芭蕉庵再興の勸化文

隨齋諧話』より抜粋

 


芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。めぐみを数十生に待たんや。廣くもとむるは却って其おもひ安からんとなり。甲をこのまず、乙を恥ること勿れ。各志のあるこゝろに任すとしかいふ。之を清貧とせんや 、將た狂貧とせんや。みづからいふ、ただ貧なりと。貧のまた貧、許子 の貧、それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をさゝへ、風を防ぐそなへなくば、鳥にだも及ばず。誰か忍びざるの心なからむ。是れ草堂建立のより出る所也。

天和三年秋九月

竊汲願主之旨濺筆於敗荷之下      山口素堂


天和2年(1682年)12月28日の(「八百屋お七の」と言われている)大火で焼け出され、甲斐の谷村に疎開していた芭蕉を江戸に帰えすべく、第二次芭蕉庵を建設するための募金の呼びかけ文( 勸化簿)である。出典は、弟子の嵐蘭の姪孫九皐(上州館林の人)の家に所蔵されていたという『隨齋諧話』にあったと言われている。

これに応じて寄金を寄せた者として、楓興十五匁、枳風二朱、嵐雪二朱、文鱗銀一兩、嵐調銀一兩、嵐蘭破扇一柄、北鯤の大瓠一壺等の名前が記されていたという。 他に近所の民衆と思しき人々もいてヨシズ一把、竹1本などというのも含めて、総数52人がこれに応じたという。総額は140匁(現代の貨幣価値にして13万円程度)というから、相当に貧しい。

一文は、いかにも漢籍にうるさい素堂一流の和漢折衷の名文である。