芭蕉Q&A


(Revised on 2008/09/15


「えんぴつで奥の細道」読者カードから

Q: 須賀川の章、で「橡ひろふ太山」のところは「深山」ではないのですか?「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落ちる橡ひろふほど」とあるので、「深山」かと思うのですが、ほかに何か意味があるなら教えてください。

A: 書物によっては「太山」と標記せずに、「深山」と書き替えて上梓しているものもあるくらいです(新潮古典文学集成「芭蕉文集」など)。しかし、芭蕉の自筆本も、西村本、柿衛本もすべて「太山」を使っていますので、本書は西村本に従って「太山」と表記しました。

 ご指摘のように、「太山」は「深山」のことです。それ以上の深い意味はありません。ただ、こういう用語の使い方は芭蕉独特のものと言っていいと思います。「太山<みやま>」は「深山<みやま>」のことですが、同時に「太山<たいざん>」にもつながり、そこから中国の「泰山」につながります。大好きな 漢詩の中国文学と、尊敬してやまない西行とを介在して芭蕉の心の中で「深山」が「泰山」・「太山」へと変質していったのでしょう。

 ちなみに、可伸の庵は、街の真ん中にあったのであって、「深山」でもなんでもなかったので、芭蕉に激賞されたことで、後日大評判を得た可伸は困ってしまったようです。

東京都杉並区 TKさん

Q:突然のメールで失礼いたします。 芭蕉データベース愛読させていただいております。素人の素朴な質問で大変恐縮でございますが、前より、大垣市内の碑にある芭蕉の「萩にねようか荻にねようか」の句がいわゆる芭蕉句集に入っていないのを不思議に思っております。
 それはこれが発句でないからでしょうか?それとも何かほかに理由があるんでしょうか。お暇な折にでもご教授いただければ誠に幸甚に存じます。(05/06/16)

A:Kさん

ようやく五月雨の雰囲気になってきました。奥の細道では、芭蕉は今日は松島に居ました。

さて、ご質問の「萩・・ 荻・・」は、奥の細道を終えて大垣で木因や如行らと巻いた歌仙の付句でした。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/sanpu02.htm
をご覧ください。
まあ、句集に記録するときには、發句をもって掲げる習慣に従ったということですが、これなどは実に生き生きした付句ですよね。萩はいいとして、荻は嫌われるものですが、旅の楽しさとつらさを凝縮してこう応対する詩人のすごさを感じます。
ぜひ、これからもどうぞ堪能してください。
蕪村のよい本というのは私も知りたいテーマでした。あしからず。発見したらお教えしましょう。

 

和歌山県 NNさん

Q:突然のメール、恐れ入ります

私、和歌山県○○町という小さな町で、まちの広報紙を担当しています。この度、取材先で、芭蕉を趣味で研究している方(100歳)のインタビュー中、その方が、この句が一番好きだと答えられました。

うかうかと 年寄る人や 古暦(ふるごよみ)

話言葉を聞いて、メモをとりましたので、間違っているようです。伊藤さま、もしご存じであればご教示下さい。
お忙しいと存じますが、どうかよろしくお願いします。

A:Nさん
「うかうかと 年寄る人や 古暦」という句は、古来?芭蕉の句として人々の人口に膾炙した有名句です。しかし、芭蕉ではなさそうです。何処かにその短冊や句集があって芭蕉作とあるのか、有ったのかもしれません。芭蕉は、その死後、大変有名人になり、その過程でもっともらしい句を創作して、芭蕉を騙って一攫千金をねらった不正業者が多数現れました。そういう過程で出来た作品かもしれません。
江戸時代「うかうかと」という言い出しが流行ったということがあったので、「年寄る人や 古暦」と続けるのはそれほどの才能でなくても考えられたのでしょうが、なかなかいい句ですよね。だからこそ、今でも芭蕉作品として人口に膾炙し続けているのでしょう。
うかうかと我宿へ来る春いとし」  亀田窮楽
うかうかと尻尾を生やす夏休み」  ??
うかうかと來ては花見の留守居哉」  去来
うかうかと海月に交るなまこ哉」  車要
など「うかうか」は随分好まれたようですよ。
お答えになりましたでしょうか???(03/11/11)


