山梨大学総合科目

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工学部コンピュータメディア工学科
伊 藤  洋

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報告書提出方法


はじめに

ヨーロッパ渡来の科学

進歩する科学技術

真理としての科学

決定論的世界観

要素還元主義と巨大化

サイコロを振る神……おわりに


  西暦:             歴史的事項       
140:   C=プトレマイオス,『アルマゲスト』を著し,天動説を確立
1507: コペルニクス,地動説を発表                   
1633:   ガリレオ,『天文対話』出版に伴う宗教裁判に屈服    
1666*:  アイザック=ニュートン,万有引力の法則などを発見   
1699:  ニュートン・ライプニッツ,微積分法を発見         
1900:   M=プランク,量子仮説を発表                
1905:   アインシュタイン,特殊相対性理論発表          
1913:   N=ボーア,量子論を発表                   
1916:   アインシュタイン,一般相対性理論を発表         
1927:   ハイゼンベルク,不確定性原理を提唱           
1992:  ローマ教皇庁,地動説を承認し,『天文対話』を解禁する

(*ニュートンの力学三法則や万有引力の発見年次は,後にニュートン自身が語ったもので,これら法則は,1687年出版の『自然哲学の数学的原理』(「プリンキピア」)で初めて明らかにされたものである.)

1.はじめに

 多くの人々は,「科学技術」は日進月歩で進歩していると考えています.それどころか,秒進分歩だなどと大げさな言い方をする人もいます.
 また,多くの人々が,科学技術がこれ以上発達したとき,私たちの生活はどのように変化するのだろうかと期待と不安を交錯させながら案じています.
 たしかに,私たちの日常生活を考えるとき「科学技術」との関係なしにことを済ますことはできそうにありません.しかし,それでいて,かくも大きな影響を与えている「科学技術」の特性についてじっくり考える機会は少ないようです.ここでは,その特性を幾つかの角度から眺めながら,「科学技術」の将来について想いを致してみようと思います.
 ここで,無意識に「科学技術」という言葉を使いました.以前では,「科学技術」という言葉は,「科学と技術」,「科学・技術」というように二つを併記するか,それぞれを分けて話題にするかしていました.すなわち,過去においては,科学と技術は,全くとは言わないまでも別のものでありました.しかし,現代では「科学技術」と一つの語としてまとめて呼ぶ呼び方が徐々に定着しているようです.
 それでは以前,科学と技術とはどういう相違をもっていたのでしょうか.古代ギリシャの知的流れをくむヨーロッパでは,科学は知的観念の営み,すなわちフィロソフィー(愛知=哲学)であり,技術は生業(なりわい)の中の技,すなわちテクネー(技能)でありました.こういう分類では,科学と技術とは似て非なるものであり,敢えて言えば,哲学としての科学に対して技術は,知的に低いランクのものとして位置付けられておりました.
 技術を科学に比して低いものとする観念は,ギリシャでは奴隷制度が完備していて,生活の中の技は奴隷の技能や労働に依存しており,多くの「市民」にとって技術は無縁のものであったからだと言う人がいます.理由はともかく,こういう観念は,ヘレニズム文化がヨーロッパ奥深く伝播していくのと一緒に伝えられていきましたので,ヨーロッパ,わけても東ローマ帝国の版図の中にあり,東方教会・ギリシャ正教の影響下にあった東ヨーロッパでは現在でも根強く残っております.
 このように科学と技術との間に序列を付す考え方は,東欧だけでなく西欧でも色濃く残存しております.その証拠の一つに,英国などでは大学に工学部(faculty of engineering)という名称の学部がありませんでした.他方,米国はさすがにプラグマティズムの国ですから,工学部は日本同様数多くの俊秀を集める学部ですが,それでも博士の学位は哲学博士(PhD)であって工学博士ではありません.このように科学と技術とは古来峻別して使われていました.

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 しかし,現在ではこれを分けることが難しくなってきました.その主な理由は,工業社会における技術革新が,国家間の軍拡競走や企業間の熾烈な開発競走の中で不断に発生し,技術が日常生活の生業の技・生活の智恵というレベルから著しくかけ離れていったために他なりません.そしてそれをドライブしていったのが科学であり,その成果が技術を押し上げ,それが正のフィードバックを起こして,科学を進展させていきました.こういう科学と技術との絡み合った相互関係が,やがて科学と技術とを分けることを不可能にしていきました.したがって以下,特に断らない限りここでは科学と技術とを一体のものとして語っていくことにします.


