芭蕉自筆本と西村本との異同

 下記における表記: 自筆本 西村本

(芭蕉自筆本を訂正して西村本に改訂したと想定した表現)

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@ 簡単なひらがな文字の漢字変換
例)「うまれ→生れ」「みる→見る」「つたひ→伝ひ」 「をんな→女」「あはれ→哀」「ならひ→習ひ」「ちかし→近し」「ふす→臥す」「よる→夜」「むかし→昔」「こころ→心」
A 難しい漢字のひらがな変換
例)「猶→なほ」「礒→いそ」「湊→みなと」「雎鳩→みさご 」
B 不適切な用字の訂正 
例)「道岨神→道祖神」「仍→依」「処→所」「短尺→短冊」「下→下る(下付カタカナ全廃)」 「左り→左」「火打が城→燧が城」 「大き成→大きなる」「栗といふ文字は西の木と
C 汎用性の高い方の選択 「艸→草」「波→浪」「縁記→縁起」「有→あり」「道→路」「この→此」 「寐→寝」「名残→余波」
D 素龍の趣味か? 「晴れ→霽 れ」「ささへ→小竹筒
E 素龍の転記ミスか? 「有馬→有明」「山中温泉での曾良の句に曾良の名前が落ちている」
F 混乱してる用字例 「舟/船」「涙/泪」「みる/見る」「もの/物/者」
G 芭蕉の学識不足による? 「剛毅木の仁」「智愚気稟の清質」「涙 の石碑」「
H 芭蕉が関与して改めたと思われるもの
例)「予もいづれの年」「弥生も末の七日元禄二とせにやことし元禄二とせにや奥羽長途の行脚」 「草加 と云宿にたどり着にけり」「脇第三とつヾけて巻となしぬ 」「等」 「五月雨や年々て五百たびのこしてや光堂蛍火の昼は消つゝ柱かな」「富るものなれども心ざしさすがにいやしからず都にも折々かよひてさす がに旅の情をも 」

月日は百代の過客にして行かふ
年も又旅人也舟の上に生涯
をうかべ馬の口とらて老をむ
かふるものは日々旅にして
旅を栖とす古人も多く旅に
死せるあり予もいづれの年よりか
片雲の風にさそはれて漂泊
おもひやまず海浜にさすらへ
去年の秋江上の破屋に
蜘の古巣をはらひてやゝ
年も暮春改れば立る霞の空に
白川の関こえんとそヾろがみ
の物につきこころをくる
神のまねきにあひて取
もの手につかずもゝ引の破を
つヾり笠の緒付かえて三里に
灸すゆるより松の月先心
もとなしにかゝりて住る方は人に譲り
杉風が別墅に移るに

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を書て庵の柱に懸置
弥生も末の七日元禄二とせにや
明ぼのゝ空朧々として月は
あけ在明にて光おさまれる物から
不二の峯幽かに えて上野谷
中の花の梢又いつかはと心ぼそし
むつましきかぎりは宵よりつどひて
舟に乗て送る千じゆと云
にてをあがれば前途三
千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別のをそゝぐ

行春や鳥啼魚の目は泪

これを矢立の初として行道
なをすゝまず人々は途中に立
ならびて後かげのみゆるまではと
見送なるべし
此たびことし元禄二とせにや奥羽長途の行脚ただ
かりそめにおもたちて呉天に
白髪の恨を重ぬといへども
耳にふれていまだに見ぬさかひ
若生て帰らばと定なき頼
の末を楽てかけ其日漸草加 と
云宿にたどり着にけり痩骨
の肩にかゝれる物先くるしむ
身すがらにと出立侍を帋子
一衣は夜臥為と云の防ぎゆかた雨
具墨筆のたぐひあるはさ
りがたき花むけなどしたるは
さすがに打捨がたく日々路頭路次
煩となれるこそわりなけれ
室の八に詣同行曾良が曰此神は
木の花さくや姫の神と申て富士一
躰也無戸室に入て焼たまふ給ふ
ちかひのみ中に火出見のみこと
うまれ生れ給ひしより室の八と申又煙を
読習し侍もこの謂也将このしろといふ魚を禁ず
の旨世に伝ふことも侍 し
丗日日光山の麓に泊るあるじの
云けるやう我名を仏五左衛門と云
万正直を旨とする故に人かくは
申侍まゝ一夜の草の枕も打
て休み給へと云いかなる仏の
濁世塵土に示現してかゝる
桑門の乞食順礼ごときの人を
たすけ給ふにやとあるじのな
す事に心をと ヾめてるに唯
無智無分別にして正直偏固
もの也剛毅木の仁にちか
きたぐひ智愚気稟の清質尤尊
ぶべし
卯月朔日御山に詣拝す往昔此
御山を二荒山と書しを空海
大師開基の時日光と改たま
千歳未来をさとり給ふにや今此
御光一天にか ヾやきて恩沢八荒に
あふれ四民安堵の栖穏なり
憚多くて筆をさし置ぬ