MYさん

Q: 私は芭蕉の生誕地、三重県の上野市に住んでおりますMYといいます。

 最近パソコンを買い求め、イの一番に芭蕉を検索いたしました。
 そうしましたら、生誕地の上野市にもない,すばらしいホームページに出会いました。それが貴方様のページです。
 そこでお尋ねですが、このページをCD-ROMか、何かに落とされた物が無いか、お聞きします。
 私は芭蕉の研究者でも、俳人でもありませんが、上野市に住んでいるということで、手紙などを出すときに、出来れば芭蕉の季節に合った俳句を、時候の挨拶代わりに書きたいと思っておりました。
 季題、年代別などのそれぞれの書籍は出版されておりますが、一々ページを繰り、俳句を探し出すのは大儀でした。
 このページであれば、季題、年代、そして俳句が出来た背景までが、一目で知ることが出来ます。
 このような訳でありますので、ホームページと同じようにリンクなどが、可能になったCD-ROMがあれば幸いです。
 それをもって、商売するとか、何かをする、といったような他意は決してございませ。
 何卒よろしくお願い申し上げます。
 
A:メールを拝読しました.私のHPをご覧下さっているとのことありがとうございます.
芭蕉に関するCD-ROMは無いかとのお尋ねですが,下記の教育会社で部分的に著作権を委譲して出版しておられますが,それ以外にはありません.
芭蕉のページそのものはまだ未刊で,死ぬまでに完成?すれば上出来と思っています.偉人芭蕉の足跡が凡人によって踏破できるわけもありませんから,完成と考えるのすら不遜というものです.それゆえ,この内容は今後とも変更されていくはずですのでお気づきのことがあれば教えてください.
最近,上野CATVでこのページを紹介するといっていましたが,上野市民の皆さんに批判的にごらんいただければありがたく思います.
             

Q:早々のご返事、誠にありがとうございました。

 知人の話では、貴方様のHPのような学術的なものは、時としてすぐ無くなってしまうとのことであり、失礼を省みずお問い合わせをいたした次第です。何卒お許しをいただきたく存じます。
 これで安心して、今後も楽しく拝見させていただくことができ、また、伊賀人としての教養を高めるためにも、活用させていただきます。
 350数年前に、この伊賀の地で生まれた先人の研究が遠く離れた地で行われ、また、偉人と称えられておりますことは、私たちにとって大変うれしくも、名誉なことと思っております。上野市においても、芭蕉の顕彰事業には努力しているところではありますが、他の地からご覧になってお気付きのところがあれば、ご教示下さい。
 私にとっては、この内容で十二分でありますが、今後の研究成果をご期待いたしております。
 先ずは、取り急ぎお礼まで。
 
    いなずまを 手にとる闇の紙燭哉
 
         

IYさんへ


Q  伊藤様、はじめまして  突然のメールで失礼いたします。
  松尾芭蕉の「おくのほそ道」の中の敦賀滞在について調べていて、伊藤様の芭蕉DBを拝見いたしました。 そのなかの、芭蕉が福井、敦賀滞在中に月見の句を15句詠み、その句を門人の宮崎荊口が「芭蕉翁月一夜十五句」にまとめているという箇所ですが、この芭蕉DBには14句しか記載されていませんでした。
 他の市販の芭蕉の句集なども捜して見たのですが、荊口句集についての記載がみあたりません。 もし、十五句目についてなにかご存知でしたら、ぜひ教えていただけないでしょう か。勝手なお願いで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

 メールを拝受しました。つたないHPを御覧下さったとのことありがとうございます。
さて、『芭蕉翁月一夜十五句』ですが、これは宮崎荊口の『荊口句帖』に伝写され、以後これが情報源になっています。実は、荊口の句帖にも14句しかないのです。そのことを解説に入れておかなかったのは私のミスでした。後刻追記しておきます。
15句と言いながら14句はおかしいのですが、一句を紛失したか、または全体が荊口の創作かも知れません(芭蕉の作かどうか怪しいものもこの中にはあるかもしれないのです。)
なお、お気づきのことがありましたら今後もご指摘くださいますよう。