2.ヨーロッパ渡来の科学

 それでは,科学技術,とりわけ自然科学とは何でしょうか.最初にそれから考えていくことにしましょう.
 色々の定義がありえますが,人々の自然世界についての認識が科学の謂(いい)であると考えることができます.
 科学が人々の自然認識であれば,自らを取り巻く自然を認識しない人間はいませんから,あたかも酒がどんな民族にも存在するように,科学を持たない社会は歴史上存在しません.つまり,全ての時代,全ての社会において科学は存在したと言って過言ではないのです.
 それなのに,現在の科学技術を眺めてみますと,どうみても西欧の科学技術こそが科学技術であって,インカ文明とか古代印度文明とかいうようなものが正統的科学技術の中には入れないような雰囲気があります.しかし,これは上の定義からすれば明らかに間違いです.

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 それはともかくとして,それではどうして西欧の科学技術だけが正統な科学技術とみなされ,それ以外の科学は正統的科学とみなされなかったのでしょうか.それは,どうも時間に関わる認識の相違に見ることができるようです.
 ヨーロッパのキリスト教世界での時間の認識は,非再帰的である(キリスト教では,キリストが磔刑に処せられ,復活して昇天したという事実は,歴史上ただ一回しかなく,その後は「神の国」が実現したとされています.神の国は永遠に不滅ですから時間は循環しません.)のに対して,古代印度・エジプト・インカや古代ギリシャなどにおける人々の時間認識は循環的です.循環的な時間というのは再帰する時間のことです.ちょうど一日が24時間の周期で変化し,四季が365日で巡ってくるように,時間は周期的に循環するものです.だから現在が何度目の再帰かは分りません.永遠の過去から永遠の未来に向って時間は,小止みなく今を刻んでいると考えることができます.したがって,現在は果てしなく古いということもできますし,全く新しいとも言えるのです.正弦関数の値が知られていても,それから逆に変数値を一義的に求めることができないのと同様に,こういう時間認識からは新旧の価値判断は生れてきません.つまり,進歩という思想が育まれることがないのです.こういうわけで,古代印度やギリシャから,いわゆる近代科学が生れなかった,あるいは生れにくかったとみることができます.
 他方,時間が非再帰的とする認識を持つ世界では,現在が歴史上最も新しい時であり,その現在もやがて過去におしやられて古くなるということになります.こういう世界では,過去と現在・未来を峻別し進歩という思想が生れ,改善や改良が頻繁に行われます.科学技術とは,人々を取巻く自然世界の認識ではありますが,私たちが正統的な科学技術として認識しているものは,その認識が時間と共に改良され「進歩」して行くもののみに限定されているということが分ります.
 そういう意味で,進歩思想を背景としたキリスト教世界の時間認識こそが,進歩する科学技術を推進し得たということができます.そして,その進歩の歴史を驚異を持って眺めるとき,西欧の科学技術が正統的科学技術として人々に評価されたのだということができるでしょう.
 それゆえ,以下で考える科学技術は,欧米渡来の自然科学に限定して眺めていくことに致します.その特徴である進歩とはどういうものなのか,先ず初めにこれをとり上げましょう.

3.進歩する科学技術

 今までのところから科学技術は西欧起源のものであり,それは進歩するものであるということになりました.そこで,その進歩の特性をまず調べておきましょう.
 科学は「進歩」しますが,必ずしも単調に進歩するものではありません.現代科学が遠くギリシャ時代にその淵源を辿れるからといって,現代科学がギリシャ思想を体現しているなどということはありません.途中に幾つもの革命的な変化があって,それを乗り越えて現代に至っています.こういう大変化を科学革命と呼ぶことにします(冒頭の年表参照).たとえば,プトレマイオス天文学を例にとってみましょう.言うまでもなく,プトレマイオス天文学は,天動説です.だから現代では,この天文学は無知の時代の学問と思われています.その評価に間違いはないのですが,それでもこの学説は,1507年,コペルニクスの地動説が現れるまで実に1300年間人々を魅了し続けました.