と青葉若葉の日の光


黒髪山は霞かゝりて雪いまだ
白し

剃捨て黒髪山に衣更  曾良

同行曾良は河合氏にして惣五郎
と云へり芭蕉の下葉に軒をならべて予が
薪水の労をたすくこのたび松しま
の眺共にせん 事をよろ
び且は羈旅の難をいたはらんと
立暁髪を剃て墨染にさまをか
惣五を改て宗悟とす仍て
黒髪山の句有衣更の二字力あり
きこゆ
 二十廿余丁山を登て滝有岩洞
の頂より飛流して百尺千岩の
碧潭に落たり岩窟に身をひそ
め入て 滝の裏よりればうら
みの滝と申伝え侍る也

暫時しばらくは 滝にこもるや夏の初

の黒ばねと云に知人あれば
これより野越にかゝりて直道を
ゆかんとす遥に一村を見かけて
行に雨降日暮る農夫の
家に一夜をかりて明れば又
野中を行そこに野飼の
馬あり草刈おのこになげきよれば
野夫といへどもさすがに情しらぬには
あらず非ずいかヾすべきやされども此野は
西縦横にわかれてうゐうゐ敷旅人の
道ふみたがんあやしう侍れば
この馬のとヾまるにて馬を返し
給 へとかし侍ぬちいさき者ふたり馬の跡し
たひてはしるひとりは小にて
名をかさねと云聞なれぬ名のやさし
かりければ

かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

頓て人里に至ればあたひを鞍つぼに
結付て馬を返しぬ
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信
おもひがけぬあるじのよろこび日夜語
つヾけて其弟桃翠など云が朝夕勤
とぶらひ自の家にも伴ひて親属の
方にもまねかれ日をふるまゝに
ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ物の
を一見し那の篠原をわけて玉藻の
前の古墳をとふそれより八幡宮に詣
与市宗高扇の的を射し時別ては我
国氏神正八まんとちかひしも此神社
にて侍きけば感応殊しきりらる
暮れば桃翠宅に帰る
修験光明寺と云有そこにまねかれて
行者堂を拝す

夏山に足駄をおがむ首途哉


当国雲岸寺のおくに 仏頂和尚
あり

  竪横の五尺にたらぬ草の庵
   むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍りといつぞや
きこへ聞え給ふ其跡みんと雲岸寺に杖を
曳ば人々すゝんで共にいざなひ若き
人おほく道のほど打さはぎておぼえず
彼麓にる山はおくあるけしき
にて谷道はるかに松杉くろ
苔したヾりて卯月の天今猶寒し
十景尽る所橋をわた つて山門に入
さて
かの跡はいづくのほどにやと後の山に
かけよぢのぼれば石上の小 菴岩窟に
むすびかけたり妙禅師の死
関法雲え法師の石室を見るが

木啄も庵はくらはずやぶらず夏木立

ととりあへぬ一句柱に残侍し
これより殺生石に行館代より馬にて
送らる此口付のおのこ短得させ
よと乞やさしき事を望侍るもの
かなと

野をよこに馬むけよ郭公ほとゝぎす


殺生石は温泉の出る山陰に
あり石の毒気いまだ
ほろびず蜂蝶のたぐひ真砂
の色の見えぬほどかさなり死す
又清水ながるゝの柳は野の
里にありて田の畔に残る此所の郡守
戸部某の此柳せばやなど折 々に
の給ひきこへ聞え給ふをいづくのほどにやと
ひし をけふ今日この柳のかげに
こそ立より侍つれ