IAさん

 Q 始めまして、突然のメールで失礼致します。私は、IAと申します。同志社大学 文学部 文化学科に在籍しており、現在四回生です。
先生に突然メールを送らせて頂いたのは、卒業論文のために松尾芭蕉に関して、教えていただきたいことたいことがあったからです。ホームページを拝見して、先生ならお答えいただけるのではないかと思い、お送りしています。
  私は、美学及芸術学を専攻しており、論文では、小野竹喬の描いた「奥の細道句抄絵」をとりあげています。ご存知かも知れませんが、この作品は松尾芭蕉の「奥の細道」を題材に描いたものです。
私が教えていただきたいことは、松尾芭蕉が自然に対してどのような思想をもっていたか、という事です。
松尾芭蕉に関する本をいくつか読んでみましたが、明確にそれを表している説を見つけることができませんでした。
感謝の念を抱いていたとか、憧れていたとか、簡単なことで結構ですので、教えていただけたら幸いです。
 お忙しい中申し訳ありませんが、もしお答えいただけるなら、以下のメールアドレスに送っていただけますでしょうか。
厚かましいお願いですが、よろしくお願い致します。
  A IAさんへ
伊藤 洋(@山梨大学)です。メールを拝受しました。大変難しいご質問ですね。
芭蕉は、荘子に大変魅了されています。芭蕉はあまり基礎的教養知識の豊富であった人とは言い難い人物です。貧しい育ちですからそんなに深い教養を身につける機会が無かったためです。しかし、20代以降集中的に荘子に集中していました。だから芭蕉の自然観は荘子だと思っていいでしょう。是非荘子の説く自然観をお調べになってください。
私たちは現代の自然観に対してある種の反省を迫られています。そこでニューサイエンスとして70年代辺りからタオ自然学というようなものが欧米で提案されています。略奪的な自然観から大自然をそのまま摂理として受け入れながら共生して行こうと言う様な思想です。この「タオ」こそ荘子に他なりません。
芭蕉の自然観はその意味で現代に通じるものがあったということかもしれません。もとより私たちが認識している自然と、近代の自然観を知らない芭蕉の時代の自然はそのありようが全く異なりますから、ニューサイエンティストのいう自然とは全く別ではありますが。

IYさん

 Q 突然の質問ですみません。前から気になっていた事を教えて頂けたら嬉しいと思い、この文をしたためています。先生が編纂された年表で、芭蕉は下痢と衰弱で大阪で亡くなったと記されています。その原因は大好物を頂きすぎた為と聞いた事があります。
 本当なんでしょうか、それは何だったのでしょうか、レシピは判るのでしょうか、そんな美味しいものなら是非再現してみたいと思います。その他に芭蕉の好物で確認されているものがありましたら併せてご教示戴ければ幸いです。お忙しい中ご迷惑かと存じますが宜しくお願いします。 
A 伊藤 洋(@山梨大学工学部)です.メールを昨日拝受しました.
さてさて大変難しいご質問で,度肝を抜かれてしまいました.尋ねられて気づきましたが芭蕉は食い物の話を殆どしていないということです.書簡でも句でもです.
強いて挙げれば,お酒とマクワ瓜でしょうか.しかし,お酒もそうたくさん呑んだというわけではなさそうです.瓜の句は10句程度あったかと思います.
死の原因と言うのもよく分かりません.直腸癌でもあったのかと思いますが.好物を食べ過ぎて死んだというのは当たらないと思います.最後の伊賀から大阪の旅にしてからがすでに相当に体力を落としていましたし,大阪での弟子たちの悶着の仲裁に随分ストレスを溜めていたようですし,また寝つく数日前から体調は相当に悪かったので食は進まなかったと思います.
生来胃腸が弱い人でしたから,あまり食に執着することは無かったのだろうと私は思っています.それが食物の話の出てこない理由でしょうし,子供時代から貧乏に育っていてうまいものを食う習慣も無かったであろうし,加えて陰士の生活は経済的にも贅沢はできないし,しないことを倫理的に善であると確信していた人でしたから,というのが理由ではないでしょうか.
残念ながら,私の見るところ食い物についてはつまらない人だったと言うのが結論です.御納得いただけましたでしょうか???