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 あのように,天動説が人々に受け入れられたについては差し当たり二つの理由を挙げることができます.
 その一つは,何といっても天動説によって星辰の運行がよく説明できたということです.事実,これによって来るべき月食や日食の予測が可能でありました.しかも,1300年間にこの学説はどんどん改良され,15世紀には一部の例外を除けば殆ど完璧の域に達していました.そして,私たちが「科学の進歩」という言葉を使うとき,間違いなくこのような1300年間になされた理論の改良・改善の結果を評価しているのです.
 天動説が長期にわたって受け入れられた第二の理由は,天動説が,唯一神宗教・キリスト教の思想によく適合したということです.天動説は,星辰が地球を中心にして円運動(円には特別の意味があります.円は最も整序な,最も知的な形状だという考え方が,古代ギリシャ渡来の思想として中世ヨーロッパにはありました.序でに言えばそういう整序さのことを宇宙(cosmos)と言います.)をしながら回転しているとする説ですが,その地球には神と子と聖霊とがいて,宇宙を創造したと考えているからに他なりません.つまり,地球は宇宙の無数の星たちの中でも,特別の意味と意義を持った尊い星です.それゆえ,他の星々はこれを中心に戴くのが当然であります.これなどは,まさに科学技術が,上述のように人々の自然世界の認識であるということの格好の例証であるということができましょう.
 こうして,プトレマイオス天文学は,長期にわたって天文学の中心に君臨してきたのですが,コペルニクスの地動説が提案されるや周章狼狽(しゅうしょうろうばい)の体に相なります.人々の自然世界認識は根底から覆され,科学技術は最早信頼を得ることができません.教会は,プトレマイオス天文学と同一の場所にその基盤を持っていましたから,この革命的学説を受け入れることは自らの権威失墜につながります.それゆえ,これを異端として退けるところとなりました.(とりわけ,宗教改革の旗手M・ルターにおいて顕著でありました.ルターは,『ヨシュア記』第10章12・13節の記述「‥‥「日よ,ギベオンの上に止まれ,月よ,アヤロンの谷にやすらえ」.民がその敵を打ち破るまで,日はとどまり,月は動かなかった.これはヤシャルの書にしるされているではないか.日が中空にとどまって,急いで没しなかったことおよそ一日であった.‥‥」を根拠にして地動説に激越な反論を加えています.余計なことですがルターが宗教改革者であったということと,その思想の進歩性とはなんら関係が無いことは,ここからも伺い知ることができます.)
 こういう時期は,科学は混乱し停滞します.したがって進歩する科学という捉らえ方は一時的にせよ全く失われることになります.
 しかし,科学革命期の混乱が終息し,徐々にコペルニクス天文学が成功を納めるようになってきますと,科学技術は信頼を回復し,再び進歩の位相に帰ることができました.しかし,そのためにはキリスト教的世界観が力を失う必要があったのであって,ただ単にコペルニクス思想が独立して受け入れられたわけではありません.
 このように,私たちが肯定的であれ否定的であれ科学技術の進歩を認めるのは,先の科学革命と次の科学革命の中間期のことであって,幾度かの科学革命を評価して語っているのではないということ,まして科学革命の渦中にあるときには進歩なのか退歩なのかは全く分らず,ただ混乱するだけだという事実を肝に銘じておく必要がありそうです.
 これについて更に言えば,こういう「進歩」が確認できるような時代位相にあるときには,科学者は決められた原理・パラダイムにしたがって原理を拡張する作業に邁進します.これは,パラダイムから導きだされるパズル解きに過ぎないのですが,それ以外の行動を採ることは異端として排除されますし,また仲間とのサロンも形成できませんから熱心にパズル解き競走に参戦します.社会的システムとしての学会や協会,各種学術団体はすべからくそのパラダイムに奉仕するシステムになっていますし,学校教育や入試などは,このパラダイムの世代を越えた普及に貢献します.それゆえ,パラダイムそのものが延命し,かつ強固に補強され,一層人々を魅了したり不安に陥れたりする進歩を促します.科学技術の進歩とはこういう性格のものに他なりません.
進歩が確認され,その限りにおいて信頼を回復した科学技術は,やがて神に代わる真理としての側面を有するようになりました.


