコーヒーが効いたらしい。昨夜山本さんからもらった便秘薬の方も能く効いてこちらの難問は少し好転したようだ。8時、山本さんより電話が来る。二人で、ホチルのレストランで朝食をとることにして部屋を出る。9時まで朝食。

9時、ソムサクさんが迎えに現れる。直ちにプラチャラヤ通りにある彼のオフィスに向かって出発。30分して到着してみると、タイ国学士院での会合を終えた江尻さんもやってきて、一同時問どおりに集合できた。このように、時間通りにいくことはこの国では疹しい。

今日は江尻さんの通訳をはさんで山本さんとソムサクさんのビジネス交渉の初日だ。彼らは連日、やれゴルフだ、やれ宴会だと一緒に連れだって、わいわいやりながら、一向にビジネスの話には入らないできた。本番に入る前に、たっぶりと人問関係を調整してから交渉を開始するあたり、至ってアジア的手法を講じているようで面白い。

ところで、山本さんとソムサクさんとがジョイントベンチャアを始めて既に15年の歳月が流れた。資源ナショナリズムの高まりが、第三世界を覆い始めた1970年代初頭からの歴史である。有力な印材であるタイツゲが原木の形では日本に送られて来なくなったとき、建具工場:を経営するソムサクさんが原木の調達と印材への加工を手がけ、これに日本で印鑑彫刻をして日本市場に供給する役割を山本さんが行うことで国際問分業が始まったものである。この両者の仲立ちをしたのが、他でもないこのタイ通の文化人・江尻英太郎さんであった。

この15年の問には度重なる円高があり、それは、山本さん側からすれば事実上の原料コストの低減にあたり、それが一部分タイ側に円高差益として還元されることによって、ソムサクさんにとっては値上ぱに相当し、・・・というような按配で、両者のビジネスは今日までまあ順調にきたものである。円高というまれにみる神風が吹いたことも幸いしたのであるが、それにもましてタイ国の原料を使い、タイ国在来の木工技能と、日本側の要求とが結び付いてのジョイントビジネスであったというように、ビジネス環境が自然に整っていたというところがこの15年間の成功の最大の要因であったのであろう。それから見れはナワナコンエ業団地を中心とする日系企業の怒濤の如き進出には相当に無理がある、と一言わざる:を得ない。発展途上国でビジネス:を始めるには、それなりのビジネス環境が必要なのだし、わけても分かり易いモノの生産を考えるべきだ、ということを二人のビジネスは教えてくれている。

さて、9時半、二人のビジネスニゴシエイションが開始された。普段の二人は大変仲のよい仲問だが、ビジネスは別らしい。双方激しい応酬をやり合っている。今回の交渉は、タイツゲの原料払底に伴って原木の値上がりが著しいので、タイからの輪出価格をその分上げてもらいたいという主張を掲げて、ソムサクさんが仕掛けたものだそうだ。上げ幅を僅少にしたい山本さんと、出来れば原料コストアッブを機会に便乗値上げをもくろむソムサクさんの交渉は、どうしてどうして仲々日頃の雰囲気とは打って変わった激しいものだ。

総コストの中に占める原料価格比率などがあいまいだから両者の言い分は収束する筈がない。頃合をみて、近々総合的に価格体系を話し合うことにして、取りあえず小幅な手直しにとどめることにしてはどうかという私の提案を了承して二人の交渉は終わる。本当は、もっとちゃんと詰めた方が良いに決まっているが、もとが出来ていないのだからどうにも仕方がない。

昼頃になってソムサク夫人がドリアンを買ってきてくれた。これを頂戴する。話には聞いていたが、聞きしに優る匂いの凄さに圧倒される。しかし、食べてみると、その味の良さは果物の王者と呼ばれるに相応しい。全体タイ国の果物の豊かさには感服する。この国では、草という草に米がなるように、木という木にはすべからく実がなる。それが甘く、栄養価が高く、かつこの国の平価の価値からしても安い。ドリアンは中でも特別栄養価の高いもので、これを食べてビールを飲むと、栄養過多で鼻血が出ると、ソムサク夫人に注意された。

12時過ぎ、ソムサク社長のオフィスを後にして車でラッカバンエ業団地にある彼の印材加工工場に行く。途中昼飯をおそるおそる食べる。なにしろ昼間のこととて、店先でやる調理の手さばきが丸ごと見える。それがお世辞にも清潔とは言い難い。しばらく、口で呼吸をしなければならないような辛いラーメンを食べて店を出る。

1時半、工場に到着。暑いことといったらない。この工業団地の中は、日系大手家電メーカ数社が大工場を建設して操業しているだけで、あまり入居企業も多くはないようだ。全体、閑散とした風景だ。叢の中にはキングコブラなどもいるそうで、危ないから立ち小便はするなとソムサクさんが言う。

ところで、立ち小便のことを言えば、この国では立ち小便という風習がない。あるかも知れないが旅行中一度も目に触れなかった。タイ歴の長い江尻さんに聞いても、これだけは日本人もタイ人を範とすべきだという。こと程左様タイ人の衛生観念は高いのだろうか。タイ人の衛生観念が進んでいるというなら、他のところにもその観念は適用されてしかるべきだ。例えば、屋台や大衆食堂の調理場などの衛生などに。それが、どう欲目に見てもそうなっていないのだから、タイ人が立ち小便をしない理由はもっと他に求めな砂ればならない。

答えは、タイ人が立ち小便をしないことの原因を考えるのではなくて、日本人がところ構わずそれをやる方の原因を考えれば出てくる。結論は、日本の便所が完備しすぎて、通例尿意をもようしたらすぐにやれるように原則としてなっていて、幼児の頃からそういうシステム下での排泄教育がよくなされ、その為に、日本人は排泄の欲望をコントロールする必要がなく、したがってその能力を育てることができなかった、為に尿意をもようしたとき、たまたま辺りに便所が無ければそこに立ち小便をする、というにある。そもそも我々人問の祖先が樹上生活をしていたときには、現在のオランウータンと同じで、排泄はやりたいときに気ままにやっていたから、無茶苦茶に排泄していた。それが木から降りて直立して歩くようになったとき、その悪しき風習:を止めたのである。そうしないと、排泄中に獣に襲われ、キングコブラにすねをかまれるからに他ならない。つまり命がけでで排泄規律を学んだのである。

ところが、日本人は手洗いの文化を作った。多分平安時代中期以降だろうが、それ以来排泄制御を意識としてやらなくてよいことになった。かくて、その能力が退化したのだろう。ひるがえって、タイの人々は、手洗い文化を育てなかった。その為、高い制御技術を今もって持っているから、排泄をしてもよい時と場所を得たときに、意識して排泄できるのだ。どちらが人間として優れているか、これはよく考えてみなければならないが、ただ将来、この国で手洗い文化が構築されて、結果として国民が立ち小便を平気でするようにでもなったら大変だ。バンコクのように海抜0メートルでかつ気温30度の場所では、多分伝染病が慢延して、この街は死の街と化すだろう。

さて、印材工場で、ソムサク社長の弟の工場長オッさんをも交えて、例によってなにやら皆で訳の分からぬ議論が始まった。私はそれには参加せず工場の中を見学する。見学中は、特に一人の労働者のところに長い時問とどまらず、皆を同じ時間かけて公平に見るようにという注意が与えられている。この国では、同一階層の人々の問では誰かが特別のマークを付けられることを、当人でなく他人が嫌う。社会の平準化が「上」にではなく、現状の位置に実現する。だから、シンデレラの物語は、この国では喜ばれない。工場の中の機械は私にも見覚えのある、10余年前に山本さん達のグルーブ企業の新田信さんが作った機械だ。それが、そのまま何の改良も加えられずに動いている。故障もしないで動いているから改良の必要はなかったのかも知れないが、15年も前の原形をとどめる機械に妙な気分がしてくる。この国では、進歩は、悪ではないが善でもない。進歩に繋がる改良も、したがって善ではない。かくて機械は、日本では考えられないことだが、自然に壊れるまで生命を与えられる。手なれた手付きで作業:をしているワーカー達は、この中で生活を改良することなく生きているのであろう。工場の中は、優に摂氏40度はある。

夕方の5時、熱帯の太陽が漸く西に傾きかけた頃、ここを発ってバンコク市内に戻る。ダウンタウンでタイスキを頂く。ここも大変味がよい。旅:をする時は、舌の感覚の発達している人と歩くに限る。タイ料理の辛さに睡魔も負けて、夕方だというのに元気が出てきた。ここを出て、ラマV世通り近くのタニヤロードの「銀嶺」という日本人ぱかり行く店に繰り出す。ここでまた呑んで、一杯機嫌のソムサクさんの運転で快調にホチルに向かう。そもそも、ソムサクさんの運転は、一杯入ると一段と良くなる。良くなったのは、愛車のスピードの高さに反映するのと、クラクションを鳴らす調子のよいリズムに敏感に現れる。車同士は、クラククションによってコミュニケイションを実行している。この国の自動車で真っ先に故障するのはクラクションだろう。