田一枚植て立去柳かな


もとなき日かず重るまゝに白
関にかゝりて旅心定りぬ
いかでみやこへと便もとめしも
なり中にも此関は三関の
一にして風そうの人こころをとヾむ
秋風を耳に残しもみぢ紅葉を俤
にして青葉の梢猶あはれ也
卯の花の白妙に茨の花の咲そひて
雪にもこゆるこゝち心地ぞする
古人冠をたヾし正ししょう装を改
し事など清輔の筆にもとヾめ
置れしとぞ

卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良

そう:馬偏に喿 しょう:将の下に衣


兎角とかくして越行まゝにあぶくま川
わたる左に会津根高く右に
岩城相馬箕張三春の庄常陸下野の地をさかひて
山つらなるかげ沼と云所を行けふ今日は空
て物影うつらずか川の
駅に等といふものをたづね
四五日とヾめらる先「白河の関いかに
こえつるやと問長途のくるしみ身-
つかれ且は風景に魂うばゝれ懐旧
に腸を断てはかばかしうおも
めぐらさず

風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがにと語れば
脇第三とつヾけて巻となしぬ
この宿の傍に大きなる栗の木陰をたのみて
世をいとふ僧有橡ひろふ太山もかく
やと閧ノ覚られてものに書付侍
其詞
   栗といふ文字は西の木と
   書て西方浄土に便ありと
   行基菩薩の一生杖にも
   柱にも此木を用給ふとかや

世の人の見付ぬ花や軒の栗


が宅を出て五里計檜皮
の宿を離れてあさか山有より
ちかし此あたり沼多しかつみ刈比
もやゝちかふ近うなればいづれの草を花
かつみとは云ぞと人々に尋侍れども
更知人なし沼を尋人にとひかつみ
かつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ
二本松より右にきれて黒塚の岩屋
一見し 福宿るあくればしの
ぶもぢ摺りの石を尋て忍ぶのさとに行
はるか山陰の小里に石半土に埋てあり
里の童の来りてをしへけるがむかし
この山の上に侍しを往来の人の麦
あらしてこの石を試侍をにくみて
この谷につき落せば石のおもて
ざまにふしたりと云さもあるべき事

早苗とる手もとや昔しのぶ摺


月の輪のわたしを越て瀬の上と云宿に
佐藤庄司が旧跡はひだりの山際一
里半計に有飯塚の里鯖野と聞
尋 ゝ行に丸山と云に尋あたる
是庄司が旧館也麓に大手の跡な
ど人のをしゆゆるにまかせて泪を落
かたはらの古寺に一家の石碑を残
中にも二人の嫁がしるし先あはれなり哀也
をんななれどもかひがひしき名の世に聞
つるものかなと袂をぬらしぬ
の石碑も遠きにあらず寺に入て
ちやを乞へば爰に義経の太刀弁慶が
笈をとヾめて汁物とす

笈も太刀も五月にかざれ帋幟

五月朔日の事也
其夜飯塚にとまる出湯温泉あれば湯に入て宿をかるに
土坐に筵を敷てあやしき貧家也
ともしもなければゆるりゐろりの火かげに
所をまうけてす夜に入て雷
鳴雨しきりに降てふした臥るより
もり蚤蚊にせゝられて眠らず
持病さへおこりて消入計になん短
夜の空もやうやう明れば又旅立ぬ猶
よる名残余波心すゝまず馬かりて桑折
の駅に出はるかなる行末をかゝ え
かゝる病覚束なしといへど羇旅
辺土の行脚捨身無常
の観念道路にしなんこれ
天の命なりと気力聊とり直し
縦横に踏で伊達の大木戸を
こす
あぶみ摺白石の城を過
しまの郡に入れば藤中
将実方の塚はいづくのほどならんと
人にとへば
これより遥右に見ゆる山際の里を
みのわ笠と云道神の社かた
の薄今に侍るありおしゆ此比の五月雨に
道いとあしく身つかれ侍ればよそながら
ながめやりて過るにみのは簑輪しま
五月雨の折にふれたりと

はいづこさ月のぬかり道

岩沼宿*

武隈の松にこそ覚る心地はすれ
根は土際より二木にわかれてむかし
姿うしなはずとしらる先能因法師おも
出往昔むつのかみにて下りし人此
木を伐て名取川の橋杭にせられたる
事などあればにや松は此たび跡もなしとは
たり代々あるはきりあるひは植
などせしと聞に今将千歳の
かたちとゝのほひて、めでたき松のけしきに
なん侍し
  たけくま武隈の松みせ申せ遅桜
   と挙白と云ものゝ餞別したり
   ければ