4.真理としての科学

 プトレマイオス天文学が否定され,代わってコペルニクス天文学が肯定されるようになったのは,キリスト教的世界観が後退したからに他なりません.それをドライブしたものが人間復興としてのルネッサンス運動でありました.
 近代は,「神」ではなく「我思う故に我有り」という個としての実存的人間性が時代精神でありましたから,世界観の聖の部分と俗の部分との二項分離を果します.片や宗教的世界観,かたや科学技術的世界観です.そして,前者は信仰であり,後者は真理だと捉らえます.
 この間の事情は,ガリレオの宗教裁判の経緯によく見ることができます.ガリレオは,1632年,『天文対話』の出版がもとで宗教裁判にかけられたことになっています.しかし本当は,この書物に関わる経緯を,ガリレオが弟子のカステッリに説明した書簡が,問題を大きくさせてしまったようです.その問題の書簡の中でガリレオは,次のように書いています.
 「‥‥聖書は裏切ったり誤りを犯したりすることはありえず,その命ずるところは絶対で侵すべからざる真理であると考えます.このように聖書は誤りえないのですが,その注釈や解釈をする者の誤りの可能性は多々あるということを付加えたいと思います.‥‥自然学の問題が論争になっている場合には問題が聖霊の語ったものとしての聖書の言葉と,神の命令の忠実な執行者としての自然の双方に依存しているわけですから最後まで考えていかなければならないものとなります.自然は,神から課せられた掟の則を越えることはありません.その一方聖書に語られていることの全てが自然のように冷徹な義務と結びついてはいないのです.二つの真理が矛盾することはないのです.
 この書簡に見るガリレオの立場は未だ宗教(ここでは勿論キリスト教ですが)の呪縛から解放されたようには表向き見えませんが,自然界に生起する物事の全てを聖書が記述しているのではないと言って,その解釈の変更を迫っているようです.しかし,ガリレオにおいては未だ,自然は神の掟の忠実な実行者であるという点で聖俗分離はなされていません.だからこそガリレオが,最終的に火焙りにされることはありませんでした.
 ニュートンが,『プリンキピア』を著したのは1687年のこととされていますが,この頃を前後して科学技術観は大きな変化を示します.ニュートン以前では,物体の運動は,それぞれの運動について一々神の関与を受けています.鳥の羽根がゆっくり落下したり,粉雪が激しく舞ったりするのは,これらに時々刻々神が関与して,それらの運動を指示している結果でありました.すなわち,ニュートン以前の自然認識はこういう凡神論です.しかし,ニュートンによって質点系の運動が簡単な三つの法則にまとめられるに及んで,認識は一変します.
 ニュートンにとっての自然科学は,神の言葉・啓示の翻訳です.神は初めに宇宙を創造し,自身の姿に似せて人間を作りました.人間にとって森羅万象を理解するのは神の業の偉大さを改めて解読することに他なりません.ニュートン力学によって説明される物体の運動のメカニズムは,神が宇宙創造の時に万物に与えた基本的規則に従う結果に他なりません.神は,一つ一つの質点の運動について時々刻々手を下さなくても,法則という形で生ずべき運動形態を定めておいたのですから,あとは個々の運動がそれに従えばよいだけです.こうして,凡神論的世界観からすれば神の現在における関わりは減少します.つまり,ニュートン自身の意図とは異なって,神の存在の棚上げがここで起こっていると看做すことができましょう.
 これについてはいい按配にケプラーが,次のように言っています.
「‥‥星のこうした運動力は,何等かの形で思考という能力を有しており,もちろん人間のように理性によってではないにしても,創造の初めより自らの裡に刻みつけられた生得的な衝動によって,星は謂わば自らの軌道を理解し想定し目指すのである.ちょうどそれは,動物が自然の事物について理性を供えていないにもかかわらず自らの行動の行き着く目標について,ある種の知識を獲得するのと同様である.‥‥」