この国では酒酔い運転の取り締まりなどしない。道路交通法では、厳として酒呑み運転を禁じているが、残念ながらこれを遵守する人がいない。すべて近代国家にある、ありとある法律はこの国にもちゃんとある。ただ、人々はこれを守らないし、政府もこれを特別なことがないかぎり力ずくで守らせようとはしない。国民生活は、法律によって統治されているわけではない。だから、法律は展示されるが、執行されない。このように、近代国家というものの文物:をただただこの国ではブレゼンテーションする。デバートのショッピングウインドーさながらに展示する。バンコクの夜はだから至るところ、文明の地・サンフランシスコのフィッシャマンズワーフと異なるところのない美しさ:を呈する。ために、タイの夜の女性達は展示場のマネキンのように美しい。そんな美しい街の、赤い灯、青い灯が、ソムサクさんの運転する車のバックミラーから消えていく。

この国の法体系の根本をなすのは、西欧型近代国家の国民に課せられるモンテスキュー的法律体系とは全く異なって、王に課せられた「ブラタマサート」による。そこでは、王は倫理的な規範の中心を為し、それが王権のレジティマシーを構成する。国民は完備した法律によってではなく、王の倫理的規範:を観客として眺めることによって統治されている。だから、王権はほとんど超法規になり、王を囲む宦官達による専制独裁がはびこることになる。したがって政権中枢部は派閥が発生し易くなる。そして、こういう文化は日本にも通底するものがあるようだ。

午後10時、今日も無事にバンコクの夜は更けた。私の室で冷蔵庫からブランディーを出して、真樹さんと二人してまた呑む。真樹さんがベルホップに、私の睡眠不足を治療すべくマッサージを頼んでくれた。幸か不幸か、これがベルホップのチッブ収入になっただけで、マッサージ師はついに来なかった。後で分かったことだが、この国ではマッサージというのは、売春の別表現なのだそうだ。ハッピータイランド!  Am0:00


 

 

 

830()曇り

 

午前630分起床。冷房を止めて寝たので汗をかいた。バンコク到着以降、睡眠不調がつづいている為だろうか、頭が重く、めまいがする。おま吐に吐き気もあって、健康状態は最悪だ。気分を変えれば何とかなるかと考えて、直ぐに入浴。8時ロビーに行くとすでに須貝さんが特っていてくれた。彼とコーフィー:を飲んでいるところへ江尻さんと山本さんが来る。4人で喫茶の後、須貝さんの社用車で850分ホテルを出発。バンコク中心部を通過してタマサート大学に920分到着。ここは、王宮やワットブラケオに近く、メナムチャオブラヤー川に接する観光ルートにもなっている。タイ国では、チュラー・ロンコーン大学に次いでナンバー2に当たるのだそうだ。構内は学生や職員の自家用車で埋まっている。ここの学生達の家庭の所得が高いことを端的に示している。

8月のこの時期、タイ国の大学は休暇ではない。この国の最も暑いのは4月から5月てあって、雨季に入った時期だ。だからいわゆる夏休みはその時期にある。学年の始期は、日本と同じ4月だから、学年が始まってもいきなり休暇に入ってしまう。だから、学園内の気分は何とも締まりのないものになるだろう、と思って回りを見渡すと休み時問の学生達が、木陰のベンチに腰掛けて、それこそ一心不乱に勉強している。日本の大学では決して薬にしたくても見られない光景だ。感服しながら訪ねる教官室を探す。

やがて、タイ国学士院のUdpsak Chankladさんが現れる。江尻さんは彼との間で、私の訪問アポイントメントを取っておいてくれたものだ。Chankladさんの案内でやがて、文学部・哲学科の助教授ChatsuoarnKabilsingh(女性)さんと、SanguomPrpsenさんの二人の博士が現れる。3人の先生方とも宗教学、とりわけ仏教哲学の権威なのだそうだ。Kabilsingh博士は黒のワンピースに黒のリボン、ChankladさんとPrpsen博士は黒いネクタイをつけて喪に服している。この国のプラサンカラート(大憎正)が数日前にお隠れになったので今は15日問の服喪期問に入っているのだ。そう言えば、街にある官公庁の国旗も半旗になっている。この国で、こういう服装をしているのはエリート階層だけで、庶民はしない。だから、服喪のスタイルはエリートの証であり、従ってエリート階層はきちっとスタイル:を決める。

3人との会見場は教官用ホワイエである。早速タイの宗教と近代化の関係:を話し合う。Kabilsingh博士は、タイ人ばなれしたなかなかの美人で、英語が極めて流暢。彼女は、タイは今や近代国家であるが、近代化されればされる程、インフレがやってきて物価は上がり、人々の暮らしを圧迫する。たとえば、パイナッブルを例にとれば、以前は数バーツで手に入ったが、昨今は米系資本のアグリビジネスの缶詰会社に出荷するようになって、パイナッブル畑の労働者といえども生のパイナップルを食べずに缶詰めを食べている。その為に法外に高いバイナッブルを食べなくてはならなくなった。これは近代化の負の面だ。

このまま、近代化が進むとどうなるかむしろブロフェッサ、あなたに教えて欲しい、とと言う。Prpsen博士は、インドに行って、理論だけでなく仏教の「行」をも納めてきた実践的仏教哲学者だが、近代化によるタイ人の精神的荒廃が進んで、いることを指摘し、その対策を考えていると述べられた。対策はあるのですか、と尋ねるると、それには在家仏教の普及と論理を構築することが鍵だということを言われる。

ところで、どんな社会でもその社会を構成している知の枠組みがある。カソリシズムの中世ヨーロッバ社会でいえぱ、宇宙を支配しているのが父と子と聖霊の三位一体たる神であり、その神は地球上の天に居る。だから、地球は、宇宙の中で特別の星であり、それゆえにこそ太陽や火星や木星などの太陽系の惑星や、無数の恒星も地球を真ん中にして輝いているのだと考えていた。つまり、これが天動説であるが、天動説は学説として初めからあったのではない。キリスト教の世界観、つまり宇宙創造の神の絶対性という知の枠組故に、この説が出てきて、かつ人々に受け入れられ易かったのだ。だからこそ、もとより天動説は現代でいう科学の枠組みには合わないが、中世の社会では立派な科学であった。

しかし、宗教革命を経て、カソリシズムからブロチスタンチィズムの社会が到来すると、神の絶対性は弱まって、関心が地の問題、個人の問題に変わっていく。すると、初めて天と地とを相対化する目が生まれてくる。その結果地動説が生まれ、人々に理解されていく。つまり、地動説は、コベルニクスがコベルニクス的大展開をしたが故に生まれてきたものではなくて、コペルニクスと彼の同時代者達に受砂入れ易い思想的枠組みが生じて初めて唱えられるようになってきたのである。

こうして、神の絶対感からの束縛を克服した近代はやがて、神の存在の軽視へと向かうその結果がアインシュタインの相対論のように時間や空間の絶対性を否定する思想を育てポーアの量子論のように事象の決定論的唯一性を否定する考え方を育成する知の枠組みを与えたのである。近代や現代は、科学によって作られたのでは断じてない。近代や現代という言葉によってひとくくりにまとめられた「知の枠組み」があって、それに適合することの許されるものだけが科学となり、その科学によって拡大再生産的に近代や現代という知の枠組みが「進歩」したものだ。タイ国のように、地球上の先進国というところにある物や文化をただ形式として導入するだけなら、それは近代化でもなければ、工業化でもない。タイ国の、いわゆる上座部仏教と呼ばれる宗教が人々を魅了している限り、断じて、現代科学はタイ国の土壌に育たないと言わざるを得ない。もとより、それが悪いことではない。善悪の埒外にあることだが、ヨーロッパの歴史観から生まれた言葉・近代化(modernization)というのは、以上のようなこと:を指していう言葉なのだ。

そこで、私は、タイの仏教文化が健在だということは工業化、近代化は不可能だし、タイが本当に近代化・工業化するするなら仏教の役割は変化するだろう。それが日本の仏教の歴史でそうであったし、ヨーロッパのキリスト教の歴史的変化でもあった。だから、先生方の意見と出発において相違するが、現在のタイ国は、いわゆる「近代化」されているのではないように思うと言った。Chankladさんを除く二人の博士は、私の意見に落胆し、愉快そうな表情を示さない。段々と会談はぎくしゃくしてきた一とうとう、二人の先生は用事や講義があるとのことで1時間ちょっとして退席された。

1050分、同じ人文学部・日本語学科主任()教授ArtomFungtammasan先生と、彼の主任教授室で会う。同氏は東京学芸大に留学し、再度早稲田大大学院修士課程を修了したこの学部のエリート教官の一人だそうだ。江尻さんのタイ人向けの著書『日本語文法』を通じて二人はじっこんの中である。初対面の挨拶をしたけで、授業中だというので昼飯を一緒に食べることを約束して彼の部屋を出た。