桜より松は二木を三月越シ


名取川をわたつて仙台に入あやめふ
く日也旅宿をもとめて四五日逗留す
爰に画工加右衛門と云ものあり聊心
あるものと聞て知る人になるこの
もの年比さだか ならぬ名どころを考置
侍ればとて一日案内す宮城野の
萩茂りあひて秋のけしき気色おも
やらる玉田よこ野つゝじがおかはあせび
ころ也日かげらぬ松の林に
入て爰を木の下と云とぞむかし
かく露ふかければこそみさぶらひみ
かさとはよみたれ薬師堂天神の
御社などおがみて其日はくれぬ
猶松塩がまの所々画にかき
送る且紺の染緒つけたる草鞋
はなむけすさればこそ
風流のしれもの爰に至りて
其実をあらは

あやめ草足に結ん草鞋の緒


かの画図にまかせてたどり行ばおくの細道
の山際に十符の菅有今も年々十符の
菅菰を調て国守に献ずと云り
  壷碑  市川村多賀城に有
つぼの石ぶみは高
六尺余横三尺計歟苔を
穿て文字幽也四維国界之数里をしるす此城
神亀元年按察使鎮守将軍大野
朝臣東人之所里也天平宝字六年
参議東海東山節度使同将軍恵
美朝臣あさかり修造而十二月日と有
聖武皇帝の御時にあたれりむかし
よりよみ置る歌枕多くおほくかたり伝ふ
といへども山崩川流て道あらたま
り石は埋て土にかくれ木は
老て若木にかはれば時移り
代変じて其跡たしかならぬ
事のみ至りてうたがひなき
千歳の記念今眼前に古人の心
を閲す行脚の一徳存命の悦
羇旅の労をわすれて泪も落る
ばかり也

あさかり:犭偏に萬


それより野田の玉川沖の石を
尋ぬ末の松山は寺を造
--山といふ松のあひあひ皆墓はら
にてはねをかはし枝をつらぬる
の末も終はかくのごときと
かなしさも増りて塩がまの浦に
のかねを聞五月雨の空聊
はれて夕月夜かすかに籬が
ほどちかあまの小舟こぎつれて
肴わかつこゑ々に
綱手つなでかなしもよみけん歌のこゝろ
しられていとヾあはれ也其夜目盲法
師の琵琶をならして奥上るりと云もの
をかたる平家にもあらず舞にもあらずひ
なびたる調子打ちうち上て枕ちかうかしましけれど
さすがに辺の遺風わすれざるもの
から殊勝に覚らる
早朝塩がまの明神に詣国守再興られて
宮柱ふとしく彩-椽きらびやかに
石の階九に重り朝日あけの玉
がきをかゝやかすかゝる道の果塵土
さかひまで神霊あらたにまします
こそ吾国の風俗なれといと貴けれ
神前に古き宝-燈有かねの戸びら
おもてに文治三年和泉三郎
奇進と有五百年来の俤今目
の前にうかびてそヾろに珍し
渠は勇義忠孝の士也佳
に至りてしたはずといふ事なし誠人能
道を勤義を守て佳 命をおもふべし
名もまたこれにしたがふと云り
日既午にちかし
をかりて松
わたる其間二里余小嶋雄島の磯につく
ことふりにたれどは扶桑第一の好風に
しておよそ洞庭西湖を恥ず
東南より海を入て江の中三里 浙
江の潮をたゝふ々の数を尽して
欹ものは天を指ふすものは波に匍
匐あるは二重にかさなり、三重に
て左にわかれ右につらなる負る
あり抱るあり児-孫愛すがごとし
松のみどりこまやかに、枝-葉汐風に
吹たはめて屈-曲 をのづからためた
るがごとし其気色然として
美人の顔を粧ふ千早ちはや振神のむかし
大山ずみのなせるわざにや造-化の
天工いづれの人か筆をふるひ詞を
尽さむ
小嶋雄島が磯は地つヾきて海にたる也雲
居禅師の別室の跡坐禅石など有将松
の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて落
松笠など打けふりたる草のに住なし
いかなる人とはしられずながら先なつかしく立
寄ほどに月海にうつりて昼のながめ又
あらたむ江上に帰りて宿を求れば窓を
ひらき二階を作て風雲の中に旅する
こそあやしきまでたへなる心地はせらるれ。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとして
いねられず旧庵をわかるゝ時素堂
の詩あり原安適松がうらしまの
和歌をらる袋を解てこよひの
友とす且杉風濁子発句あり
十一日瑞岩寺に詣当寺三十二世の
昔真壁の平四郎出家して入唐
帰朝の後開山す其後雲居禅師
の徳化にて七堂甍改りて
金壁荘厳光を輝仏土
成就の大伽藍とはなれりける
彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる
十二日平泉と心しあねはの松
緒だえの橋など聞伝て人跡
稀に雉兎蒭-蕘の往かふ道そこ
ともわかず終にふみたがへて石
の巻といふ湊に出こがね花咲と
よみて奉たる金花山海上に見わたし
数百の廻船入江につどひ人家地をあらそ
ひて竈のけぶり立つヾけたりおも
かけずかゝにも来れる哉と宿からん
とすれど更宿かす人なし漸
まどしき小家に一夜をあかして
明れば又しらぬ道まよひ行袖の
わたり尾ぶちの牧まのゝかやはら
などよそめにみてはるかなる
堤を行心ぼそき長沼にそふて
戸伊摩と云所に一宿して平泉に
る其間二十廿余里程とほどゝおぼ
三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は
一里こなたに有秀衡が跡は田野
なりて金鶏山のみ形を残す
先高館にのぼれば北上川南部より
流るゝ大河也衣川は和泉が城を
めぐりて高の下にて大河に落入
衡等が旧跡は衣が関を隔て
南部口をさしかたゑぞをふせぐと
みえたりも義臣すぐ つて此城に
こもり功名一時の草村となる
国破れて山河あり城春にして
青々草青みたりと笠打敷て時のう
つるまでなみだを落し侍りぬ