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 このようにケプラーにとって星の運動は,創造主が創造の時に定めた星の生得的な性格を解き明かすことであったのでしょうし,また彼の三つの法則はそれを簡潔にまとめたものに過ぎませんでした.
 歴史を大きく進めて,1905年アインシュタインによって特殊相対性理論が提出されますと,すべての力学的運動は観測者の座標系によって異なり,絶対的な観測結果というものが否定されます.そうであれば,神といえども自身の所属する座標系で現象を観測している限り,その局所座標系特有の局所的観測結果に過ぎず,すべての世界を認識することなど不可能です.もはや神の存在は,科学技術とは無縁のものとして分離され,科学技術から見れば宗教は,非科学的であり,冷静で知的な真理とは異なるものという位置付けになります.この時点で,神は科学技術の世界から排除されていきました.これを科学における「聖俗分離」と呼ぶ人がいます.(村上陽一郎)
 科学技術は,現代では「真理」であると認識されています.信仰は個々人の私的問題であって,その自由が許されている社会にあっては,何をどう信仰しようと構いませんが,その己れの信仰を持って世界を説明するのは正しくない態度とされています.近頃,新々宗教と言われる新興宗教の進出が各地で問題にされていますが,あそこでの論争を見ていますと,教団側は自らの信仰を絶対としているようですし,住民側もそれを無知のなせる業のごとく理解しているようで,あれでは問題解決の話合いが実りあるものになる可能性は全くありません.
 それはともかくとして,宗教と科学技術とが「聖俗分離」された結果,科学は真理になりましたから,そこでは個人が信じようと信じまいと自然世界は厳然として有るがままに在り,観測者に依存する相対性を許容してもなお観測者の個人的信念とは無縁に在るところとなりました.これが科学技術の客観性と呼ばれるものに他なりません.科学技術は,神に代わって冷静で正しい判断を導く客観的真理という定義を獲得することに成功したのです.
 科学技術が,真理としての性格を帯びるについては,もう一つ重要な要素があります.それは,自然理解は法則という形で述べられますが,その法則そのものは多数回の実験的又は実証的手段によって確かめられています.条件を一定にして10回実験をしたら10回とも同じ結果を招来するということです.勿論100回やっても同様の結果を得ます.ですから,101回目も同じ結論に達するはずで,それゆえ敢えて確かめなくてもよいということになります.こういうのを数学的帰納法と言います.また,実験者が異なっても,思想信条にかかわらずに同一の結果を得るということも重要な要素です.
 しかし,過去に数えきれないほど有効であることが確かめられている法則が有ったとして,それが唯の一回だけでも「誤りが確実に」判明したとき,この法則は真理としては用いられなくなります.数学的公理体系の世界と物理的世界観の大きな相違がここにあります.物理法則は飽くまでも完璧主義に貫かれています.科学技術が真理だというのは,こういう完全主義のもとにこれが確立しているからに他なりません.しかし,だから科学技術は,間違いのない真理だと早合点しないで頂きたい.実は,科学が信仰や信念ではなく,真理になった瞬間にしばしば前言を翻すようになったという特徴が生じてきます.その極端なものが科学革命であり,小規模なものが食品添加物の発癌性リストなどです.昨日まで安全だといっていた食品が今日は発癌性有りなどと平気で発表されます.我が国の原子力発電所は,ソ連の原子炉とはタイプが違うので安全であるという説明は,我が国の原子力発電所がチェルノブイリ発電所規模の事故を起こした日に専門家によって否定される運命にあります.

5.決定論的世界観

 科学技術の特徴の一つに決定論的観念と呼ばれるものがあります.自然科学でもとりわけ物理学は,微分方程式を解析することがしばしばです.本当を言いますと微分方程式の殆ど全てが解けないのですが,教科書に書いてあるようなほんの小数のものだけはこれを解くことができます.
 ところで,微分は,例えば,

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のに定義されています.これから分るように,微分とは,扱う物理量の時間又は空間の極くごく近傍同志の二点間の微小な変化量を指して言います.だから,微分方程式はそういう微小な変化の規則性を記述した方程式に他なりません.