再び、教官用ホワイエに戻る。そこでChankladさんが、先程の私の意見から、それでは日本の仏教はどうして変化したのか、タイの仏教はなぜ近代科学を包摂出来るように変化しないのか説明して欲しいという。そこで、鎌倉仏教の話に話題が移る。彼も、実は上述の二人の博士達もそうだったが、日蓮や道元に限って日本の鎌倉仏教のことはよく知っている。私は、多分日本の仏教は、鎌倉時代に大衆仏教として再生したものであること、この時代に初めて在家仏教が真の意味として生まれたこと、それまでは在家仏教は仏教の保護者としての貴族や武士階級に限定されていて、庶民はその恩沢に属さなかったこと、大衆仏教の普及につれて戒律が緩和され肉食や妻帯が宗教的救済の権利を失うことにならないことになったこと、そしてこれこそ日本の仏教の革命であって、それを身をもって語ったのは親鶯であった、というようなこと:をとりとめもなく話した。すると、Chankladさんは親驚という人は全く知らないという。親鷺の浄土真宗は日本の最大教団であって、日蓮教団や道元の曹洞宗教団など足元にも及ばない規模だと言うと大変驚いた。それではその親鷺の妻帯の論理について説明しろ、という。そこで延々親鷺と末法思想について、30分にわたって江尻さんのタイ語の通訳で説明に入る。しかし、彼にはやっぱり、僧侶の妻帯や破戒の合理性は理解出来ないという。そこへ、Fungtammasan先生がやってきたので、話題が変わった。Chankladさんは教室に帰っていった。彼はまじめな青年だ。親鷺の話は毒が過ぎたかなと、私は反省した。

Chankladさんの興味や関心の事から始まったので、Fungtaoasan先生との話も宗教と近代化とか、親鸞と在家仏教とか、パラダイム論などということに集中する。しばらく、タイのおかゆを食べながら議論する。午後1時半、近々私がタイ国に来るとき科学と宗教についての講演をすること、ついては帰国後講演レジュメを送ってくれるようにと言い残してFungtammasan先生は午後の授業のために戻っていった。

食事を…緒にしましょうといって、招いておいた深沢女史だけがその場に残った。彼女

は日系広告会社勤務の夫とバンコク滞在6年とのこと。タマサート大学日本語学科でteaching assistantをつとめている。歳の頃30余歳の仲々元気のいい美人だ。彼女のタイ観は極めて厳しい。彼女は言う。この国では何もかも変わらないと言う。それは、この国の指導層に属する大学教官や、やがて指導層に確実に入るこの大学の学生達が、実によく勉強するが、それが決して市民生活の向上のためにやっているのではなく、ちょうどあの僧院の僧侶が、衆生を救済するために行をするのではなく、自己の悟りの為にだけ僧侶になったのと全くおなじだ。この国のインテリゲンチャというのは、良いことを言うが決して結論を言わない。だから学生の日本文献演習などレポートに書かせるときまって「起承転」まであるが「結」がないのだ、という。そういえば、今回の旅に出る前に読んだ官報・総合研究開発穣構発行の『タイの新興工業国への転換』(タイ開発研究所編)の中の論文の多くが彼女のいう調子で書かれていたことを思い出す。こういう調子で、深沢女子の不満は、今にも爆発しそうだ。日頃、タイについて熱い想いをしている江尻さんは、深沢女史の演説に大いに意を強くしている。

このタマサート大学は、19731014日、いわゆる「血の日曜日」に学生が反乱を起こして民主化運動に火をつけた所として世界に有名になった。しかし、「結」のないブルジョア革命に終わったタイはやがて元の黙阿弥で軍政に戻った。戻るについて最も力量を発揮したのは、他ならぬ仏教指導者達であった。

一同大いに盛り上がってきた。めまいも少し納まってきたので、3時、深沢女子とも別れてタマサート大学を後にする。江尻さんは仏教大学の授業があるとのことで、仏教大学の裏門で別れる。須貝さん、山本さんの三人でホテルヘ帰る。3時半、山本さんの室で今日の大学訪問の総括などして、自室に戻って入浴。久々にホテルに早く戻ってきたのでベッドに横たわって考えた。

この国は劇場国家といってよいのではないだろうか。もちろんC.ギアーツが『19世紀バリにおける劇場国家』で言う「劇場国家」のことである。この国の人々は劇場国家の俳優である。したがってエリートはいかにもエリート風であるし、庶民は無知でたくましい。僧侶は自分の悟入に忙しく、他を顧みることをしない。皆職分に応じて演技する。正に劇場の出演者である。それでいて、劇中に交わす言葉は、それが演劇であるから実現されず、生活はどこか非現実的で、緊張がない。人々は、分に応じて棲み分けて、影響しあう事はないから、平気で近いところで棲み分ける。それでいて、同一階層の中では、役付げをめぐって争う。そういえば、タマサート大学の門:を一歩外に出るとむやみににぎやかな汚い屋台やコンドウミニアムが立ち並ぶ繁華街である。この大学の一方は王宮とエメラルド寺院である。この両者への近接性とその対照性とは驚くばかりである。

この劇場国家のオーナーは言うまでもなくブミポーン国王とシリキット王妃だ。王権は、ヨーロッパの国々のように厳格な法的支配には向かわない。そうではなくて祭祀の主催者としての権力へと化している。それが、タイ国の、非近代性と平和と安定の基本的国家構造ではないか。しからば、この国の近代化など言うべくして起こりようがない、という思いがしきりにしてきた。

やがて、眠気が来て眠ったようだ。直ぐに、夢をみる。辺りは一面の平野である。身なりの貧しい何万という群衆がとてつもなく大きな円形の輪を作っている。よくみると、円形の仕切りがあって、何層かに位づけされた群衆が身動きもままならないように、地べたに腰を降ろして座っている。そして、その円の内側からはるかに離れて、その中心部に同心状に小数ながらまた一かたまりになった円形の人々の集団がある。その集団の真ん中に、この国なら何処でも目について馴染みのタイ国の王と王妃、王太子と王女と彼らの家族が立っている。王の回りは、僧侶や、政治家、軍人、行政官、大学教授が、こういう順序で円形に取りかこみ、皆黒い喪章を付けて座っている。よくみると、王と王妃は美しい王冠をつけて、憑かれたように踊っている。人々は呆然とそれに見入っている。時折、輪の中の人が立ち上がって前に出ようとすると、彼の直ぐそばの人が、王の姿が見えなくなるといって、強引に頭を抑えて彼を座らせる。居づまい:を正した中央部の人々と違って、周囲の大きな輪の中の人々はがいがいわいわいやっていて、統制は取れていないが、中心部の王家の人々の踊りが変化する度に、思い出したように熱狂的に拍手を送っている。その中に、ソムサクさんがいる。タニヤの「銀嶺」の女給ラッチャニーやソープランドの売春婦マリーさんやオーさんまでが、乳房を顕に露出させながら熱狂している。声:を掛けてみようとするが声が出ない。一生懸命に叫ぽうとして目が覚めた。訳の分からぬ白昼夢だった。

シャワーを浴びていると、山本さんから誘いの電話がきた。6時ホテルのロビーで江尻さん、ソムサクさんと落ち合って街へ夕食に出る。タイ舞踊があり、ウェイタ達がローラスケートでうなりを上ぱながら料理を運び、かつ収容人員1000人というとてつもない大きなレストランでタイ料理を食う。食欲は不振だ。華僑の二世の社長であり、ソムサクさん・山本さんの友人のブンさんも同席する。ブンさんは、明日、台湾に商用旅行だと言いながら、誠実にわれわれを接待してくれる。私が辛いナンバンをかんでしまったと言えば、直ぐにココナツヤシ:を何処からか買ってきてくれる。これを飲めばたちどころに辛さが消える。彼らの客:をもてなすやり方は半端ではない。すぐに、10年の知己になる。

9時半、チェンマイ出身のオーさんの持つホテルに帰る。ブンさん、ソムサクさん、山本さん、それにオーさんの5人で山本さんの部屋で呑み直す。ll時独り自室に戻って、これを記す。

ああ、ミラクルタイランド!!  AN00:30


 

 

 

831()晴れ

 

8時迄ぐっすり眠って起床。やっと睡眠時問も多く、熟睡もできた。こうなくてはいけない。気分は壮快だ。早速シャワーを使ってサッパリする。9時、山本さんに電話して彼を起す。電話の向こうの彼は大いに眠そうな声:を出している。