滋賀県長浜市立北中学校

3年6組のみなさん

Q 伊藤 洋先生
突然、メールを送らせていただく失礼をお許し下さい。僕たちは滋賀県長浜市立北中学校3年6組2班の澤田、藤川、松井です。
今、僕たちは、国語の授業で芭蕉について調べています。インターネットを使って調べ学習をしていますが、みんなで先生のWebPageを参考にさせていただいています。
先生なら、芭蕉について、いろいろとご存じなのではないかと思い、このメールを送らせていただきました。
僕たちは、主に旅の目的について探ってみたいと思い、NHKのビデオ「歴史発見 奥の細道 芭蕉 謎の旅路」を見ました。その中で、奥の細道と、同行していた曽良という人の旅日記とにくいちがいがあったということを知りました。
また、ビデオでは、芭蕉が伊達藩の内情を探っていた様なことが言われていました。これは、本当のことなのでしょうか。私たちのイメージにある芭蕉とは、大分違います。それで、このことについて、先生のご意見をうかがいたいと思いメ−ルを送らしていただきました。
ところで、このビデオを見た後、私たちも、芭蕉が忍者だったらと、楽しく想像を巡らせています。
グループのメンバーが話し合ったところ、次のような理由で、芭蕉は忍者だったのではないかとの結論に達しました。
1.伊賀地方出身。(忍者ハットリ君と同じ)
2.40代のくせに全国を歩いた脚力。
3.鋭い目つき。
4.伊達藩の内情を探っていたという噂。
これらの理由については、想像の域を出ませんが、これについても、先生のご意見をお伺いできればと思います。
また、奥の細道と曽良の旅日記の日付の違いなどについても、先生のご意見をお伺いできたらと思います。
お忙しいところ、申し訳ありません。お返事を楽しみに待っています。
 

A 澤田、藤川、松井君へ

こんばんは,伊藤 洋(@山梨大学)です.楽しいメールを有難う.みなさんが芭蕉について興味を抱いてくださってとてもうれしく思います.芭蕉は,言うまでもなく,日本が誇る世界一の詩人です.言葉をこのように少なく使いながら,またそれゆえに,あるいはそれに反比例するように詩的空間を無限に拡大してみせる力量はただただ感嘆するばかりですね.そして,人生を通して常に言葉の持つ力を磨いていったということでも芭蕉を超える詩人は無いのではないでしょうか.
@さて,お尋ねの曾良旅日記との日時のずれですが,芭蕉が「奥の細道」を執筆したのが何時だったのかは定かではありませんが,どうも元禄5年6月以降ではないかと言われています.そうだとすると奥の細道の旅そのものは元禄2年3月27日から8月までですから,ずいぶん後になって書いたものということですね.芭蕉自身がメモはつけていたかもしれませんが,いずれにしても記憶は薄れていたはずです.芭蕉は,この旅の後はしばらく皆さんの故郷膳所の義仲寺や京都の嵯峨野,また石山の奥国分山の麓の幻住庵に滞在し,「幻住庵の記」・「嵯峨日記」など多くの作品を書いていますからますます記憶は薄らいでいたと思われます.これは別の見方をすれば,芭蕉にとって「奥の細道」のような名作が熟成される貴重な時間であったのかもしれませんね.
ともあれそういうわけで旅日記との時間のずれが生じたのは記憶の薄らいだためだと私は思います.
A芭蕉の忍者説についてはとても楽しいですね.しかし,芭蕉忍者説は昔から言われていました.なんと言っても服部半蔵の故郷伊賀上野の出身ですからね.しかしどうもこれも嘘話のようです.私のWWWにも掲載していますように芭蕉はたくさんの手紙を書いています.現存しているものだけでもこんなに沢山あるのですから,紛失したものを入れれば膨大な数に上ると思われます.まさかスパイのプロがこんなに手紙を書いていたらどこにいるかすぐわかってしまいますね.私は忍者やスパイをやったことが無いので分かりませんが,多分そういう職業の人は余計な手紙など出さないと思いますね.足跡がばれてしまいますから.仙台には5月4日から8日の朝まで滞在していますが,加衛門という風流人の案内で亀岡八幡宮や宮城野原,榴ケ岡など名所旧跡を見て回っているようで,どうもスパイの仕事に専念していた風はありませんね.
仙台でも多賀城でも国主の伊達正宗の話が出てきますから,スパイをしていたらやっぱりそんな名前は書かないでしょうからね.また,仙台より加賀百万石の前田家は幕府にとってもっと脅威でしたが,金沢でスパイをやっていたと言うような話もありません.
がっかりさせちゃって申し訳ないのだけれど,芭蕉先生はどうも体育会系ではなくて病弱のため忍者の勤まるような立派な健康体を持っていませんでした.しょっちゅう胃が痛かったり,痔疾といって肛門の病気を持っていたりで,下っ腹に力を入れて塀を飛び越えるような体力はまったく無かったようですね.
40代で旅をしているのも,芭蕉は「旅に死ぬ」ということを一つの美学としていた人でした.だから,ひょいひょいと旅をしたのではなくて,ふーふーいいながら旅をしていたのですね.彼は,西行や鴨長明,兼好法師,杜甫や李白などを最高のモデルと考えていましたので...

