情報の一世紀

山梨大学 伊藤 洋

(山梨日々新聞1998年元旦特集)


1876310日,グラハム=ベルは電話を発明した.だから電話の歴史は優に1世紀を超えた.

明治の日本は貪欲だった.早くも18771113日には電話機を輸入し,しらみつぶしにその構造を調べたらしい.その成果があってか,1881年(明治14年),沖電気創業者沖牙太郎は国産第1号電話機を製造した.

山梨県に電話がやってきたのは,それから30年も経った1906101日.150台の加入で始まった.もっとも,それより以前,1879615日には東京・甲府間で電信が始まっていたから,かぼそいが電気通信の道は既にできていた.このかぼそい道を伝って若尾一平,雨宮敬次郎達は,勇躍近代ビジネスに棹差していった.

歴史はめぐり,つぎに山梨県で電話が話題になるのは1962930日,甲府・東京間に自動即時化がなった時である.この時期,電電公社は積滞300万台,つまり設置しても設置しても常に受注台数300万台が溜まって,注文がさばききれなかったのである.ついに,「電話は出んわ」が流行語になった.言うまでもなく,これは高度経済成長に促されての需要の急伸であったが,ここ山梨では少し事情が異なる.高度経済成長は,ここでは人口の流出,それによる過疎に結果したから,散りぢりバラバラになった家族との絆を求める心寂しい媒体としての電話であった.だから,公社は積滞対策として農村集団電話による急場凌ぎの策でこれに応えたのである.

いま,時代は変り,人も変り,山梨県はニューメディア番付で47都道府県中第3位という先進県になっている.間もなく,中央コリドー高速通信実験プロジェクトにより,この地域を貫通する日本一の超高速ディジタルバックボーンネットワークが通ることになってもいる.これとCATV網などを通じてインターネットが各家庭まで直接つながり,山梨と世界はがっちりと結ばれる.新しい情報通信の夜明けはすぐそこに来ているのだ.