ホテルのレストランで江尻さんが待っているというので、急いでエレベータを使って降りる。エレベータが2階で止まった。ドアがあいて、2人の少女ががやがやと乗り込んできた。彼女達の姿を見れば、カイセンが顔と言わず、腕と言わず白くこうを吹いた枯露柿のように浮き出ている。肌は浅黒く、痩せて、発育も悪く、明らかに栄養のバランスの良くない顔だ。二人とも、上下ジーバンを肌の上に直に着ている。片方の少女の胸元は大きくのけぞるようにはだけ、そこへ斜めにエレベータの蛍光燈の灯かりが入り込んで、それが、老女のようにしなびた彼女の乳首を映しだす。彼女らは、私を認めると早速私にタイ語で話しかけてくる。私はタイ語は話すも、聞くも出来ないが、彼女達が言っていることは凡そ分かるような気がする。恐らく、金をくれと言っているのであろう。あるいは、私を相手に商売をする用意がある、とでも言っているのかも知れない。念の為、英語で、昨夜何処に居たか、何をしていたか、と尋ねてみたが、二人はこれには応じず、相変わらずタイ語でしゃべりつづける。

こういう身なりの少女が、宿泊客としてこのホテルに泊まることはない。第一、ホテルのガードマンが服装チェックをして入らせないし、彼女らにここに泊まれる資金があるとは到底思えない。彼女達が少女売春をしていたのにまず相違ない。こんな小さな子供の、未だ明けやらぬ春を奪ってしまう吸血鬼のような男がこの世にはいるのだ。この種の不健康の結果、彼女達の乳房は早くも、天日に乾いたミミズのようになっている。本来、この歳の少女なら未だ固く、桜色の、触れることを許されぬ乳首を持たな吐ればならぬ。いくらこの国が劇場国家で、娼婦は娼婦としての演技者だといっても、現実に客との問でなされる商取り引きは、自ずとこれらの少女をむしんばんで離さない。急に身内に悪寒が走り、むしょうに腹が立ってきた。ホテルのレストランで持つ江尻さん、山本さん、オーざんと4人で朝食にカユを食べながらも、あの二人組の少女の姿が思い出されて、何だか朝起きたときの充実感が急速になえていく。

1時問ほどして950分ソムサクさんが来る。直ぐに五人で出発。

江尻さん、オーさんは途中で下車する。10時半、ブッシュレーンのロイアルオーキッドホテル近くにあるパシフィック&オリエントCo.Ltd.会長の小谷亀太郎さんを彼のオフィスに訪ねる。小谷さんは、バンコク滞在40年のベテラン。敗戦直後の1947年から、この地で建設資材を商なう貿易会社会長であり、日本人会会長、国際仏教者連盟事務局次長の肩書きを持つ、在タイ日本人問で最も信頼される実業家の一人である。また、夫人は、東北タイの貧民のためと、カンボジャ難民救済のために、東北タイの特産の絹織物を着物に仕立てて日本人観光客に売り、その利益を難民キャンプに送金するというチャリタブルな活動をしておられる。いまは、成人した息子さんに社長職を譲り、ご自分は社会活動に身を投じておられる。日系企業の進出で建設工事量が増えて、社業は至って順調だが、資材の高騰に悩まされているとのことだ。

会長室にて小谷さんから、タイ国の現状と将来について話をきく。彼は、タイは段々に良くなってきたが、近頃は急激に勢いがついてきた。それこそ見違える程に発展していると言われる。私は、それは日本に対する多額の債務とその見返りとしての日本企業進出の成果であって、それだけに歪みが発生するとそれが日本に向けて反日感情に転換することにならないですか、と意地の悪い質問を発してみた。すると、小谷さんは、この国の人々は仏教思想があるから、親切であり、反日感情など起こしようもない、と語気鋭く言われる。この国は、宗教の国で仏教によってよく法が守られている。王は賢く、類稀なる優:れた指導者である。20万人の僧侶は戒律をよく守り、破戒することがない。彼らに守られてタイは今後益々発展するであろう、と述べられた。真面目な経済人の姿があった。好感を大いに感じたが、彼はこの国の厳しい現実より自分の願いを幻想として見ている夢の人だとも思いつつ、話を傾聴した。

人はすべからく「灯台もと暗し」の生活信条をもっている。あれかしというの:を、問違ってそうあるのだと思う思い込みがあるものだ。小谷さんは、良い人だが、この国の現状を見て見ぬふりをしている。彼が言う程なら、この50万とも言われる娼婦が何故存在するのだろうか。今朝のエレベータの中の少女達は一体何だったのだろう。

ロイアルオーキッドホテルのチャオプラヤーの川べりのレストランで昼食を摂る。小谷さんのおごりだ。見渡せば、メナムの黄色に濁った水がゆっくり流れている。貧しい船頭達が、今日も観光客を乗せて水上マーケットに向けて舟を操っている。このホテルは、オリエンタルホテルと並んでバンコクでも屈指のエクスクルーシブなホテルだ。ここのレストランには、給仕の少年や少女を除けば客にタイ人はいない。この一事をもってしてタイが良くなったとは言えそうにない。1時過ぎ、小谷さんの会社を辞してホテルに一旦戻る。

1時半ホテルに戻ると、ロビーで江尻さんと須貝さんが今やおそしの態で特っている。

室で背広に着がえ、須貝ざん、江尻さんと同行してカセサート大学内の植物病虫害の研究者KorbkiatiBansiddihiさん:を訪問する。彼は、江尻さんと同じ国営住宅に住む隣組の住人だそうだ。彼は農林省所属の研究者である。農林省の研究部門はここに置いてあるのだそうで、この国の研究機関はまさに官学協同の組織になっている。国王ブロジェクトと呼ばれる輪出振興農業の基礎研究をしておられるとのことだ。このプロジェクトは主に北部タイ・チェンマイ市を中心に、米の単作農業だったタイ農業を多種・大量型農業に改革するための計画だという。タイ国は世界屈指の食糧輪出国である。近年、工業部門に追い上げられてきたとはいえ、タイ国の経済を支えているという自負が彼の自信ある態度に現れている。

このカセサート大学は、農業大学としてよく知られるタイ国No3のランクを持つ有名大学だそうだ。Bansiddihiさんを訪問したのは、翌翌日の木学訪問の計画:を依頼する為の準備である。明後日、私達が泊まっているラマ・ガーデンズホテルで全国の工学部長の会議があるから、その議長を務める人にアポイントメントを取ってくれるとのこと。話がついて、1時間でここを後にする。

4時半ホテルに帰着。3人で喫茶。須貝さんは社に帰る。家に帰ってまた再び出てくるのは面倒だという江尻さんと私の部屋・3072号室で宗教論をやりながら時間:を潰す。

話は、タイ国での在家仏教の在り方についての江尻さんの持論から始まった。昨日のタマサート大学のPrpsen先生もそうだったが、この国の仏教関係者は在家の宗教ということに大変強い関心を持っているようだ。しかし、この国の仏教が上座部仏教、すなわち小乗仏教で、戒律に厳しく、破戒が涅槃への条件を欠くのなら、在家で居る限り、肉食、妻帯、その他実生活からくる諸々の破戒が行われる筈であって、悟りは得られないことになる。だから、破戒を超越する論理が出てこなければ在家仏教などといってみても始まらないのだ。下須のかんぐりのようで気になるが、ここの仏教者が在家仏教に強い関心を持つのは、下から支える人々の関心を寺院仏教に引き続き引きとめて置くための方便ではないのだろうか。

もし、在家仏教を、上座部仏教の上に構築するとすれば、それは間違いなく、親鷺的なあるいはルター的な宗教革命にぶっつかるであろう。五戒を破らなければ生活できない在家の仏教者にとって、救済の方途が無いからだ。それは、即、上座部仏教の破滅になる

タイ国1000年の仏教文化の上に、衆生救済の宗教が構築出来るとは私には思えない。だからこ、昨日親驚の話を私がしたときに、仏教哲学の教授達は愉快ではなかったにちがいない。しかも、日蓮を知りながら、親驚を知らないのは、こと日本仏教の研究をした者の態度としておかしい。それは、親鷺の危険について誰かが既に気づいていて、彼に関心を持たないことを勧めているからに他ならないのではないか。下須のかんぐりが高じてこんなことを江尻さんと話す。

後日分かったことだが、この国で在家仏教というのは、僧院体験をする為に大層な出貧をしながら仏門に入り、再び3ヶ月後に環俗した人の宗教を言うのであって、そんな経済力はなく、よって仏門経験を持たず、それでも宗教に救いを求める人の宗教を指していうのではない。

そんな話:をしながら、時問を潰す。そろそろ相棒達も凱旋するだろうというので、部屋を出て、2人で6時ロビーに降りて持つこと50分。ゴルフで真っ赤に日焼`ナした真樹さんとソムサクさんが意気ようようとして帰ってくる。720分ソムサクさんの車で北京ダックを食べに、例によってダウンタウンヘ繰り出す。ここの料理もすばらしい。この世の中にはうまいものがこんなにあるのだ。堪能して食事を終わる。940分ホテルに戻る。ソムサクさんも江尻さんもそのまま帰宅。真樹さんとホチルのバーで1杯呑んで室に戻る。持病の痔が悪化して痛む。体は疲労の極なるも心はさえている。今朝、エレベータで会った少女達の姿が急に思い出されてくる。

国王プロジェクトの中心地チェンマイはタイ国の食糧生産の中心地である。わけても米は、もはやアメリカを凌駕して世界で一番国際競争力の高い農産物になっている。ここから世界中に食糧が輪出される。そういうチェンマイの国際的地位に反して、国内におけるチェンマイの地位は、大げさに言えばバンコクの売春婦の供給地として、バンコクの夜を華麗に採る華やかさ・国際観光都市の功労者としてある。世界の食糧市場は過剰である。それだけに国王計画が順調に進んでも、チェンマイの少女達の国内的役割が軽減するとは思えない。問題はそんなところにあるのではない。

この首都の終着駅ホアランポン駅に行けば長距離列車の着く度に、北部農村地帯から着たきりでやってくる少年・少女達がぽうぜんと立ちすくむ姿を、何時でも見ることが出来る。その中から、身寄りのない美しい顔の少年・少女は苦界に売られ、そうでない子供達は都市雑役の「職業」に就く。彼らの期持とは無関係に、そこには確実に不幸が待っている。小谷さんの話とは裏腹に、この国では坊主が悟入し、王が尊敬される行為をする度に何10人となく若い娘が売春婦に、若い男子がオカマに身を落とす。しっかりしろタイ国!