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 微分方程式には必ず解が存在することが知られています(存在定理).すなわち,解析的に求めることができるかできないかは別にして解の存在は本質的です.そして,その解に過不足の無い境界条件を賦課しますと,この解は唯一のものであって世界に二つと無い回答を与えていることになっています(解の唯一性).
 例えば,ゴルフボールの運動,これこそゴルフファンにとって興味津々たるものなのですが,あれなどはニュートン力学のごく単純な(?)問題です.つまり,運動方程式を解いて,これにゴルフクラブがボールに当たった瞬間の位置と速度を初期条件として入れてやれば時々刻々のボールの軌跡を記述することができることになっています.だから,ゴルフに精通しようと思ったら,初期条件を様々に与えて試行錯誤することによって達成することができることになっています.ただ,普通のプレイヤーは,この初期条件,つまりショットが正確にかつ意識的に制御できないばかりに残念な思いをしているのです.
 こういうことですから,もし人の人生を記述する方程式,仮に「人生方程式」とでも呼ぶ微分方程式が発見されれば,それを解析し,かつ誕生時の初期条件を代入してやれば,その後にどんな人生が待っているか一目瞭然に分ることになっています.こういうことから世界は,微分方程式さえ知られれば科学者にとっては,どんなことでも細大漏さず自家薬篭中のものとなるのだと考えた人がいます.それが,ラプラスという仏国の数学者です.これを「ラプラスの魔」といいます.ラプラスは,その「魔」の性格をつぎのように定義しています.
 「知能をもつ存在があったとして,与えられた瞬間において自然界を動かしてているすべての力と,自然界の構成要素のすべてが置かれた状態とを把握しているとしよう.さらに,その知能がとてつもなく強大で,そうしたデータのすべてを解析することができたとし,また,たった一つの数式でこの宇宙のもっとも大きい物体からもっとも小さい原子まであつかうことができるとしよう.このとき,知能をもつその存在にとってあいまいなものは何一つ存在せず,現在ばかりか未来までもその目の前に明らかになるであろう.人間の頭脳は天文学ができる程度には優れたものであり,ここで述べた知能のちでもレベルの低いものの実例になっている.」
 このようにして,極微の世界の関係性が大きく宇宙全体まで波及して記述できること,しかもそれが唯一絶対の確定値として確定できるということは大変驚異的なことです.
 しかし,ここに問題が有ります.まず第一に,物理的世界を記述する方程式の中に,全ての状況を含ませることは,微分方程式を解く上に大変な障害になるために問題を単純化することが必要であるということがあります.上の例でいえばゴルフボールの飛翔を現実的に記述するためには風や気圧や温度,ボールの材質や構造など全てのパラメータを含ませる必要があります.また,「人生方程式」に至っては想像もつかない多次多元方程式になることでしょう.それゆえ,それらを解析することは,現実問題として不可能です.
 仮にその方程式が完成したとして,そしてそれをスーパーコンピュータにでもかけて解けたとして,それでも第二の問題が生じてきます.それは,境界条件や初期条件が厳密な意味で分らないということです.ゴルフボールの問題では,宇宙の果ての物理的状態が巡り巡って唯一解に影響を与えるのですが,その宇宙の果ての状況が分りません.あるいは,ゴルフボールを構成している一個一個の物質粒子の無限の過去に遡る故事来歴が初期条件として少ないながらも影響を及ぼすでしょう.しかし,そのような歴史を私たちは知りませんし,また知る術もありません.だからどうしても少ない情報をもとに初期条件・境界条件を適用することになります.実際の科学技術の現場では,招来するであろう現象の空間的広がりや,その現象の継続する時間範囲を極めて限定して,考慮するパラメータの省略を正統化することによって問題を解決しています.解決しているというよりは,本当は時空間への無限の広がりを無視してしまっているのです.それでも,限定された問題に答えるに不足はないことになります.だから,科学技術は偉大であり,実利的なのです.
 しかし,これが及ぼす時間と空間を無限に広げてみたときにはどうでしょうか.とりわけ,こういう解析方法を無数に繰り返すことによって問題を解いてきたとき,その無視された量の集積が,もはや無視できない量になっていくと言うことがあります.こういう時空間における関係性の無視または思考の停止こそが現代の環境問題発生の本質的原因になっています.科学技術の発達によって生じたとされる環境問題は,個々には微小な無視が,大量生産・大量消費・大量廃棄という量の多さのために,時空間における外部との関係性を破壊した例と見ることができます.