や兵どもが夢の跡

花に兼房みゆる白毛かな   曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す経堂は
三将の像をのこし光堂は三代の棺を
三尊のを安置す七宝散うせて
の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽て
既頽廃空虚の草村るべきを
四面新に囲て甍を覆て風雨を凌
暫時千歳の記念とはなれり

五月雨や年々て五百たびのこしてや光堂

蛍火の昼は消つゝ柱かな


南部道はるかやりて岩手の
里に泊る小黒崎みづの小を過て
なるごの湯より尿前の関にかゝ
りて出羽の国に越んとす此
旅人稀なるなれば関守に
あやしめられて漸して関を
こす大山をのぼ つて日既暮け
れば封人の家を見かけて舎
を求三日風-雨あれてよし
なき山中に逗留す

蚤虱馬の尿する枕もと

あるじの云これより出羽の国に
大山を隔て道さだかならざれば
道しるべの人を頼て越べきよしを
申さらばと云て人を頼侍れば
-竟の若もの者反脇指をよこた樫の
杖を携て我々が先に立て行
けふこそ必あやうきめにもあふべき
日なれと辛き思ひをなして
後について行あるじ の云にたがはず
高山森々として一鳥声きかず木
の下闇茂りあひて夜行がごとし
雲端につちふる心地して篠の中踏分
踏分水をわたり岩につまづい
肌につめたき汗を流して最上の
庄に出かの案内せしおのこの云やう
このみち必不用の事有つゝがなうをく
まいらせて仕合したりとよろこびて
わかれぬ跡に聞てさへ胸とヾろく
のみ也
尾花沢にて清風と云ものを尋ぬ
かれは富るものなれども心ざしさす
がにいやしからず都にも折々かよひて
さす がに旅の情をもしりたれば日比とヾめて
長途のいたはりさまざまもてなし侍る

涼しさを我宿にしてねまる也

這出よかひやが下のひきのこゑ

まゆはきを俤にして紅粉の花

飼する人は古代の姿すがた   曾良


山形領に立石寺と云山寺あり
慈覚大師の開にして殊清閑の
地也一見すべきよし人々のすゝむるに
て尾花沢よりとつて返し其間
七里ばかりなり日いまだ暮ず麓の
坊に宿かり置て山上の堂にのぼる
岩に岩尾を重て山とし松栢年ふり
土石老て苔なめらかに岩上の院々
扉を閉て物の音きこえず岸をめぐり
岩を這て仏閣を拝し佳景寂寞
としてこゝろすみ行のみおぼ