また、頭がさえてきた。今夜もきっと眠れないだろう。  00:00


 

 

 

91()晴れ

 

在タイ1週問と1日目がやってきた。日本では、秋の始まりだというのに、この国は相変わらず35度の気温がっづく。冷房を止めておいた効果はてきめんで、暑いといったらない。630分寝汗をびっしょりかいて起床。バスを使って、身支度:をする。

8時にロビーで江尻さんと会う約束になっていたのに、早ばやと735分には彼から電話がくる。こと程左様、江尻さんはせっかちなのだ。こういうせっかちはタイ国にはなじまない。江尻さんは、この国で生まれて、この国で育ったというのに決してタイのリズムでは生きていない。生涯、江尻さんはタイ人にとって外人教師(コンファラン)で通すことになるだろう。そんなことを考えながら、大急ぎで部屋を出る。ロビーに降りると須貝さんも居る。二人と一緒に白いタイの粥で朝食。この粥の中に、放し飼いの鶏が生んだ「真っ赤」な黄身の鶏卵を入れて、香辛料のよく効いたタイ風のおかずと合わせて食べる朝食は何とも言えず美味だ。二人に失礼して、大急ぎで2杯も粥:を食べる。江尻さんの「先生は健啖家ですね」という発言は、きっと時問を催促しているのだろうと思いながらも、十分に腹ごしらえをする。

805分ホテルを発ち、須員さんの専務車でダウンタウンに向かう。今日の訪問先はチュラーロンコーン大学だ。830分、予定より30分も早く工学部電気工学科に到着する。

本学はタイ国の東大と称されるだけあって、熱帯樹に囲まれ、うっそうとした森になっている。キャンパスは広く、構内は極めてよく整備さている。名称のチュラーロンコーンは、名君の誉れ高い第V世ラマ王の名前に由来する。この王様こそ、あのブロードウェイのミュージカル『王様とわたし』のなかに出てくる王子様に他ならない。タマサート、カセサートのそれぞれN023の大学との格差は歴然としているように見受げられる。構内には、教職員・学生の通勤・通学用であろうか、フルサイズ車がずらっと並んでいる。そう言えば、タマサートのキャンパス内の自動車はコンパクトカーであった。カセサートでは、自転車がずらりと並んでいた。大学の格と乗り物のそれが奇妙に一致している。こういうところにも階級社会タイ国がある。

さて、約束の9時ちょうど、主任()教授NarongYoothanam博士と彼の主任教授室で会う。阪大留学の経験のある助教授PrasitPrapimongkolkam博士と二人で当学科の説明をしてくれる。その後、各講座の中を逐一案内してくれた。この学科は、さすがに日本の大学留学経験者が多く、実験設備は日系企業(住友電工)の寄付などのため、日本製品を多用している模様で、日本の技術との整合性は問題ないようである。主な研究はガリウム砒素レーザダイオード、ヂィジタル通信、ネットワーク(LAN)、高電圧工学、電力送配電、電磁界理論など。予め用意してくれていたと見え、送配電の研究室では大学院学生が10人程、ワークステイション:を使ってバンコクの電力需要の推定とそれに伴う電圧変動のシミュレーションを見せてくれた。それによれば午後150分から1時問と午後5時半から2時間は電圧が定格の80%に低下する。シミュレーション結果を実測値と合わせてみるとびったり一致する。バンコクの電力インフラストラクチャの整備の立ち遅れは大変なものだ。

そこでYoothanam先生に、電力需要対策として原子力発電:をこの国でも考えるか、と尋ねると、原子力発電は日本でもアメリカでも斜陽だ。だから、我々は考えていない、という返事が返ってきた。なるほど賢明な解答だが、日本やフランスを除く先進国では原子力発電に手痛い失敗をしたがゆえに、原発見直しをしているのだ。この国では、こと程左様に失敗することがないというのも、物事:を蚊張の外で応接することになって、それがまた逆に何もかもプレゼンテーションする原因になっているのだろうと、合点した。社会的システムというのは、良くも悪しくも首尾一貰した因果関係があるものだが、こういう国ではことのほかシステムの不備の因果関係が目立ちやすい。

研究・教育システムは日本型となっているようで、日系企業の人材採用には不都合はなさそうだ。しかし、そもそもこの国の社会は徹底的に階級社会であって、チュラーロンコーン大学でいくらハイテクノロジーをやっても一般社会がこれ:を受容するとは思えない。

この国では大学は雲の上にそびえている。雲の上にそびえる存在は、雲の下の俗世間に降りて来ることがないだげではない。俗世問の方も、雲の上に昇ろうとはしないから、両者が融合することもない。両階層は、それら同一階層の中だ甘で上昇思考:を持つだげだ。これが劇場国家タイにおけるアカデミズムの姿なのだろう。それなれば、ここの卒業生を日系企業の現地工場で雇用するよりも、在日本本社のR&D部門で採用して、その成果を現地企業で製造するような方策が考えられる唯一の策かと思われる。

12時近く、ここを去って、昼食をとる。サイアムスクゥエアの、タイ国初日の夜食べたレストランに行く。味は良いが昼問見るとなお一層店の美しくないのが目につく。

1時半、チュラーロンコーン大学日本語学科:を訪ねる。サワラさんと言う「魚の名前です」という女性教官が応対してくれる。当学科は、教官7(内現在2人留学中)で、全員が一室の大部屋形式の教官室になっている。ここの訪問は、相手にとって迷惑な様子である。30分程でここを辞す。去り際、掲示板に目を通すと、「日本人訪問者へ」という掲示がある。大勢の日本企業からの訪問者があって迷惑しているとか、服装に気をつけろとか、長居するなとか書いてある。これには閉口した。ここは日本語学科と言うのだから、生きた日本語を訪問者から学んだらよいではないか。ここにも、大学が社会と接触する積もりのない態度が読み取れる。

ところで、この国では学問にも序列がある。法律や哲学、文学などの人文学系の学問や学部が上位に位置し、経済や工学のような現世的?な学問や学部は下位に属す。上座部仏教の国であるタイでは僧侶は金銭を不浄として、これに一切、手:を触れないことが戒律になっている。この宗教的価値観は、金に関わる経済学や工学を尊敬しないという工一トスを育くむ。勿論、人々が金銭の不浄さを心から信じこれを忌避するなどということは断じてない。無いというより、実際は即物的金銭欲において人後に落ちない、といった方が正しいだろう。だから、彼らが金品に対して禁欲的に振る舞うというようなことは決してないが、金銭をあからさまに口にすることをはしたないこととする価値観は原則として存在する。こういう傾向は、西欧でもカソリックの国々には過去においてあったから、特にタイ国だけの特徴とは言い難いが、これが徹底しているところがタイ国のタイ国たる所以であろう。この為、工学部や経済学部に進学してくるのは、主に華僑系の学生であって、タイ国の上流家庭の子弟にとってこれらの学部はどちらかと言えばあまり魅力を感じない。

こういう特徴こそ、マックスウェーバが指摘した「資本主義の精神」を涵養しない基盤となる。その結果タイ国経済が、華僑に支配される土壌をも育くむこととなる。

3時ホテルに戻る。エレベータ内で2度停電した。一緒に乗り合わせたルフトハンザ航空のクルーが暗やみの中で、タイ国のことを呪って、私に賛意を求める。文明人には停電はたまらないのだろうが、こういうときマイベンライと言って平然としているのがタイ風なのだ、と心にも無いことを答えた。チュラーロンコーン大学の学生が見せてくれたシミュレーションを地でいっているようでおかしくなってきた。この調子で停電していては、この国でコンピュータネットワークが普及するには大分間がありそうだ。チュラーの或る助教授は、ISDNは後10年でタイ国でも構築すると言っていたが、この調子では今バンコクでサービス中のファクシミリと同様、サービスはあってもISDNで通信がなされことはなさそうだ。それでも、先進国にあるISDNが、この国にも有るということが大切なのだから、やっぱり10年後には本当にバンコクでISDNサービスが実現しているのかも知れない。部屋に、1週問分8735バーツ58サタンの講求書が来ている。

