No.31 花見の余興
江戸の桜の名所と言えば、上野、向島に飛鳥山。上野は格式が高く羽目がはずせないので、庶民は向島か飛鳥山だが、その中でも向島は大店の旦那衆が芸者同伴でやって
きて豪華にやる。これを口を開けて見ているのも悔しいので、格式高い
?貧乏長屋の主人達は飛鳥山に行ったものだ。ただし、そこでは町内対抗意識も強く、他所の町内の者達にアッと言わせる「余興」が必須の花見作法だったのである。
熊さん、辰ちゃん、半ちゃんに八ちゃんの四人は霊巌町の住民の期待と輿望を担って飛鳥山の花見の余興を請け負った。町役沼田貫左衛門からの注文は、花見の客の
腰を後ろにのけぞらせる程にびっくりさせること、花見のシーズンが終わってもしばらくは江戸中の話題になること、の二つだった。
飛鳥山の一段と高い場所。大きな桜の老木が今を盛りと咲き、その下には真っ赤な緋の毛氈が敷いてある。
(スチャラカチャン、スチャラカチャン、スローテンポの三味線の音)
@ 真っ赤な襦袢に白い絹の角隠しをつけた四人、熊さん、辰ちゃん、半ちゃん、八ちゃんの順に緋毛氈の上に入場。
A 4人はスローテンポの三味線に合わせて足を踏み、左右の手を交互に上下左右に動かす。
(観客から長い拍手)
(スチャラカチャン、トントン、スチャラカチャン、トントンと太鼓が合いの手を入れる)
B 太鼓の加入を合図に四人は、足元に予め用意されてあった踏み台に上がる。同時に町内の与太吉が麻縄を四人に次々と手渡す。
(一段と三味線と太鼓のテンポが高くなる。周囲の花見客が何事かといって笑いながら集まってくる)
C 町役貫左衛門の「ソレッ!」の合図にあわせて四人がくるっと後ろを向くと同時に着物のすそを撥ね上げる。途端に真紅のシタウズが出現。
(全山の客から思わず大拍手。四人の紅潮した顔が汗で光り、玉のような汗が流れる。)
D 四人は先に渡された麻縄を、三味の音にあわせながら頭上の横に伸びた太い桜の枝に巻きつける。
E 次いで、紐のもう一方を自分の首に巻きつける。片足を上げて、もう片足で立つ。
(トントン、チャララ、トントン、チャララ、トントン、・・・三味線と太鼓は早鐘を打つようにアレグロ=コンブリオに)
F 町役貫左衛門が打つ銅鑼の音が炸裂。これに合わせて四人は持ち上げておいた片足で足元の箱をポンと蹴る。瞬間、かぶっていた角隠しが宙に舞った。
G 花吹雪が四人の顔を隠すようにどっと舞い落ちた。四人の体は、いつまでも春風に吹かれて振り子のようにゆっくりと前後左右に揺れつづけるのだった。
飛鳥山の花見客の誰一人として、腰を後ろにのけぞらせない者はいなかった。そして、この話は、花見シーズンだけではなく、江戸時代が終わるまでの100年間にわたって、花見の季節 がくる度に語られた。この情景を見たという人の数は、当日飛鳥山で花見をしていた人の10倍をはるかに超えたという。