閑さや岩にしみ入蝉の声


もがみがわ最上川のらんと大石田と云
日和を待爰に古き俳諧のたね
こぼれてわすれぬ花のむかしを
したひ 芦角一声の心をやはらげ此
道にさぐりあして新古ふた道に
ふみまよふといへどもみちしるべする人し
なければとわりなき一巻残しぬ
このたびの風流 爰にいたれり
最上川はみちのくより出て山形を
水上とすごてんはやぶさなど云お
そろしき難所有板敷山の北を
流て果は酒田の海に入左-右山
おほひ茂みの中に船を下
これを是にいなふね稲つみたるをや、いな船いふならし。白糸の 滝は青葉
の隙々に落て仙人堂岸に臨て立
水みなぎつて舟あやうし

さみだれ五月雨をあつめて早し最上川


六月三日羽黒山に登る図司左吉
と云ものを尋て別当代 会覚阿
闍梨に謁す南谷の別院に舎して
憐愍の情こまやかにあるじせらる
四日本坊にをゐて俳諧興行

有難や雪をかほらす南谷

五日権現に詣当山開闢能除大師は
いづれの代の人と云事を知らず
延喜式に羽州里山の神社と有書
黒の字誤て里山となせるにや羽
州黒山を中略して羽黒山と云にや
出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。
月山湯殿を合て三山とす当-
-江東-叡に属して天-台止-観の
月明らかに円-頓融-通の法の 燈かゝげ
そひて僧坊棟をならべ修-験行-
法を励し霊-山霊-地の 校-人貴
且恐-栄長にして目出めで度御山
つべし
八日月-山にのぼる木綿しめ身に引かけ
-冠に頭を包強-力と云ものに
道びかれて雲-霧山-気の中に
-雪を踏てのぼる事八里更に
-月行-道の雲-関に入かとあやしまれ
息絶身こヾえて頂-上にれば
日没て月あらわる笹を鋪篠を
枕として臥て明るを待日出て雲
消れば湯殿に下
谷の傍に鍛冶小屋と云有此国の鍛-
冶霊-水を撰て爰に潔-斎して
を打終月-山と銘を切て世に
賞せらる彼竜-泉にを淬とかや
干将莫耶のむかしをしたふ道に堪
能の執あさからぬ事しられたり
岩に腰かけてしばしやすらふほど
三尺ばかりなる桜のつぼみ半ひらける
ありふり積雪の下に埋てはる春
れぬ遅ざくらの花の心わりなし
炎天の梅-花爰にかほるがごとし
行尊親王僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ
此山-中の微-細行者の法式として
他言する事を禁ず仍て筆をとヾめて
しるさず
坊に帰れば阿闍梨の
-山順-礼の句々短に書

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道のなみだかな   曾良

剣:「金」偏に又

羽黒を立て鶴が岡の城下長山氏
重行と云ものゝ物のふの家にむかへられて
俳諧一巻有左吉も共に送りぬ
川舟に乗て酒田のみなとに下
淵庵不玉と云医師の許を宿とす

あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ

暑き日を海にいれたり最上川


-山水-陸の風光数を尽して今象
方寸を責酒田の湊より東-
北の方山を越礒をつたひいさごをふ み
て其際十里日影やゝかたぶく比
汐風真砂を吹上雨朦-朧として
鳥海の山かくる闇-中に莫-作して
雨も又奇なりとせば雨後の晴-色又
頼母敷と蜑の苫屋に膝をいれて雨の
るゝを待其朝天能て朝日
花やかにさし出る程に象潟に舟をうかぶ
先能因に舟をよせて三年幽
居の跡をとぶらひむかふの岸に舟
をあがれば花の上こぐとよまれし
桜の老木西行法師の記念をのこす
江上に御陵あり神功皇宮の
御墓と云寺を干満珠寺と云
この処に行幸ありし事いまだ
ずいかなる故ある事にや此寺の
方丈に座して簾を捲ば風景
一眼の中に尽て南に鳥海天を
さゝ其陰うつりて江にあり西は
むやむやの関路をかぎり東に堤
を築て秋田にかよふ道遙に海北に
かま打入るゝ処を汐こしと云
江の縦横一里ばかり俤松
かよひて又異なり松しまわらふがごと
はうらむがごとしさびしさに
かなしみをくはえて地勢魂をなや
ますに似たり