昨夜の北京ダックのおいしさが忘れられず、また食べたいという私の申し出にソムサクさんは快く応じてくれた。夕べよりもっとおいしい店があるからというので、江尻さんも加えて例のメンバー5人で午後6時ダウンタウンヘ繰り出した。ここは、香港系の人の経営するレストランで何もかもうまい。マネージャーは日本語と英語とタイ語をちゃんぽんにしゃべりながら愛敬:を振りまいている。活き魚がうまい。タイ国は漁業資源の豊かさも大変なものだ。何もかも美味。この調子では日本に帰って食べるものがなさそうだ。少々食べ過きながら9時ホテルヘ戻る。ll時半就床。  Pmll:15就寝


 

 

 

92()晴れ猛暑

 

7時起床。早々にシャワーを使う。持病の痔は少々良好なるも快調というには程遠い。

740分江尻さんがロビーから電話をかけてくる。直に降りていくと須貝さんとオーム譲もそこに居る。4人で朝食を摂る。須貝さんは、今日は多忙だそうで、直ぐに会社に戻るという。

昨日会ったばかりの8時半よりカセサート大学工学部長のBoonson Suuachirt博士とロビーで会う。今日は、国王計画による技術者の養成数を増やすことの方策を産学官で討論する会を当ホテルで開催するとのこと。Suuachirt博士は、今日の会合の議長だそうだ。タイ国では、技術系大学の学生は11大学(中私大2)2000人しかいない。ところが、日系企業の進出でローカル企業では学卒エンジニアが採用できず困っている。そこで、これを3000人に増やすことによって解決したいが、今日のミーティングはその対策を作ることだという。

9時過ぎ、カセサート大学日本語学科へ行く。ここは、オーム譲の出身大学でもある。日本語学科の主任教授と1時問対談。ここも、教官は全て女性で、その中半数は日系企業などに勤める日本人の夫人達がチュータとして、日本語を教えている。この国の表向きの形式では、男尊女卑であるから、日本語学科の教官が女性で占められているということは、日本語などを学ぶのは女・子供のたしなみぐらいに思われているということであろう。日本語学科というのであって、日本文学科ではないから良いのかもしれないが、日本文学は、演習の中で教材として扱う以外には全く取り挙げられてはいないという。学生達も、日本文学には興味がないとのこと。こういう傾向は、カセサート大学に限らず、チュラーロンコーンでも、タマサートでも同じであった。

タイ国のように、著しい成熟型社会では、欄熟した退廃が人々の精神を覆うから、優れた文学が興っても不思議ではない。ドストエフスキーやトルストイは、退廃した前近代的資木主義のロシアで生まれた。成熟社会の、欄熟の中で、人は研ぎ澄まされた感性を文学の中に求めるからだ。そして、通例、社会が激しく一方向に進むときには、ショーロフの『ドン・コサック』のような体制賛美の文学しか現れず、同時代に迎合されながらも、次の時代には忘れ去られていくような作品しか現れない。本当は、私はタイ文学に全く不案内なのだが、どうもタイ国の現状はこうはいかないようだ。学生達の読書傾向は、漫画に向かってしまって、文学には全く関心を示さないと、主任教授は嘆いてみせた。アジアでも、優れた文学を持つインドや中国、韓国のように行かないところがタイ国の特徴のようだが、残念ながらその原因は分からない。

ここは1時間でいとまを乞い、その後、国王計画による農産物の展示場などを視察する。チェンマイの実験農場から毎日送られてくる農産物を市場に出荷する選果場では、野菜などが山と積まれている。タイの平野部は海抜Obの湿地帯だ。だから、耕土は雨季には水に没する。乾期はパンバンの石になってしまう。だから、こういう平野部では野菜はとれない。その為バンコク近傍の地域では疎菜類が発達しなかった。タイ国の野菜はだから貧弱だ。野菜は北部の高地でしかとれない。お化けのような大きな人参、成育不全のような小さなキャベツ、蛇のように長いゴボウ等々が大勢の従業員の手で洗浄されている。洗浄作業を機械化したいので、教えて欲しいと案内の農学部の教官が言う。こういうものを機械化するのはわけもないことだが、この国では人手が余っているのですから、機械化など考えない方が良いのではないですか、というと国際競争力の為には必要だという。どうしてもというのであれば、江尻さんを通してプロジェクトを知らせてくれるよう、返答する。

予定より早く、12時ホテルに帰る。ここでオームをリムジーンで会社に帰し、江尻さんとホチルのレストランで昼食を摂る。

午後1時、須貝さんが社長車できたのでこれに乗って、江尻さんと3人でタイ国の文部省に行く。文部省中等教育局次長を訪ねる。この国の義務教育は現行6年だが、これを12年にしようとしているという話から出発した。次長の息子さんが、いま神戸大学に留学中だというので、日本人大学教授の私に対するサービスは大分良好。学校基本調査について質問する。ところが、この人にはデータの持ち合わせも、記憶も全く無い。そこで、部下を2人呼びつけて、統計資料の説明をさせる。それによれば、義務教育を受けている率は、就学年齢層の90%だという。そんな筈はない。もっとずっと低い筈だ。どうも、このデータは或る日、子供達を地区の学校に集めて、点呼した数値を載せたもののようだ。

話をしている間に分かってきたことだが、どうもこの次長さんは、義務教育というのを国民が受けるべき「義務の教育」というように考えている。西欧先進国では、義務教育というのは、国家が義務として国民にサービスしなければいけない教育、しかも教育権は国民が持つから内容は国民の合意を必要とする、と捕らえている。我が国の文部省も、どちらかと言えぱタイ国の程度を出ることはないようだが、日本の戦後教育のスタートは西欧先進国の義務教育観から出発した。この高官のような考え方が指導者層に有る限り、この国の義務教育が成果を挙ぱることはないだろう。国民が、子弟に義務として教育をすべきなのに、それを怠っているから字が読めない。それは、政府の責任ではない。法律はあるが、政府は罪に落としてもそれを守らせるような乱暴はしないから、就学率が悪いのは文部省の責任ではない。会話の端ばしから、これがタイ国の教育行政の論理のように聞こえてくる。

一外国人から見れば、真相はこうではないようにみえる。人々は、金がないから子弟を学校にやれない。学校に行かないから職業能力を持てない。だから彼は貧乏だ。だから、彼が親になったとき、子供を学校にはやれないか、やる価値:を知らない。こうして、現世にもある輪廻に縛られて、人々は文盲を幾世代にも亙って続けていく。

各レベルの学校卒業者の人口比などを聴いている中に職業教育に話題は転じ、職業学校について集中する。それは担当が違うので、何んならボーケイショナルエヂュケーション担当の局長を紹介しよう、と言われる。それでは、ということで職業教育局長へ連絡をとってもらう。3時、ここを訪ねる。ここは専門学校、短大を総括する局である。局長は流暢な英語で話しまくる。この国では、職業教育のシスチムは先進国並に非常に多種に亙っているようだ。しかし、その結果、卒業者がどういう産業に職を得ているかというようなことは、統計がないので分からないという。どうも「起承転」まであって、「結」のないタイ国一流の流儀がここでもまかり通っているようだ。

この局長室は冷房が入っているが、一般行政事務をしている大部屋は天井に大きな扇風機がゆっくり回っている以外に、涼を作りだすものがない。熱いといったらない。こんな暑さのなかでは良い方策も浮かばないだろう。4時こここを辞して、途中江尻さんを自宅に下ろして、ホテルに戻る。

シャワー:を使っていると、515分江尻さんがロビーから電話。真樹さんは居るかとの事。彼は今日は、小谷さんとソムサクさんの3人でゴルフに行っていて終日不在だ。今夜は、タイニスカ社長主催の晩餐会に招待されているが、山本さんとはそこへいく方法の打ち合わせがしてなかった。ひょっとすると、真っすぐにレストランの方に向かうかも知れない。外から連絡があるとすれば、私の部屋に電話が入るだろうから、電話番を私がし、江尻さんは彼らがホテルに帰って来たらばそこで彼らをつかまえる、ということにして私は部屋で待機する。6時になっても彼等は帰ってこない。ロビーに降りて、江尻さん、迎えに来てくれた須貝さんと話し込んでいるところへ真樹さん、ソムサクさんが息:を切らして帰ってきた。

彼ら2人と須貝さん、江尻さんと2台の車に分乗して、ダウンタウンヘ繰り出す。時刻は6時、バンコク名物の交通渋滞に遭ってしまう。招待時問を30分も遅れて会場に着く。行ってみれば、そこは日本大使館近くの中国風の大レストランである。すでに、宮久保社長、篠原さん、オーム嬢が今やおそしの態で待っていた。