6.要素還元主義と巨大化

 ところで,自然世界は究極的に一定数の要素からなるとする考え方は,古代ギリシャに端を発し,やがてアラブアトミズムとしてアラビアの科学に受け継がれて行きました.この間の歴史を詳しく記す紙幅がありませんから,ここではこれ以上立ち入ることは致しませんが,こういう究極的な要素に還元できるとする考え方はヨーロッパ科学技術の特徴の一つです.そして,そういう考え方を要素還元主義といいます.
 他方,上述の微分概念は,物質的要素還元主義とは違いますが,同一の思考回路から生じたものであろうと考えられます.すなわち,微分概念は,極めて矮小化された微小な時空間世界の関係性が,逆にどこまでも広い世界へ拡大され得るとする結論に行き着いたのですが,これはまさに全てのマクロな物質がミクロな物質要素,すなわちアトムによって成り立っているとする考え方と符合するからに他なりません.
 このように自然世界の理解は,際限無く極微へ極微へと狭まっていきます.古代ギリシャでは,世界は究極的に火,水,空気,土からなるという程度の要素に還元して理解していました(アリストテレス).やがてこれが物質元素に還元され,元素は究極的に電子と原子核から成るというところまで極微化されたのが今世紀の初頭でした.しかし,いまではこれら量子も素粒子に分解できるものとされています.
 こういう一連の流れの中で,還元された要素は個性を失っていきます.世界が,究極的に火,水,空気,土からなるという程度の要素主義に止まっていたときには,それぞれの要素には個性が付与されています.たとえば,火は要素ではありますが燃え盛る火の粉はそれぞれに異なる姿で天に向って上って行きましたし,土の色は地域毎に異なった色合を呈していました.しかし,電子や陽子に分解されるとされるところまで要素が単純化されますと,宇宙中の電子はその数がおよそ1048個もありながら,それらの個性は全て同一とされています.異端の電子や突然変異の電子などというものは存在しないことになっています.
 こうして,個性を持たない無機的な要素によって世界は成り立っていると科学は考えています.その典型的例として科学になった医学,わけても先端医療を見ることができます.私たちの社会では,医療は科学ですが,世界には医療は呪術であると考えられている地域もあります.医療が科学になるためには,全ての病気や病因の普遍性が前提になければなりません.一つの病名で括られた病気は太郎がかかっても次郎が患っても同じ手当,同じ薬で治療できます.こうして個性を持たない病気に個性を持った人間がかかりますから,医療現場で患者と医者の間に軋轢が発生するのも無理からぬことです.
 心理学者J・B・ワトソンは,
「‥‥人間よりも下等な動物の研究において永年にわたって研究者たちが有効と考えてきたものと全く同じ手続きと,全く同じ種類の記述言語とを人間についての実験的研究についても適用してみようとする」
という立場を貫くことによって心理学の地平を拓きました.いまや,心理学さえ普遍性という無個性によって統一的に記述されています.
 こういう一連の「科学的」態度が,反面として,医療でいえば,人間の顔を失い,医者は患者を診ないで病気や病巣ばかり見ることにつながっていると言えそうです.
 このように,全てを極微の要素に還元して行くという流れの一方で,反対に科学技術の巨大化も特徴の一つです.現代科学技術は単純な要素を複雑に組み合わせることによって巨大なシステムを作り上げて行きました.一台のコンピュータは,電子の流れを時々刻々追尾することによって複雑な情報処理をしていますが,その規模の大小を問わず科学技術の巨大化の中で実現されたものに他なりません.
 こういう巨大化の流れの中で特に注目されなければならないのは,巨大化したシステムが故障をしたときの社会生活への影響です.例えば,電力システムや通信システムにおける故障は大都市の機能を完膚なきまでに破壊します.都市機能の立場からすれば,都市の成り立ちは空気でも水でもなく,電力や電話回線だと極論できそうです.
また,巨大化の陰にシステムダウンが,永久にまたは極めて長期にわたって回復不能なダメージにつながるような問題があります.システム技術論からすれば,全てのシステムはフェイルセーフにあることが理想ですが,巨大化したシステムの中にはシステム故障が一度発生するとそれは原理的に暴走につながるものが現れてきました.その典型的例が原子力発電です.原子力発電所の暴走の恐怖は,スリーマイル島事故やチェルノブイリ事故のよく示すところです.そしてこういうタイプの巨大システムでは,安全性を確認するためのセンサーが多く使われて,安全性が高まりますが,高まれば高まるほどシステムの休止時間が増えて稼働率が下がり,最終的にシステムの信頼性が下がります.山梨県で期待されているリニアモータカーなどもこういう特徴をもった巨大化システムの好例に他なりません.