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

祭礼

象潟や料理何くふ神祭   曾良

蜑の家や戸板を敷て夕すヾみ   美濃の国商人 低耳

岩上に雎鳩みさごの巣を見る

波こえぬ契ありてやみさごの巣   曾良


酒田の余波日を重て北陸道の
雲に望 遙のおもひ胸をいた
ましめて加賀のまで百三十
里と聞鼠の関をこゆれば
越後の地に歩行を改て越中
の国一ぶりの関にる此間九日
暑湿の労に神をなやまし病こりて
事をしるさず。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河


けふ今日は親しらず子しらず犬もどり駒返し
など云北国一の難所を越てつかれ
侍れば枕引よせてたるに一間隔て
面の方に若きをんなの声二人計ときこゆ
年老たるおのこの声も交て物語する
をきけば越後の国新と云
遊女成し伊勢参宮するとて
此関までおのこの送りてあすは古
かへす文したゝめはかなき言伝など
しやる也白のよする汀に身をはふら
かしあまのこの世をあさましう下りて
定めなき契日々の業因いかにつた
なしと物云を聞々きくきく入てあし
た旅たつに我々にむかひて
しらぬ旅路のうさあまり覚
束なう悲しく侍れば見えがくれに
も御跡をしたひ侍ん衣の上の御情
に大慈のめぐみをたれて結縁せさ
せ給へとなみたを落す不便の
事にはおもひ侍れども我々は
所々にてとヾまる方おほし
人の行にまかせて行べし
神明の加護かならずつゝがなかる恙なかる
しと云捨て出つゝあはれ
しばらくやまざりけらし

一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば書とヾめ侍る
くろべ四十八瀬とかや数しらぬ川を
わたりて那古と云浦に出担籠の藤
は春ならずとも初秋のあはれ
とふべきものをと人に尋れば是より
五里いそつたひしてむかふの山陰にいり
蜑のぶきかすかなれば蘆の一夜の宿
かすものあるまじといひをどされて
かヾの国に入

わせの香や分入右は有


卯の花山くりからが谷をこえて金
沢は七月中の五日也爰に大坂より
かよふ商人何処と云ものありそれが
旅宿をともにす
一笑と云ものは此道にすける名の
ほのぼの聞て、世に知人も侍しに去年
の冬早世したりとて其兄追善
を催

塚もうごけ我泣声は秋の風

ある草庵にいざなはれて

すゝしし手毎にむけや瓜天茄茄子

途中唫

あかあかと日は難面もあきの風


此所太田の神社に詣斎藤別
当真盛実盛が甲錦の切あり
源氏に属せし時義朝公より 給はらせ給とかや
げにも平士のものにあらず目庇より
吹返しまで菊からのほりもの金
をちりばめ 竜頭に鍬形打たり
真盛討死の後木義仲願
状にそへて此社にこめられ侍
よし 樋口の次郎が使せし事共
まのあたり縁にみえたり

むざんやな甲の下のきりぎりす


山中の温泉に行ほど白根が嶽
跡にみなしてあゆむ左の山際に
観音堂あり花山の法皇三十三所
の順礼とげさせ給ひて後大慈大悲の
像を安置し給ひて那谷と名付給ふと也
那智谷の二字をわかち侍しとぞ
-石さまざまに古-松植ならべて
萱ぶきの小堂岩の上に造り
かけて殊勝の土地也

石山の石より白し秋の風


温泉に浴す其功有に次と云

山中や菊はたらぬ湯の匂

あるじとするものは久米之助とて
いまだ小童也かれが父俳諧を好
洛の貞室若輩のむかし爰に
来りし比風雅に辱しめられて洛
に帰て貞徳の門人となって世に
しらる功名の後此一村判詞の料を請ず
と云今更むかし語とはなり
曾良は腹を病て伊勢の国長
と云にゆかりあれば先立て
行に