話題は、専らこの国での今後の日系企業のビジネス展開が、タイ人に任せて行えるか、ということだった。私は、今のこの国の社会制度、教育組織、価値観といった基木的な枠組みがドラスティックに変わる可能性の無い中では、それは自ずと制限されたものに止まるであろう、と主張した。宮久保さんは、ロマンとしてお前の言うことは面白くない、と言われる。その通りだろうけれど、私には工業化や近代化というのは、ただ何となく進展するものだとは思えない。それには、それを支えるパラダイムが必須であって、この国にはそれが全く無い。だから、好むと好まざるとに拘わらず、この国で工業化は不可能だ、と今日までの調査から、仮説の域は出ないものの、結論していた。結論が平行線のまま食事を終える。宮久保さんも、須貝さん、木下さん、篠原さんもみんなこの国が好きで好きでたまらなくなった、という。そういう彼らの神経を逆なでしたようで気がひける。彼らもこの国に来て2年、何時しか熱い気持ちを持ち始めていたのだ。固い話に終始して、一緒に来ていたオーム嬢にはかわいそうなことをした。

ここで一次会の後、オームと江尻さんが帰宅するのを見送って、残りの6人で、パッポンにあるバンコクきってのキャバレーに繰り出す。あきれる程の絢欄豪華。フィリピン女のボーカルだけが際立って、店内は漸く目を凝らさなけれれば何も見えない程度の照明。薄暗やみの中に女達の衣ずれの音がし、香水の香りが辺りを覆う。まさにハーレムだ。もうこうなったら連れ達と談笑という雰囲気ではない。こういうリッチさが、この街では、この建物の直ぐ裏手にある貧困となんの調和もなく共存している。

ここでは、客に付いている女性は終夜一緒に居ることが出来るという。私に付いているホステスは暗がりの中とはいえ、仲々の美人だ。ただ、こういう「制度」が私の「趣味」にはなじまない。そこで、彼女には、私に対してだけはその必要が無いこと:をソムサクさんの通訳で伝えてもらって、帰ることにした。今日迄バンコクではすべからかく女をさけてきた。この国で、日本人として、女性と縁を持たないのは大変なことだと分かってきた。車中ソムサクさんがしみじみと言う。「伊藤の先生、タイの心分かるな。先生、タイ人な」。とんだ尊敬を、ソムサクさんから頂戴した。この旅で拾った勲章だと思って、彼の賞賛を黙って受けた。本当は、このソムサクさんも、二世とはいえ立派にタイ人だ。だから同胞の女性に対する日本人の買春行為は彼の心:を痛めていたのだろう。日本人が、敗戦後米軍兵士に抱かれるパンパンに心を痛めたのと同じように。ソムサクさんの心の内側を覗いたような気持ちがした。

眠気も来ないが、午前1時この日記をつけなて部屋の灯かりを消す。 AN00:40


 

 

 

93()快晴、猛暑

 

午前635分、山本さんの電話で目を覚ます。大急ぎで身支度の後、715分ロビーに降りる。山本さん、ソムサクさん、オッさん、それに女給のポーイさんが待っている。今日は、この旅でただ一日の休暇である。大いに、自然を味あおうというわけで、東洋一と言われるパタヤビーチに繰り出すことになっている。パタヤは、ベトナム戦争当時、米軍の保養地として開発されたリゾートである。シャム湾の東側、バンコクからは南東の方角に当たる。男ばかりでは殺風景だというので、昨夜のキャバレ一の女給・ポーイを誘ったところ、彼女も一緒に行くというので、今日のみちゆきに相なった。

朝食の後、パタヤに向かって出発する。雨季だというのにこのところ雨らしい雨がない。空は澄みきって快晴。極めて暑い。車内は目一杯冷房しているが、陽の当たる部分が猛烈な暑さだ。この国は太陽に近すぎる。

メナム川河口のスラム街を横に眺め、市外に出ると日本資本の進出工場や所有地が無闇に目につく。やがて遠く前方に、山が見えてきた。日本に居れば毎日眺める山も、タイ国入国以来全く見なかったことに、初めて気がついた。自然の景観の中に山が有るということは良いものだ。ハイウェイをとばして、途中山本さんからココナツの葉に包んで焼いた焼き飯をもらって食べながら、10時パタヤのゴルフ場に到着する。ここでソムサクさんと山本さんを降ろし、オッさんの運転する車で海岸に戻る。昼食を街道筋のニッパヤシぶき屋根のレストランでとってから、ソムサクさんの妹、つまりオッさんの姉の所有するセカンドハウスに行く。

ソムサクさんの妹夫婦は、ここにセカンドハウスを持つミドルクラスである。浜からたった50m程の距離にある4DKの別荘はいたって快適。学卒の妹は、建築会社を営むチャイニーズタイの夫との間に2人の子供を持ち、いまもう一人家族を増やすべく大きな腹を抱えて、リッチに生活している。今は、2ヶ月後に出産を控えての静養の為と、夫がこのパタヤビーチに36階建てで720戸を収容するコンドウミニアム(日本でいうマンションのこと)を建設中で、専らこちらで仕事をしていることもあって、しぱらくここに逗留しているとのこと。大きなおなかを抱えてソファに横になりながら、2人の若いタイ人メイドに、突然の客の応対を命じている。

12時、更衣して3人でビーチに出てみる。浜辺には、火炎樹やブー`ゲンビリヤの木が列植されて美しく、水辺は遠浅、水はトロピカルブルーに澄んで暖かく、体を沈めてみると母の子宮にかえったような安らかさだ。土曜日だというのに海水浴客はない。客より、客を相手の物売りの数の方が圧倒的に多い。吹く風は優しく、眠気:をもようす。ひと泳ぎして、砂浜でしばらくまどろむ。ポーイは海にも入らず眠っている。金槌のオッさんは、浮き輪を使って懸命に泳ぎの練習をしている。彼のような、金持ちの御曹子でも泳げないというのは、この国の学校にプールが完備していないからに他ならない。この国で、金持ちも、貧乏人も平等なものと言えばこういう社会的基盤からくる制約、つまり揃って金槌であるというくらいのものだ。

3時、十分泳いで、十分に眠って、十分過ぎるほどに南国の陽に焼かれて、オっさんの姉の別荘に戻る。シャワーを使ってテラスに行くと、大量の果物と、魚と、ビールが出ている。ソファに寝そべったオッさんの姉と大声でしゃべりながら飲んだり、食ったり、笑ったり。ここは世界の楽園だ。居ながらにして極楽だ。ただ、ちょっと蝿が多い。楽園にも蝿が住んでいるのだ。彼らも、魚を食ったり、果物の密を飲んだりしているから、メイドがつきっきりで追いかける蝿取り棒に引っ掛からない限り、彼らにとってもここは楽園に違いない。日本の蝿がかわいそうになってきた。そんな、話をしているところへ、ゴルフに興じて疲れた二人がわいわい言いながら帰ってきた。

ソムサクさんの義弟も加わって、日本に行った時の、日本料理のまずかったこと、物価がやたらと高かったこと、寒くて閉口したこと、ホテルは高いくせに部屋が狭かったこと、人々が無闇に忙しく立ち働いていたこと、それに引きかえいまここに作っているコンドミニアムは日本流に言えぱ4DKだが海側に面している部屋でさえたったの60万バーツである、等々、愛国主義者の当方を、さんざんなぶりものにする話題に終始して、4時、バンコクに向けてここを後にする。

車が走りだすと早速、愛国心を傷つけられた日本人2人は、この国でリッチなのは君達華僑ばかりでタイ人は貧しいのだという、最も勝ち目の高いところに話題:を移した。そこで、夜な夜な酔客を相手に美しくあるべき青春を売って生きているポーイに登場してもらうことになった。ポーイは師範学校を20歳で卒業して小学校の教師をしていたという。そこは、タイ国北部の都市チェンマイから4時問程南方の村であった。そこでは子供達は食べ物も少なく学校には行けない。だから学校はあっても児童が居なかったという。

児童・生徒の居ない学校はタイ国といえども学校とはいわない。そこで彼女はよく自分の家の米を盗んで子供達に与えたという。彼女の家は、娘をボーケイショナルスクールに進学させる程度の財力があったのだろう。

しかし、一日分の米を与えれば、1日だけ学校に来る児童は、米の切れ目が縁の切れ目。翌日はもう来ない。有り余るほどの豊かさでもない彼女にはそういう生活は持続出来ない。しかも先生の給金は安い。とうとう1年半の教師生活に絶望して、故郷:を出奔。バンコクに出てきた。ヤマハのオートバイのセールスをして生計が立てられるようになったから、両親をバンコクに呼んだ。すると、セールスだけではやっていけなくなる。そこで5か月前からキャバレーに勤めるようになった、という。いま23歳。恋人がいるが、いま自分のしている毎日の生活上の事実を彼が知ったらきっと結婚はしてくれないだろう。遥か前方地平線の彼方を、気抜けしたように眺めながらポーイはそんな身の上:を語る。