以上,みなさんの楽しみをぶち壊しちゃったかしら?? でも本当はやっぱり忍者だったというような動かぬ証拠を皆さんが発見すればいいわけですから,ひとつ頑張って決定的証拠を探してみてください.特に,近江は,膳所や彦根に多くの門人がいたし,芭蕉の墓もあるし,第一江戸と伊賀上野についでもっとも長く住んだ場所も滋賀県内ですから,何かの証拠が残っているかもしれませんよ.先生を誘って探索してみてください.成果が上がったらぜひ私にもお知らせくださいね.


大阪成蹊女子短大

M.Mさん

伊藤さんへ
始めまして。私は大阪成蹊女子短期大学に通っている者です。
私は国文学科に入っていて、今芭蕉の「嵯峨日記」について調べていて、インターネットで伊藤さんのホームページを見て、少し質問したい事があります。
伊藤さんは、「嵯峨日記」について沢山のことを調べておられるのですが、いったい、何をもとに作っているのか教えてください。
来週発表があるんですが、いろんな人の色んな意見を活用したいと思っています。
そのために、その人が何を用いて調べたのか、何を根拠にそう言えるのかが知りたいのです。細かく言うと、「嵯峨日記」に23日と25日がありますよね?? なぜ、24日がないのか??ある本では、24日に芭蕉は酔って、書くのを忘れたとかいう説があります。一体どういうことなんでしょう??
お返事下さい。
M.M

M.Mさんへ


三重県松阪市立中部中学校

南学級のみなさん

 こんばんは,ようやく公務から解放されて自分の研究室に帰ってきました.
昨夜南先生からのメールを拝受していたのですが,立て込んだ問題に忙殺されていました.遅くなりましたことを生徒の皆さんに謝っておいてくださいますよう.


生徒の皆さんへ

 
 皆さんが,芭蕉に興味を持ってくださっていることをとてもうれしく思います.もっとも,芭蕉は大変偉大な詩人ですが,三重県の生まれですから,皆さんの遺伝子の中にも芭蕉と同じ要素があるはずですね.そういう身近な人として芭蕉を見直してみると,きっと別の俳聖の姿が浮かび上がってくるかと思います.事実芭蕉という人は,若い時期には,ひょっとすると自分は才能があるんではないかなと得意になった時期もあったようですが,貞亨年間に入ったころ大詩人の道を確実に歩むようになったころからは,決して威張るわけでもなく,すごいだろうと言って鼻にかけたわけでもなく,金銭に執着するわけでもなく,そしてごく普通の人の姿をとりながら心と言葉の力を磨き上げていった人だと思います.すばらしい作品とともに,そんな芭蕉の暖かい血の通う普通の人を感ずるのも芭蕉学習の一つのテーマかもしれません.
そうそう忘れていましたが,言葉の力ということでは皆さんの町には本居宣長がいたんでしたね.
以下は下記へ

 前略、突然お便りすることをお許し下さい。
 私は三重県松阪市の中部中学校で国語の教師をしております。
 実は、今、芭蕉ネットの参加校として長浜北中のみなさんと交流をさせていただいているのですが、 その北中のWeb  Pageに公開されている先生のメールを読んで、子供たちが先生に質問したいことがあるということで、失礼かとは思いましたが、このようなメールを送らせていただきます。
 以下に、先生へ宛てた子供たちの質問を書かせていただきます。ご多忙な毎日をお過ごしのことと思いますが、先生のお時間のある時で結構ですのでお返事をいただけたら嬉しく思います。
 また、これを機会に今後も先生とお話をさせていただけたら幸いです。

 <伊藤先生へ>
 ・このメールを読んで、やっぱり松尾芭蕉はすごい人なんだなと思いました。年の割に脚力があったり、「旅に死ぬ」ということを一つの美学として持っていたから、辛い旅もできたんだと知りました。

 ・芭蕉の生涯はまさに“舞台”を見ているような魅力を感じました。まさに「人生は一度きり」という言葉がぴったりあてはまるような気がしました。芭蕉さんは冒険心がある人だなぁとも思います。なぜなら、普通は安定した年齢を迎えているのに、一番人間でいう働き盛りから、第二の人生を送る前の時に旅に出ようと決心したからです。
でも、しっかりと目標を持って行動しているところを見ると、やっぱりずいぶん前から旅に出ようと思っていたんでしょうね。

 ・私は「芭蕉は忍者ではないか?」というのに興味があります。忍者であることを期待していたのですが、理由から、やっぱり違うのかなと残念に思っています。
脚力がすごいだけでは忍者にはなれないだろうし、持病を持ち、病弱ということも聞いたことがあるので・・・。でも、忍者という存在は本当にあったんですか?