ゆきゆき行行てたふれ伏とも萩の原  曾良

と書置たり行ものゝ悲しみ残る
ものゝうらみ隻のわかれて雲に
まよふがごとし予も又

けふ今日よりや書付消さん笠の露


大聖持の城外全昌寺といふ寺に
とまる猶かゝ加賀の地也曾良も前の
夜此寺に泊て、

終宵秋風聞やうらの山

と残一夜の隔千里におなし同じ
も秋風を聞て衆寮に臥
明ぼのゝ空ちかふ近う読経聞こゆる声すむまゝ鐘板
鳴て食堂に入けふは越前の
国へと心早卒にして堂下に下るを
若き僧ども紙硯をかゝえ て階の
もとまで追来折節庭中の
柳散れば

庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬ一句さまして草鞋ながら書捨
越前の境吉崎の入江を舟に
して汐越の松 を尋終宵嵐に波をはこばせて
 
   月をたれたる汐越の松   西行
この一首にて数景尽たりもし
弁を加ものは無用の指を立るがご
とし
丸岡天竜寺の長老古き因あれば
尋ぬ又金沢の北枝といふものかりそ
めに見送りて此処までしたひ来所々
の風景過さずおもひつヾけて
折節あはれなる作意など聞ゆ
今既別に望みて

物書て扇引さく名残余波

五十丁山に入て永平寺を礼す道元
禅師の御寺也邦機千里を避て
かゝる山陰に跡を残しのこ し給ふも貴き
ゆへ有とかや

福井は三里計なれば夕飯した
めて出るにたそかれのたど
たどし爰に等栽と云古き
隠士有いづれの年に江戸に
来りて予を尋遙十とせ余り也
いかに老さらぼひて有にや将死け
るにやと人に尋侍ればいまだ
存命してそこそことをし
市中ひそかに引入てあやしの
小家に夕貌へちまのはかゝり
頭はゝ木ヾに戸ぼそをかくすさて
は此うちにこそと門を扣ば侘し
げなる女の出ていづくよりわたり
給ふ道心の御坊にやあるじは
このあたり何がしと云ものゝ 方に行
ぬもし用あらば尋給へといふかれが
妻なるべしとしらるむかし物
がたりにこそかゝる風情は侍れと
やがて尋あひてその家に二夜
とまりて名月はつるがのみなと
たび立等栽も共に送らんと裾
おかしうからげての枝折とうかれ

漸白根が嶽かくれて比那が
嵩あらはるあさむづの橋をわ
たりて玉江のは穂に出けり
鶯の関を過て湯尾峠を越れ
火打が城か へるやまに初雁を聞
て十四日の夕ぐれつるがの津に
宿をもとむ
その夜月殊晴たりあすの夜もかく
あるべきにやといへば越路のなら
明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに
酒すゝめられてけいの明神に夜参す
仲哀天皇の御 廟也社頭神さびて
松の木間に月のもり入たるおまへの
白砂霜を敷るがごとし往昔
遊行二世の上人大願発起の事
ありてみづからを刈土石を荷
泥渟をかはかせて参詣往来の煩
なし古例今にたえず神前に
真砂を荷ひ給ふこれを遊行の砂持と
申侍ると亭主のかたりける

月清し遊行のもてる砂の上

十五日亭主の詞にたがはず雨降

名月や北国日和定なき


十六日空たればますほの小貝ひろ
はんと種の浜に舟を走海上七
里あり天屋何某と云もの破籠ささ
小竹筒などこまやかにしたゝめさせ僕あ
また舟にとりのせて追風時の
に吹ぬ浜はわづかなる海士の小家
にて侘しき法寺あり爰にちや
のみ酒をあたゝめて夕ぐれのさびしさ
感に堪たり

さびしさやすま須磨かちたる浜の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

其日の日記あらまし等栽に筆をとらせて
寺に残
露通もこのみなとまで出むかひてみのゝ
国へと伴ふ駒をはやめにたすけられて大垣の
庄に入ば曾良も伊勢より来り
越人も馬をとばせて如行が家に
入集る前川子荊口父子其外
したしき人々日夜とぶらひてふた
たび蘇生のものにあふがごとく且
よろこび且なげきていたはる旅のものうさも
いまだやまざるに長月六日になれば
伊勢の遷宮おがまんと又ふね
のり

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


 従来、「岩沼に宿る」として、笠島の末尾にあったとした一文だが、真蹟本では、全体のバランスは欠くものの「武隈の松」の章見出しの役割を負っていたらしい。素龍の独断によるものか、芭蕉も承認したものかは不明