徒然草(下)

第206段 徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、


 徳大寺故大臣殿*、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に*、官人章兼が牛放れて*、庁の内へ入りて、大理の座の浜床の上に登りて*、にれうちかみて臥したりけり*。重き怪異なりとて*、牛を陰陽師の許へ遣すべきよし*、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて*、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし*」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり*。あへて凶事なかりけるとなん。

 「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る*」と言へり。

徳大寺故大臣殿:<とくだいじのこおおいとの>。藤原公孝。1267年から約2年検非違使別当に就任。検非違使別当とは現在の最高検察庁長官に相当の職。

中門にて使庁の評定行はれける程に:この中門は徳大寺の中門で、徳大寺亭を検非違使庁に流用していたという。だから、「父の相国」にすぐ訊けたのである。

官人章兼が牛放れて:<かんじんあきかねがうしはなたれて>。下級官僚の中原章兼という男が乗ってきた牛車の牛。 。

大理の座の浜床の上に登りて<だいりのざのはまゆかのうえにのぼりて>と読む。「大理」は検非違使の別当の唐名。「浜床」は、寝殿の母屋<もや>に設けた貴人の座臥<ざが>のための方形の台。上に畳を敷き、四隅に柱を立て帳<とばり>をかけて帳台とする(『大字林』より)。牛は、恐れ多くもこの「浜床」の上に上ってしまった。

にれうちかみて臥したりけり:反芻<はんすう>しながら臥せっていた。

重き怪異なりとて:重大な怪事件であるというので 。

牛を陰陽師の許へ遣すべきよし:「陰陽師<おんようじ>」は、陰陽寮に属し、占筮(せんぜい)・地相判定などをつかさどった人。

父の相国聞き給ひて:公孝の父大徳寺実基で。 建長5年(1253)11月より建長6年2月まで太政大臣を歴任。この事件の時にはすでにそのポストにはなかった。

尫弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし<おうじゃくのかんじん、たまたましゅっしのびぎゅうをとらるべき・・>と読む。薄給の貧乏役人が、出仕に使ったやせ牛を没収する必要などないではないか。

臥したりける畳をば換へられにけり:牛が寝ていた所の畳を取り替えて一件落着とした。

怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る:怪しいことを見ても、怪しいと思わなければ、怪しさも怪しくはなくなってしまう。中国の諺から引用(怪を見て怪しまざれば、その怪、自ずから壊る)。


 「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」は、なかなかの太っ腹であった。それにしても、このときの尫弱の官人なる者の狼狽ぶりはいかばかりであったろう??


 とくだいじのこおおいとの、けんびいしのべっとうのとき、ちゅうもんにてしちょうのひょうじょうおこなわけるほどに、かんにんあきかねがうしはなたれて、ちょうのうちへいりて、だいりのざのはまゆかのうえにのぼりて、にれうちかみてふしたりけり。おもきけいなりとて、うしをおんようじのもとへつかわすべきよし、おのおのもうしけるを、ちちのしょうこくききたまいて、「うしにふんべつなし。あしあれば、いずくへかのぼらざらん。おうじゃくのかん にん、たまたましゅっしのびぎゅうをとらるべきようなし」とて、うしをばぬしにかえして、ふしたりけるたたみをばかえられにけり。あえてきょうじなかりけるとなん。

 「あやしみをみてあやしまざるときは、あやしみかえりてやぶる」といえり。