いまの生活は金になる。特に日本人を相手にする夜は金になる。そんなに稼いでどうするのかと尋ねれぱ、その金の使い方は決まっている。出来るなら彼との結婚の為の家を作ること、両親の生活を援助すること、東京ディズニーラントを見に行くこと、それにお寺に喜捨(タンブン)して次の世にも人問に生まれてくることをお願いすること、に使うという。人問に生まれてきたら何になりたいかと尋ねれば、出来れば日本人になりたい、という答えがすぐに返ってきた。これでよし。我等2人の愛国者はこれで一本取ったことになる。

彼女の金銭的努力の目的が東京ディズニーランドと、死後の復活にあるというのは面白い。この国の近代化の為には、先進国が全てそうであったように、人々が、金銭欲の合理性と、金銭の拡大再生産のための投資と、その為の禁欲の価値観、それに自分の職業・労働の神聖性を信念として持つことが必要なのだ。ヨーロッパの禁欲思想は、カルバン主義やピューリタニズム、メソジスト派などのプロテスタント諸派が源泉であったし、日本やNIEsでは老子・荘子の禁欲主義が近代化基盤を支えた。これが、東アジアの工業化・近代化へのモティベーションを与えていたのだろう。それが証拠に、タイ人には無いこういう文化基盤を持っていたから、この国で華僑は繁栄できたのだ。翻って、タイ人ポーイは、手にした金を寺と東京ディズニーランドと家と両親とに支出するという。この国では、平均値をずっと上回る教育を受けていたポーイがこういう価値観でいるということが、善悪ではないにしろ、この国の近代化を阻害する。しかも、売春婦という職業?に神聖視は出来ない。

私にとって、今度の旅の目的は、非進歩型社会タイランドの、工業化による近代化の成否を探ることであった。それが、売春婦ポーイの話から見えて来たように思われる。この度の旅の最大の成果が、物見遊山のパタヤ観光のこんな暑い車の中で得られるとは思ってもみなかった。もと来た道を車は快走している。前方蛇行するメナム河が見えてきた。バンコクに戻ってきたのだろう。川辺に、果てしなくつづく東洋一のスラム街が見える。ここで、ポーイに別れを告ぱる。すんなり延びた奇麗な体が車を降りて、こちらを振り向きもしないで去っていく。再び生きて彼女と会うことはないだろう。長い髪をなびかせながら遠のいていく女を懐かしい気持ちで眺める。彼女が死んでも再び、キングコブラではなく人問に、それもタイ人に生まれ変われるように、私もお祈りをしなければならない。

チャオプラヤーの川面に西日が当たって、それが車の天井を昭らす。バンコクに歓楽の夜が再び近づいてきた。

ソムサクさんのオフィスに立ち寄って日本に予定通り帰る旨の国際電話を発信。直ぐに、山本さんと私の主催する「さようならパーチィ」会場に直行。7時に着く予定が、急に道路が一方通行になっていてえらく時間:を空費してしまった。710分、予定より10分遅れて、今夜の会場・中華料理店に到着。須貝さん、江尻さん、ソムサクさんと2人の息子オッさん、バシフィック・オリエントCo.Ltd専務の柳瀬修三さんを招待してある。この10日間無茶苦茶にお世話になった皆さんだ。宮久保さんも招持してあったが、所用があるとの事でとうとう姿:を現さなかった。

まず、この旅が生涯で最も充実したものであったこと、江尻さんにはまことに適切にヒューマンネットワークを紹介してくれ、かつタイ国の現状を的確に教えてくれたこと。ソムサクさんとその家族には心から応接してくれ、それは私には実に平安であったこと、かつさんざんに散財させたこと、須貝さんと宮久保さんにはおんぶにだっこの迷惑をかけたこと、・・そんなお礼を述べて、会に入る。子豚の丸焼きをメーンディッシュにフルコースで接特した。山本さんとの割勘は65000バーツずつだった。

気の置げない人々と、大いに語り、大いに呑んで、したたかに酔った。生涯でこれ以上に楽しく酔った経験を思い出せない。タイ人と結婚し、タイに骨を埋めるという柳瀬さは、アジアを救いたいという。ビルマでは、学生が圧政を打倒するといって、連日デモをしている。ビルマはこの国の最も長い国境線を持つ隣国だ。風雲急を告ぱるビルマは夜明けを迎えることができるのだろうか。時折、柳瀬さんがタイ語に通訳してくれるので、ソムサクさの子供達にも話の内容は分かるだろう。この国を支えるのは君ら少年だ。目を輝かせて聞いている。熱く語る柳瀬さんと江尻さんの話を聞きながらバンコクの暑くて長い夜が更けていく。

別れの挨拶もかねて、タニヤの「銀嶺」で二次会。とっぶりと更けたバンコクの夜を、午前2時ホテルに帰館。これで全旅程を事実上終わる。そのまま床につくも、めくるめくこの10日間の事共が脳裏をかすめて眠られない。ブラボー、ブラボー!!タイランド!! 3:00


 

 

 

94()タイは晴れ/5()日木は雨

 

午前730分目が覚める。寝過ごしだ。直ちに起床してシャワーを使う。荷物をまとめ眠い目を擦りながらロビーに降りる。江尻さんがこの10日問と同じようにソファに掛けて火もちの悪いバイプたばこをくゆらせながら待っていてくれた。江尻さんから、万病に効くというアジア黒熊の胆を別れの土産にいただいた。920分ソムサクさんが迎えに来る。江尻さん、ソムサクさん、真樹さん、それに「銀嶺」の女給ラッチャニーざんの5人、タイ粥で朝食をとる。

10時ホテルをチェックアウト。車で出発。途中ラッチャニーを降ろし、ソムサクさんのオフィスヘ。山本さんは、ソムサクさんとオッさん相手に商売の交渉を詰めている。

昼食の後、オッさんの車で、江尻さんとタイ大丸百貨店に行って、日本への土産を買う。3時半にソムサクさんのオフィスに戻る。ソムサク夫人の買ってきてくれたドリアンを食い納めに食べる。

夕方6時、市内のファミリーレストランで、ソムサクさん、山本さんとタイ国での名残りの夕飯を摂る。タイスキをおじやにこしらえて、ビールを呑んで酔う。8時半ドンムアン空港へ。ソムサクさんは、私達が遅れては困るというので、時速120Kmの猛スピードで国道1号線を北に飛ばす。ここで、事故を起こして死んでも大丈夫だ。人間でなく豚か猿にかも知れないが生まれ換わってこの世に帰れる。酒の酔いと別れのさみしさを吹き飛ばすようにソムサクさんはスビードを緩めない。どうやら、9時半、無事バンコク国際空港に到着した。

空港ロビーで江尻さん、宮久保さん、須貝さんが首を長くして待っていてくれた。3人にには本当にご迷惑をおかけした。

別れの挨拶もそこそこに直ぐにチェックイン。見送りの人々と別れ、免税店でちょっと買い物:をして、10JAL718便、バンコク発成田行きに搭乗。機は10時半ドンムアン空港を離陸。眼下にバンコクの街の灯が見える。何もかも、良くも悪くも何もかも、古さも新しさも時問を越えて何もかも呑み込んだ国・劇場国家タイ王国がはるか下に去っていく。

あそこでは、今夜も歓楽と悲劇と喧騒が渦を巻いていることだろう。娼婦のマリーやオーさんは今夜も番号札を胸に付けて飾り窓に座っているだろうか。道路では無数の少年や少女たちが、オーキッドの花飾りを運転手に押し売りしていることだろう。今宵も王太子の行幸があって道路は渋滞しているだろうか。去り難い気持ちが胸の中一杯に湧き上がってくる。

早く気分を変えようと日本の新聞に目を通す。一面はすべて昭和天皇の下血の記事で埋まっている。あの国と日本と、どちらが良いと言うのではないが、もうちょっとタイ国は何んとかならなけれぱいけない。しかし、日本もどこかタイ国と似た不条理の中にある。良い意味で近代化しえない、アメリカやヨーロッパには無い不条理を日本国も体現している。アジアに共通の前近代性だ。

機は、何時しか水平飛行に変わった。機外には灯かりが全く見えない。ラオス上空にでも差しかかっているのだろう。こうして座っていれば明日は日本に着くだろう。バンコク時間12:20

 

95日。JAL718便は、8分遅れて雨のTYO国際空港に613分、無事着陸した。

ススキの穂が伸びて成田はすでに秋の気配だ。バンコクのあの暑さが、遠い昔のように思えてくる。

ラッセが、あの日と同じ笑顔で空港ゲートに出迎えてくれる。激しかった文化の基盤を探る旅は終わった。収穫は大きかったが、頭の中をかけめぐる問題は行く前より断然多くなってしまった。今日からまた、多忙が待っている。それが、進歩型社会日本に住む人問の宿命なのだ。       (920脱稿)