  
   (質問)
 Q. どうしていっぱい俳号を変えたのか?
A. 芭蕉翁は,伊賀にいたころには宗房,江戸に出て俳諧の先生になったときに桃青,深川に隠棲して芭蕉を植えた芭蕉庵に住むようになったころから庵の名前をそのまま俳号にして,芭蕉というようになりました.つまり,私たちが呼んでいる芭蕉は,庵の名前であったのですね.「芭蕉庵桃青」が,何時しか自分でも俳号として流用しちゃったということだと思います.
芭蕉に限らず,当時の人々は多くのペンネームを使っていました.ペンネームに限らず本名だって,幼名から元服名,そして仏門にでも入れば僧侶の名をつけるというように,一人の人間の成長に合わせて名前を変えていました.今のように,法律的に名前を固定して,変えるためには裁判所に行って審理をしてもらうなどということの無かった時代だったんですね.

Q. 子供はいないとインターネットで見たのですが、図書館で借りた本には息子1人、娘2人の名が載っていました。どちらが本当ですか?
A.これは大変微妙な問題です.と言いますのは寿貞尼という女性との関係がよく分からないからです.私は,芭蕉には子供はいなかったと思っています.その図書館の本にあったという男の子(二郎兵衛)と二人の女の子(まさ・おふう)というのは,寿貞尼の子供のことを書いたものではないでしょうか.彼らは芭蕉の子供ではないと思います.(http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/ihe2.htm参照)芭蕉は結局生涯結婚をしていません.桃印という甥を事実上の嫡子として育てていましたが,それも死んでしまいました.このことについては,http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/kyoroku6.htmを参照してみてください.

 ・山梨を詠んだ俳句はあったのでしょうか。
 先生のお気に入りの俳句を教えて下さい。
A.芭蕉は,1682年12月28日に芭蕉庵が消失しますと,門人の甲斐国谷村高山伝右衛門宅に寄留しています.これは翌年5月迄つづきました.谷村というのは現在の都留市で,いまではその屋敷跡は山梨県の出先機関の建物になっています.
甲州で詠んだ句であろうと想像されているものは,「行く駒の麦に慰むやどりかな(野ざらし紀行)」「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな (夏野の画讃)」「山賎<やまがつ>のおとがひ閉づる葎<むぐら>かな」などがあります.
私の好きな句をあげろということですが,もっとも難しいご質問ですね.その時々で別々の感動をするものですから.特に季節季節で感動が移りますよね.それでもと言われれば,「秋深き隣は何をする人ぞ」「あけぼのや白魚白きこと一寸 」「この道を行く人なしに秋の暮」「鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎」「ほととぎす消え行く方や島一つ」「蛸壺やはかなき夢を夏の月」ぐらいを挙げておきましょうか.

 ・曾良の旅日記と「おくのほそ道」のずれについて、伊藤先生は記憶の薄れだとおっしゃっていますが、私は違うと思います。
 「おくのほそ道」は芭蕉にとって命をかけた旅だったはずです。それなら、他のたびより何倍もまわりの景色やその時々の出来事を全部人に話せるぐらい頭にたたきこんでいたはずです。
 だから私は、芭蕉が曾良と違うというのは、芭蕉の紀行文が生の旅を思わせるのではなく、「旅」というと思います。

A.全くそのとおりです.中学生でそこまで解釈が到達するのはすごいと思います.参りました.私が,長浜北中のみなさんにお答えしたのは,曾良の日記の方が多分実際を表しているのに対して,芭蕉のそれは旅の文学というフィクションと現実との境のところで表現されているからだと言うことを言いたかったのでした.だから,貴君の意見と全く同感です.細部にこだわる必要は無かったのです.奥の細道で,市振の宿などは曾良の日記には全く現れていません.これはほとんどフィクションでしょう.まさに奥の細道は,日本の紀行「文学」の最高峰に位置するものなのですね.

以上ですが,また勉強して,私をへこませるような質問を寄せてください.それから,ぜひ伊賀にも行ってみてください.おいしい牛肉もあるし服部半蔵のふるさとですから,忍者館もあります.そこで,忍者について勉強してもらうと,やっぱり忍者って藤子先生の漫画の話だけじゃなくて本当にいたんだっていうことが分かってもらえると思います.