7.サイコロを振る神……おわりに

 以上,科学技術の内延を眺めてきました.最後に現代の自然観を物理学の立場から眺めて終りにしたいと思います.

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 上述したように決定論的世界観は科学技術の一面ですが,量子力学の出現は,究極的な世界では決定論的理解は不可能であることを教えています.
 ハイゼンベルクは,量子の存在する位置と量子が有する運動量とは一定のトレードオッフの範囲内でしか正確に与えることはできないことを示しました.
 たとえば,今衝立があってここに二つのスリットを開けておきます.衝立の向うにはスクリーンを置きます.こういう装置に対して一個の電子を貫通させますと,スクリーン上に電子が飛来します.その飛来した電子がスクリーンのどこに到着するかを調べますと,その確率は上図のようになります.これは確率ですから一回や二回の実験ではこんな図にはならず,多数の実験を積み重ねてはじめて得られる図形です.これが,いわゆる干渉縞と呼ばれるものですが,一個の電子が干渉するというのは奇妙なことです.

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 この一個の電子は,二つのスリットのうちのどちらかを通過したはずですが,どちらを通ったかを決定するために片方のスリットを閉じてしまいますと,通過するのはもう片方のスリットに他なりません.こうして一個の電子が通った道筋を完璧に分るようにしますと,今度は電子の発見確率が上図のようになります.このように最初の図とは似ても似つかない形に変わり果ててしまいます.もちろん,そのことも一回や二回の実験では分りませんから多数回の実験をやって調べます.
 これは電子が単純な粒子ではなくて波動(のようなもの)であることを表わしているのですが,それにしても電子の運動の軌跡を決定的に白日の下に曝け出しますと,干渉縞が消えてしまうという元も子も失う結果を招来します.つまり,電子の軌跡の決定と干渉縞の間にはトレイドオッフの関係があって,どちらかを完璧にしますと片方は全く情報不足に陥るという事実がここにはあります.こういう関係を不確定性原理と言います.つまり,一個の電子が通過した軌跡を確定するということと,干渉縞を保存するということは同時には達成できないのです.別の言い方をすれば干渉縞を完璧に知りたければ,電子の走行の歴史を完璧に失わなければなりませんし,逆に電子の走行の軌跡を完璧に把握したければ干渉縞を全て放棄しなくてはなりません.したがって,両者は確率的曖昧さで満足する程度の中庸な認識で我慢しなければならないことになります.
 どうやら,現代科学は,究極に向いつつ最終局面では確率とか期待値とかいう混沌の世界に入り込んでしまいました.自然界を作った神は,最後の土壇場ではサイコロを振って事を決めるらしいとしか言いようがありません.
 もうひとつ,近年カオスについての研究が盛んになってきました.自然現象の中で決定論的カオスといわれる状況では,現象が一定値に収斂せず,因果関係が全く不安定になります.これについては,北京の街で一羽の蝶が舞い上がったために,アメリカにハリケーンが発生するという喩が使われます.こういう状況では神の振ったサイコロは,テーブルの上に止まることもなく,何処か途方もない処に飛んで行ってしまいかねません.
 二〇世紀は,科学技術万能の時代でしたが,科学技術を万能と理解することが,この世紀の新興宗教の一つです.単純に,科学技術万能と信仰することではなく科学技術を正しく批判的に捉らえることが大切です.
 しかし,科学技術は,人々を故なき圧迫や偏見から解放する救世主でもありました.この世界には,科学技術の恩沢の及ばない地域や社会も無数にあります.そこでは,単に科学技術製品や装置・システムが無いというのではなく,科学以前の迷妄な観念が支配していたり致します.
普遍性を求めて人類が到達した地点,それが科学技術であってみれば,もとよりこれを否定するわけにはいきません.適切な取捨選択が問われる所以です.

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